第5話第二部第2章金魚たち

第一節 マナちゃんとシモーヌ

 同じ場所をぐるぐる回りながら、マナちゃん、シモーヌ、そして俺は仲良く泳ぐ金魚みたいだ。

「そうかもしれない。」

マナちゃんがそう言って、俺とシモーヌを交互に見つめた。朝から続く雨は、より一層に激しさを増していた。正直なところ、俺はエロい。こんな情緒ある茶室で激しい雨音の中で、シモーヌと二人っきりこれでもかってくらいにエロいことをしたかった。でも、マナちゃんが今はいる。マナちゃんには悪いけど、気を利かせてさっさと帰って欲しかった。大体、来てからもずっとリサのことが気がかりだ。さっさとやることやって帰りたい。3人でやるような趣味はないし、シモーヌ以外とやるのは俺の死を意味することに匹敵する。だから、前もって言っておくが、マナちゃんがどんなに日本画に出てきそうな美人であっても、マナちゃんの方がシモーヌより柔らかそうでも、俺はこの物語の中で、マナちゃんとはやらない。以前、話した中学生時代は別として。だから三流以下の官能小説的なことをこの3人でやらかしたのを少し想像したが、すぐ辞めた。第一、そんなことにはならなかった。マナちゃんが襲ってくるのを想像したりもしかけたが、実際には、そんなことは起こらなかった。

マナちゃんは俺たちに、静かに川嶋さんのことを話し始めた。話のマナちゃんは中学生の俺が知っていたマナちゃんではなく、かなり、したたかな女のマナちゃんだった。

「叔父さんは、簡単に言うと、鬱だったのよね。あの頃から。」

「ふーん。そっか。サルトルがいたから、まだなんとか生きてたんだろうと思うわ。だから、マナさんのせいじゃないわね。私のせいだと思う。私が、馬鹿みたいにサルトルをねだらなかったら、きっと、まだ生きてた。」

「どうかな。」

まるで、遠くの外国のラジオ放送をマキコで、前にも言ったがマキタのマキコだ、聴いているかのように、2人のやりとりをそこまで聴くと、俺は深々と深呼吸した。

***

 激しい痛みは、何故か今日は感じない。体全身をぐったりと腐らせていくかのような倦怠感だけはある。砂漠の砂嵐の中、海辺の小さなビル2階のパンケーキ屋さん、いつも人が並んでいる美味しいカレー屋さん、緑しか見えないジャングルの中、僕はガラス越しに色んな風景を見てきた記憶がある。もしかしたら、何かの本で読んだだけの風景かも知れない。痛みがないから、今日ナイチンゲールがきたら、とびきりの泳ぎを見せてあげたい。僕が腐って意識すらなくなるのはきっと時間の問題だ。ナイチンゲールにも僕の見てきたことを教えてあげたい。きっとそうしたら、あの子の翼の傷も良くなるし、大きな鳶にやられたりなんかしない。

***

 俺は雨がずっと止まなければいいのにと思った。心のどこかで、マナちゃんがシモーヌに中学時代の俺らの関係を言うんじゃないかとも心配していた。そんな馬鹿げた心配は的中した。哀れにも俺とのやりとりをすべてマナちゃんは告白してしまった。

「マナさんはサルトルのこと、何も知らない。それはセックスしてたとしても。」

「あたしは、少なくとも、その頃のあたしは、あなたよりは、知ってたわよ。サルトルくんともしたし、それはどうってことなかった。あたしにとっては。サルトルくんが他の人たちとなにがちがうのか知りたかったの。あなたは、そのころ多分まだほんの小さな女の子だったんでしょうけど。あたしたちはそうやって大人になっていったわ。あたしは今も一人で生きて誰にも迷惑かけないように頑張ってる。たくさんの音楽もたくさんの本もたくさんの旅行もしたわ。」

「ふーん。そんな風にして強がってるから結婚できないんだよ。頭でっかちで可愛げがないもの、わざと知識をひけらかしてみたりだとか、何かに欲求不満なくせに。それにハスに物事見てそうだし、このまんまいくと、三十路のイヤミなお局みたいになっちゃうわよ?マナさん。とても綺麗だけれど。上部の友達しかいなくて寂しそうだ。」

「あは、随分とズケズケ言うのね。でも、当たってる。それに、正直に言ってくれて、少し、嬉しい。」

 俺は今すぐ、シモーヌの腕を掴んで、家に帰りたかった。大体、10数年ぶりに再会したマナちゃんであって、シモーヌには関係ない。たとえ、マナちゃんが中学の頃の俺らの言わなくていいことを言ったとしてもだ。俺の奥さんがズケズケ言う権利なんてどこにもない。

「シモーヌ、言い過ぎやよ?ごめんマナちゃん。うちら帰るわ。」

「マナさんは、私に正直になることを約束したの。それに、そのことを守ってくれているわ。私は確かに小さな女の子でしかなくて、サルトルのその時のことをすくなくとも、マナさんより知らなかったかもしれない。でもね、私は、サルトルの背中で泣いていたとき、ナイチンゲールが私にお話してくれたことが、今起きている、ってわかったの。だから、マナさんが思っているほど、私はサルトルのこと、無知でもなかったのよ?」

「ごめんね、マナちゃん、シモーヌは、時々こういう感じで、風変わりな話し方をするんやけど、彼女なりにちゃんと、理由があんねん。悪く思わんといてな。」

「いいのよ、謝らないで。シモーヌさんに言われたこと、多分当たってる。全部。こんな風に言われたことなかったから少し落ち込んじゃうけどさ。あたし、今日、シモーヌさんに会えて良かったわ。このノート置いていくわね、もうきっと、あたしには必要ない。シモーヌちゃん、あたしみたいなおばさんと友達になってくれないかな?」

「いいよ、それに私たちはもっと前からきっと友達よ。玄関で会った時よりも、もっと前からね。」

「ありがとう。」

そう言って、マナちゃんは俺たちを茶室に残し、雨の中、帰っていった。

「リサが多分、ママとパパ遅いなーって思っとるやろうし、カーチャンも疲れとるやろうし、帰ろうや。」

「このノートまだ半分くらいしか読んでない。」

「そんなんどーでもええやんけ。はよ帰ろ。リサが心配やねん。」

「このノート置いてかないとだめかな?」

「当たり前やろがい。それ、シモーヌのやなくて、川嶋さんと、マナちゃんのやろ。」

 ノートの続きを読みたそうにするシモーヌを急かし、俺たちは家へと帰った。時刻はもうとっくに4時を回っている。

第二節 火曜日

 俺が裕介と久しぶりに会ったのは、翌日シモーヌの弁当をトラックで食べている時だった。

「よ、」

不意打ちのように、俺のトラックの助手席に勝手に乗り込んできた。裕介とはよくLINEでやりとりはしていたが、お互いに忙しくあまり会っていなかった。

「お前、なんでここにおんねん」

「今週、仕事飛んだから、久しぶりに新米パパの憂鬱ぶりを確かめようと思って来た。親父さんに聞いたら、ここ教えてくれたからさ。まあ、最近、調子はどうっすか?おとーさん?」

「んー、あんま夜泣き、あんまというかほとんどないねんなー、シモーヌもお前に会いたがってるよ。なんせ、顔が俺のコピーやねん。めっちゃ可愛い。」

「そらそうだ。もう、3ヶ月?だっけ?6ヶ月だったか3ヶ月だったか忘れたけど人見知りとかもし始めたっけな。3番目も2歳だから忘れたわ。何しろ、こっちが勉強させられるっしょ?」

「うん、まじでそう。俺ほんまにお前のこと尊敬するわ。お前、すげーよ。3人もみて来たってほんまにすごい。」

「志穂さんもパート出てたからねー。結構半分半分だけど育児家事。一番きつかったのって、やっぱり最初の子かなぁ。熱少しでもあると、速攻で呼び出されるわ、保育園からね。んで、休みの日の夜中に熱出して、初めての子だからさ、めちゃくちゃ慌てて、夜間の病院連れてったりとか。2人目3人目からは、志穂さんも専業主婦になってくれて呼び出されるのはなくなったし、ある程度、要領わかってきたから、楽にはなったけど、性格がなー、3人とも違うんだよね。当たり前だけど。兄弟なのにさ、全然ちがう。おまけに、上と真ん中は最近よく喧嘩するし。」

 そう俺に話す裕介は、とてつもなく幸せそうに見えた。そして、大きく温かい何かが増えていた。

「へー、俺まだ新米の見習いやから、お前頼むわ。色々聞かしてな?」

「愚痴くらいしかないけどそれで良ければ。なんかさー、変な古本屋をうちの志穂さんが引き取っちゃったんだよね。んで、その古本屋に俺、一度見たいって思ったから、この前、行ったんだわ。しばらくしたら、また古本屋再開して、志穂がやるから、再来月くらいに少しリフォーム頼めないかなーってね。台所周りと、その勝手口。あと、屋根も見てほしい。屋根の足場は俺やるから。ちゃんとこれはなぁなぁでなく見積もり取っていいからさ。結構古い古民家。」

「どこの?」

俺は辻堂のナイチンゲールじゃないことを願った。

「辻堂だから、近くよ。」

「あのな?ナイチンゲールとかゆわんといてな?」

「お前、知ってんの?ナイチンゲール。」

「うん。ちょっと色々とあった。変な意味でなく。それに昨日、行ったし。」

俺は昨日の出来事を裕介に話した。マナちゃんと10数年ぶりに再会したこと、マナちゃんの叔父が持ち主だったこと、シモーヌとマナちゃんが友達になったこと、若草色のノート以外のことを話した。

「そうだったんだ?何か見つけた?期待の新鋭画家の」

「あ、いや、特には。マナちゃん相変わらず、綺麗やったよ。なら、志穂さんが鍵とかもっとるん?今。現調、今度暇な時済ませときたい。」

「そうね。志穂が持ってる。」

 俺たちは何もノートのことを話さなかった。けれど、幼馴染の俺たちにはお互いにわかっていたと思う。ノートをお互いに既に読み終えており、それが川嶋さんの大事な日記であることを。

「今日は昨日と違って晴れてんねー。気持ちいい。志穂には合鍵作ってサルトルに渡すように言っとく。じゃあグリーンマートで買い物してくわ。あ、もしなんか見つけてもさ、そのまま、大事に、置いておいて。川嶋さんのきっと思い出だろうからさ。それと、今週末の土曜にポーカー教えてよ。飲みながらさ。リサちゃんにも会いたいし。うちの子たちも連れていこうかなー。いい?」

そう言うと、裕介は馬鹿げたくらいに突き抜けた青空の中、八百屋へと向かうため、トラックを後にした。

 不思議なくらいに、裕介はマナちゃんのことを聞かなかった。きっとどうでもよかったんだろう。あいつには今あいつの生活がある。俺よりも何倍もきっと、色んな日常のことで精一杯だ。土曜の夜久しぶりの飲みを何となく楽しみにした。夕方、志穂さんが裕介の代わりに現れた。

「サルトルくん、これ、合鍵ね。裕介くんから渡すように言われたから。サルトルくんはさ、川嶋さんの小説見つけたよね?」

「ん?小説って?何?」

俺はシラを切ったが、志穂さんはそれを見透かしたかのように続けた。

「ウグイス色のやつ。あれは、小説よ。でも、川嶋さんのとても大切な。最後まで読んであげて欲しい。そして、忘れて欲しい。読んだ行為を。読んだ記憶だけ残して。」

シモーヌのような口ぶりだった。あの日記のどこにそんな価値があるのか俺には理解出来なかったが、シモーヌも取り憑かれたかのように気にしていた。ただの官能小説みたいなくだりさえある文章だ。マナちゃんとの。

第三節 すれ違い

 サルトルと付き合って2ヶ月ちょっと経つ。私とサルトルは結局鎌倉にサルトルがいれる最後の夕方、色々あって、普通の恋人たちのように、色々と終わらせた。私はサルトルが夢中になってる間中ずっとサルトルの顔を見せられていた。前の彼女に顔をまともに見れなかったとか言われてトラウマになったらしい。それでわたしの首筋を押さえてずっと私の顔をサルトルの顔のあたりにくるようにされていた。なんだか、こうやって言葉だけを頭の中で並べると、とてもSM的なセックスだけど実際にはそうでもない。すぐに遠距離恋愛というやつが始まった。私はその間、仙川の大学まで通ったし、サルトルとその日あったことや音楽について、サルトルの試験準備のこととかを話たりしていた。大工さんでも建築士の試験を受けて自分で素敵な家を最初から最後まで責任持ってやりたいってのがサルトルの試験を受ける理由だった。

「取ったら、お金持ちになれるの?」

「どーやろか。親父も持っとるけど、持ってるからどうこうってのより、お客さんよりも関連会社さんからの信頼みたいなのがちゃうらしい。俺、これ取って、しばらくしたら、親父の会社引き継ぐから、待っててな?」

「うん。何で今じゃだめなの?」

「一応、こっちのおやっさんには10年近くお世話になっとるから、まだ何も恩返しできてないし、来年で10年になるねんな。そんで、おやっさんに色々これからのこととか話をちゃんとしてからにしんと。」

「そっか。」

サルトルはなんだかんだで、結構現実的だった。5年後にはこうしていたいから、こうしてあーして、だから、今、これしてる。ってのをよく話してくれてたし、実際にそうしていた。学生の私にはとてつもなく違う世界のような話だったけど、最後には必ず「全部シモーヌがにこにこできるよーにって為やから。」と締め括られて、私は納得したフリをしていた。

「でもさ、大工さんで建築の一級なんているの?」

「多くはないけど、ぼちぼち、おる。大体は、二級で止めとる人たち多い。ゆうても、俺なんかよりははるかにえらいけどな?腕とか。実際に必要なのは二級で十分やからね。それに、俺、おやっさん(神戸の叔父)と約束してもーたし、一級とって親父見返したるって。俺は親父に並びたい。親父さんの時はーって会社引き継いだあと言われたくもないし、親父のもっとるもんは、なんせ取るかなー。スーパーゼネコンとかやと、石投げて当たったら、みんな持っとるんかもしれんけど、現場知らんやろ。大体、家やなくて、コンクリやん、あの人らのは。俺は木が好きやから、親父みたいに取ってそんで木の家だけ作りたいねんな。お寺さんの仕事とかもたまに親父しとるやんな?お寺さんのやる人ら大体持っとるし、息子の代になってから変わったとかつまらんこと言われたくないし、馬鹿にされとーないし、とにかく、挑戦あるのみよ」

「ふーん、それで私は一年以上これからずっと遠距離なわけか。」

「ごめんやけど、わからんくても、まあ、わかって。絶対俺お前のために頑張るから」

「へー、まあ、頑張って。ありがとう。」

夏が過ぎて冬になって春がきて、また夏が来た時の会話。

学科の試験は合格したってそのあと連絡があった。

夏の会話以来、私は自分から連絡はしなくなっていた。身勝手すぎると何故か思い込んでたから。

秋の連絡も、「良かったじゃん」とだけ返信した。

冬に合格発表があって、意気揚々と合格の電話をしてきたサルトル。私は、「今、西麻布きてるから、また後で。」と言って切ってしまった。いつも傲慢で無闇矢鱈にポジティブで、やりたいようにして生き生きとしているサルトルが羨ましかったと同時に、鬱陶しくもあり、時には敵のようにも見えた。僻んでいたんだ。素直に正直に言うと。だから、素直に、おめでとうなんて言えなかった。私と3歳半しか年上じゃないのに、私は学生で、学内コンクールで失敗して以来、ピアノも惰性でやってたし、明らかに、負けてた。私自身を甘やかしてたのも知ってる。だから、サルトルといるのが辛くなったんだと思う。今考えても、すごく嫌な女の子だったと思う。堕落していくだけの私と、前に突き進もうとするサルトル。堕落した私はサルトル以外の男の子ともデートした。どうだっていい。建築士になったって、ならなくたって、そばにいてくれなかったし、また待ちぼうけだし。ぐうたらな私が、こんな気持ちをポジティブ野郎のサルトル先生に話すのは気が引ける。サルトルは15歳で働き始めて夜間の高校に通った。私には何一つ教えてくれなかった。行く前に。それから10年近く毎日いつも朝早くから肉体労働、夜は勉強と、頑張ってきてた。だから、何も言う資格、私になんかない。すごいよ。よくやってるよ。って言ってあげたかったけど、素直に言うと平等でいれなくなっちゃいそうで怖かった。だから、避けるようになった。本当は心の底からそばにいて欲しかったのに。


 そんなことを長々と、金魚を見ながら、サルトルが帰ってきてから話した。最後の方では多分支離滅裂に泣き叫んで訴えてたと思う。ひとしきり話終えるまで、じっと私を見てくれてた。

「シモーヌは何で俺やなくて金魚ばっか見とるん?」

「だってそうでもなきゃ話せないよ。こんなみっともないくだらないプライドで一年近く私から連絡しなくなっちゃった理由なんかさ。」

「でも、それ、過去やろ?今はちゃうやんけ。そん時おってあげれんかったのも、遠距離続けたのもごめんやし、シモーヌがほかのわけわからん奴と遊びに行ったのも水にとっくの昔に流したやん?何でおんなしところをぐるぐるしとるん?俺やなくてシモーヌが金魚さんになっちゃうよ?金魚のシモーヌやん。俺、ナイチンゲールに昇格やんな?志穂さんとか、『死ぬこと以外何でもない』とかゆうとったんやろ?あれ、ほんまやと思う。特に3人子育てしとる志穂さんが言っとるんやったら、そこら辺のウンチク名言野郎よか説得力ありまくりやわ」

たしかにそうかもしれない。

わかってる。そんなの。私は志穂さんみたいに強くない。ダメな女だってわかってる。サルトルなんかにはわからない。サルトルみたいに、自分で自分の未来を切り拓かなきゃいけない。わかってる。わかってても、動けないことに何かしらの理由を付けたがってるのよ。わかってるのよ。

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