第3話第一部第3章金魚

第一節 川嶋さんの遺言

 朝、志穂、俺と子ども達が朝飯を食っていると志穂の顔が硬直していた。

「志穂?」

「あ、ごめんね。ちょっと、昔馴染みの方が自殺したって記事になってて。気にしないで。祐介くんもう出るでしょ?」

川嶋という画家の自殺と、数年前に志穂の母親の経営する横浜のクラブの新店舗開店祝いで知り合ったという話と、その後のことを志穂が手短に話してくれた。

翌日、川嶋さんから俺宛てに手紙が届いた。恐らく亡くなる前に投函したのだろう。そこには遺言が書かれていた。

遺言

この散文が関係者の方々に読まれることを切に願います。

辻堂のアトリエと私のアトリエに残された絵は全て中山志穂さんに譲渡するよう弁護士山田先生に手配してあります。正式な遺言などは全て山田先生がどうにかしてくれましょう。

志穂さんとの出逢いは、もう五年を遡ったあたりになりましょうか。志穂さんの名誉の為に記述させていただきますが、私たちは決して一線を超えておりません。志穂さんにはご主人とお子様たちが3人いらっしゃいます。私が志穂さんの平凡な、けれどもとてもかけがえのない、日常を壊す権利など、持ち合わせていないのはもう30も超えていれば理解も納得も抑制もできております。私が横浜のクラブの新店舗開店祝いへ私の個展主催をして頂いた本山会長と出向いた際、そこに、志穂さんがいました。居るべきして、いた。といった方がしっくり来るかもしれません。志穂さんは、その頃よりもっと前にクラブを辞めていらっしゃいました。お母様のお身体をご心配されて、たまたま、居合わせていらっしゃったようです。私はちょうど新しいモチーフのモデルとなっていただける方を探しておりました。

 志穂さんを一目見て、インスピレーションが湧いたとでも申しましょうか。それ以来、志穂さんには何度か辻堂のアトリエへ出向いていただき、着物を羽織って様々な私の絵のモデルとなっていただきました。

この点におきましては、志穂さんには感謝してもしきれません。

 私と志穂さんの間柄を私の仕事の関係ある方々から時折尋ねられる事もございました。確かに美しい志穂さんに対して、私自身が心動かされた事もございます。しかしながら、断じてそのような事を志穂さんご本人に、私の愚かな胸の内を明かすようなご無礼をお見せした事実は、一度たりともございません。こうして、今、最初で最後の私の想いを書き損じている次第でございます。

 今年に入ってすぐの頃でしょうか、ある寒い雨の日に、志穂さんが金魚をどこかでお求めになり、私の金魚鉢にお入れになられました。お子さま達がまだお小さくございましょうから、私のアトリエでしばらく置かせて欲しいとおっしゃいました。私自身、かねてより、金魚を何匹か趣味で飼っておりましたので、快くお引き受けさせていただいた次第でございます。

 先日、志穂さんのご友人の方がその金魚をたいそうにお気に召されまして、少し志穂さんとそのお話をさせていただいたところ、志穂さんが、その方へお譲りしてよろしいとおっしゃいましたので、お譲りいたしました。

蛇足ではございますが、どうか、その方が金魚を大切にお育ていただける事を切に願ってやみません。

もうあと数分もしましたら、私も居なくなります。どうか、志穂さん、お元気で。

***

志穂が連れてきた若い女はどこか不思議な外国人だった。私がそのことに気づくと同時に、志穂は目配せしてきた。見た感じでは外国人であったが、彼女が流暢な日本語を話しているのを襖越しに私は聞き耳を立てて確認した。その女が裸で茶室に横たわり血を吐きながら苦しむのを漠然と想像していると、志穂だけが出てきた。

「康成さん、あの子、気に入ったでしょ?」

私を見透かしたかのように、志穂が切り出してきた。

「特には。肌が良く焼けていて、肌は、いい。ただ、似合う着物が少し難しいかもしれないですね。」

「ほら、私の言う通りじゃない。もうどの着物を着て立たせるか考えていたのね。」

私を悪戯に見つめてそう言い放つ志穂に優しく見つめ返した。

「いってらっしゃい。」

私がそう言う頃には、すでに志穂が一人で玄関を出て、門をくぐろうとしていた。

***

川嶋の手紙を志穂と読み終え、数年間疑問に思っていたことを聞こうか悩んだが、今聞くべきタイミングではないなと思い、やめてしまった。

「まあ、仕事行ってくるわ。お葬式はどうするの?大体、アトリエがどうこうって書いてあったけど、めんどくさそうだな。そんなに深い仲だった?」

「密葬にするらしくて。親族はいらっしゃらないの。遠い御親戚の方達ともあまり良い関係とは言ってなかったわ。」

「なるほどね。帰りはいつも通りかなあ。人手不足すぎてほんとやばい。行ってくるわ。アトリエのこととか、山田さんだっけ、その人から連絡来る前に、一度そこ見に行きたいんだけど。」

「そうね。今週の日曜にでも。行ってらっしゃい」

鉄筋とび職人をしているが、ここ数年ずっとどの現場も人手不足感が否めない。帰りは大体夜9時を回る。朝は6時からだし。職長になってから雑務が増えて余計につらい。ま、愚痴っていてもしょうがない。来週あたりサルトルと飲みにでも行くか。 

第二節 アザ

***

雨の中、志穂の後ろ姿が門に消えてしまうのを絵に描いたことがある。私にとって志穂は単なる絵のモデルではなく、インスピレーションそのものであった。あの時の志穂と今、まさに門をくぐり抜けた志穂の姿が完全に合致することを見届けてから、私は若い女のいる茶室へ様子を見に行った。雨は依然として降りしきっている。

女は志穂の金魚を大事そうに眺めていた。どことなく、私の金魚への想いと通じる何かを感じる。

「その金魚、お気に召されましたか?」


そう尋ねると、女はどうしても譲ってくれと引かなかった。灰緑の瞳には、金魚が映っている。

女の首筋には青紫の圧迫された時につくようなアザが僅かに見え隠れしたのを私は見逃さなかった。

「不躾な質問をお許し願いたいのですが、そのアザは?」

「あら、あ、これ。金魚じゃない方のサルトルが。あ、心配しないでくださいね。別に暴力を受けてる訳じゃなくて。ほら、その、ね?あ、SMでもないです!とにかく気にしないで。金魚の名前、サルトルにしたし、どうしても、譲って欲しいの。おいくらなら譲っていただけますか?」

「少し考えさせていただけますか?込み入った事情がございまして。お客様の金魚じゃない方のサルトル様はきっと強くあなたのことを愛してらっしゃるんでしょうね。余計なことをお聞きして失礼致しました。少しお待ちを。」

ずいぶんと不思議なことを言う女だった。けれど彼女の瞳には何の混じり気もない濁りのないものが広がっていた。女を茶室で待たせて、私は、勝手口へ出て、志穂に金魚のことを話した。しばらくの沈黙のあと、私に判断を任せると言い、ぷつりと電話が切れた。

「お譲りいたします。そのかわりに、条件がございます。晴れた日の午後、シモーヌ様のご都合のよろしい時で構いません、私のデッサンのモデルをこのアトリエでしていただくのが条件ですが。」

女の瞳の持つ独特の純真さを私は描きたかった。その欲望に打ち負け、金魚を譲ることにした。翌日も雨だったが、女が現れ、大事そうに金魚鉢を抱えた。

「今日は晴れていないけれど、どうしたらいいかな?」

「晴れの日でなくてはなりません。どうか、金魚のサルトルを可愛がってやってくださいね。」

「もちろんよ。金魚のサルトル、名前、覚えてくれてたの?私の付けた名前。」

「アザのことをもう少しだけお聞きしてよろしいでしょうか?」

「いいわよ。でも、金魚のサルトルに聞かれちゃうな。」


そう言って、無邪気に私に微笑み、アザの原因を丁寧に話してくれた。しばらく、無造作に畳の上に寝転んだあと、雨の中を帰って行った。

まるで小鳥のような女だな。と、ひとりごとをぽつりと言い、茶室でいつもの若草色のノートに書き物をし、そのまましばらく雨を眺めていた。今日は、薬を飲まなかったのに、激しい焦燥感も喪失感もない。雨と小鳥のおかげだろう。

金魚も居なくなった。

***

川嶋さんの遺言が届いた翌々日、俺と志穂でアトリエに出向いた。鍵は志穂が以前から川嶋さんに預けられていたらしい。あんなことがあったあとだったが、自殺と断定され、アトリエの周りに警察官らしき人物もいなかった。

「古本屋、ナイチンゲール、か。」

「そうよ、雨の日だけね。」

「まあ、あがらせてもらいますか。」

志穂と2人で門をくぐり、古民家のような平家の玄関から上がる。

玄関には土間があり、土間の先には、長い廊下が真ん中と両サイドを走っている。両サイドの廊下からは庭が眺められる。

「さすが日本画家って感じの家だね。」

所々に川嶋さんの描いたデッサンや日本画だけではなく、油絵、水彩画が飾られている。

「裕介くん、こっち。」

志穂に案内されて茶室へ入った。

第一部完結 

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