第2話第一部第2章マリアさま

第一節 再会

***

 この物語は俺が金魚鉢の金魚だとか、シモーヌとのエロい調教セックスの妄想をするだとかそういった類いのあたかも精神が崩壊しかけているような男の自分語りではなく、俺とシモーヌがどうやって出会い、恋に落ちて、俺がいかに愛してやまない彼女と結ばれていくかという、少しだけ耽美なファンタスティックでポリフォニックな対位法による青春恋愛物語、いわばフーガ。決して、純情ぶっているドSの尻軽女と、その女に、段々と精神のコントロールを失いかけていき、すべてを支配され尽くす頭の弱い自己コントロールの抑制すら効かなくなりかけるドMの哀れな男の陳腐な愛憎物語なんかではない。

 だから、俺が昨日の真夜中に見た馬鹿げた不思議な夢の話を今はしないでおく。語るべき時が来るまで。

***

 その日もいつも通りに茹だるような暑さで雲ひとつない日だった。僕はコンビニのレジで列に並び、カツ丼と伊右衛門をだらしなくぶらぶらさせて、自分の番がくるのをぼけっと突っ立って待っていた。不意に後ろで僕の名前が呼ばれた。

「サルトル!」

 最初は自分が呼ばれたとは思えず、無視していたが、次の瞬間、僕に抱きついてくる女の子の柔らかい腕と胸の感触で、驚き振り返ると、そこには外国のファッション雑誌から飛び出して来たような女の子が俺の顔を覗き込んでいた。

「ほら、やっぱ、サルトルだ。すごく久しぶり。さっきからサルトルかなって顔を確かめていたの。目が昔のあなただったから、絶対に、絶対的に、サルトルって確信しちゃった。どうして?どうして、ここにいるの?戻ってきたの?」

 しばらく僕は呆気にとられ、矢継ぎ早の質問に答えられないまま、そのままレジで会計をすませながら、呆然となっていた。

「ごめんなさい、人間違いしたかもしれない。」

 恥ずかしそうにもじもじしながら女の子はコンビニのドアの方へ向かった。

「あ、待って、なあ、シモーヌ?シモーヌやんな?」

 懐かしい灰緑の瞳が僕を見つめ返してきた。

「やっぱサルトルじゃんか。どうしたの。戻ってきたの?」

 僕は手短に神戸で定時制工業高校の建築学科を卒業したこと、その間も今も神戸の叔父の工務店で大工をしていること、親父が新築納期間近になって倒れたこと、そのため穴埋めするために出張という形で2ヶ月ほど鎌倉で親父の引き継ぎをしなきゃいけなくなったこと、そんな風に1週間弱前に鎌倉に戻ってきていることなどを話したと思う。

 シモーヌと会うのは8年ぶりだった。背丈はもう小さな女の子ではなくなっていた。僕は186センチと結構でかいから僕の喉仏くらいある子はあまり見かけなかった。日焼けした長い手足が白いTシャツと短パンによく似合っている。お気に入りの赤い運動靴ではなく、ナイキのビーチサンダルを履いていた。胸も多分大きい。僕がそれは観察したからではなくて、シモーヌがさっき抱きついてきたからだ。

「ねえ、あなたお昼どこで食べるの?少しおしゃべりできるの?」

昔よりも日本語も流暢になっていたし、誰もがきっと振り返るくらいのとびきりのセクシーな美人になっていた。ズッコケて泣いたミニシモーヌでもなければ脇腹に手をやり、裸足をぶらぶらさせながら牛乳をごくごくと飲む小さな女の子でもなかった。そして、一番大きな違いは、彼女の右腕だった。綺麗で、でもどこか悲しそうな、マリアさまが彫られていた。

「あー、トラックの中で食おうかなと、思っとったけど、シモーヌ飯食ったん?」

「まだよ。でもサルトルのを少しもらうからいいの。関西弁になっちゃってるじゃん」

「8年も神戸おるからなー、伝染する。家の中でも寮の中でも関西弁しかおらんもん」

そんな他愛もない話をしながら、シモーヌを助手席に乗せてやり、僕は運転席でカツ丼を広げた。右腕のマリアさまのことも聞きたかった。けれど、そのことは今聞くべきタイミングじゃない。何故かそう思って聞かなかった。どうでもよい補足だが、カツ丼の大部分はシモーヌが食べてしまい、僕は一口だけカツを食べただけだ。

 3年ほど前に4年付き合った同い年の同級生だったカナと別れてから特定の彼女を作るのをやめてしまっていた。都合の良い時に寝てくれる子は何人かいた。女の子と寝ても顔も見ようとしなかった。大体の女の子は僕に好意的だったし、向こうからデートに誘ってきてくれたりした。僕がどれほど本が好きかとか、サーフィンとスケボーが好きだとか、ラップとクラシック音楽が好きだとか、僕の外見だけは興味を持ってくれても、僕の内面の柔らかい感情や、大事な好きなことたちを事細かに話する子たちではなかった。話をすると大抵は、上の空で別の話題にされるか、あからさまにつまらないと言われるかのどちらかで、彼女たちはみんな僕の外見にしか興味がなかったし、バレンシアガやシュプリームの服の話や彼女たち自身の外見を褒めるようなどうでもいい話題には飛びついてきてくれた。

「いつまでここにいる?再来月?」

「せやね。そうね。」

 シモーヌは僕の神戸の女の子たちとは違い、昔のように何でも、話せたし、聞いてきた。あっという間に昼休憩時間が過ぎていく。

「あんな、今日4時半にカラスの流れるときには上がるから仕事。5時、あー5時半にここ集合な。シモーヌの家の前でもええけど」

「集合な!せっかくだからここにしてね。」

僕の真似をして無邪気にそう言うと、シモーヌは振り向きもせずトラックから飛び降りて帰っていった。

 夏場の午後の大工仕事は地獄並みにキツい。けれど、その日は暑さよりも夕方の約束に浮き足立っていて、まったく気にならなかった。4時半の聞き慣れた懐かしい市内放送が流れて、僕は急いで後片付けをし、家へと戻る。シャワーを浴びて、神戸の誰かから貰ったDIORのDUNEをベタベタにつけて、先輩から安く売ってもらった中古の少し古臭いスープラの助手席を少し掃除して車を発進させる。

 コンビニの前まで着くと海が見える脇道に、昼間とは違い、化粧っ気のないシモーヌが海を見ながら立っていた。化粧をしていないと、とても幼く見える。昔のままだった。

「よう、シモーヌ変わってないねー。でも俺化粧してない方がシモーヌらしくていいわ、コンビニやと車置いておけんから、パシフィックのとこまで戻っていい?特別にシモーヌ乗せてあげるわ」

「いいよ。」

助手席のドアを開けてあげてお姫様扱いしてあげると、シモーヌは喜ぶどころか、当たり前のように僕のスープラに乗り込んだ。

 バックミラー越しにコンビニに一瞥し、少し混み気味の海岸沿いの国道に出て七里ガ浜方面へ300mほど走らせ左に見えてくるドライブインの広い駐車場に車を止めた。階段を降りて2人ならんで砂浜を少し歩く。夕焼けと江ノ島がこれぞ湘南と言わんばかりに馬鹿げたほどロマンチックだった。鎌倉特有の湿気をたっぷり含んだ海風が2人をまとわりつく。

 僕は何故か唐突に、こう切り出した。

「あんな、シモーヌ彼氏おるん?」

「居ないよ」

「ふーん、ほんなら、今から俺がシモーヌの彼氏で、お前は俺の彼女やわ。」

「あはは、意味わかんない。まあ、いいよ、サルトルがいいなら、私についてこい!」

「あほんだら、なんでお前やねん。結婚前提やもん。」

「いいけど、勝手に居なくならないでね。」

 再会初日に僕らはこうして、半ば僕の強引な思い付きで、付き合うことになった。僕は神戸の女の子たちのことをシモーヌに言うべきかすこしだけ悩んだ。あの子たちは彼女でも何でもない、ただの女友達だ。それに戻ったら、もう二度と他の子と寝ることもないだろう。

 シモーヌには神戸でのことは何も話さなかったし、そんなことを話すよりもシモーヌのあれからのことを聞きたかった。僕らはいつもZORNにAKLO、AK69や般若のラップとグールドのバッハやホロヴィッツのスクリャービンやラフマニノフを交互に流してその日あった僕の仕事のこと、彼女のピアノレッスンのこと、大好きな本のこと、そしてこれまでのことを飽きることなく話していた。

***

 今思えば、この時の「勝手に居なくならないでね」という言葉の意味は、別れるとかそう言う次元のものでなくて、

 優しさに包まれた俺の回想を切り裂くかのようにサルトル教授が唐突に話し始める。

『お前は、居なくなれない。シモーヌから。大体、こんな知的センスのカケラもない私小説をおおっぴらに書き散らしている事自体、精神が崩壊し始めて』

俺は、またか、という気持ちで教授の声を振り切った。

 俺の精神は、俺のコントロール下に、まだある。

『まだある、』

「黙れよ。お前調子に乗ってんなら、ブチ殺されたい?お前にはわかりっこない。」

 教授にはまだ支配されていないし、奴はとっくの昔にフランスで死んでいるし、ここは日本なわけで。とにかく、馬鹿げている。こんな風に考えるから、妄想に、いや、空想に耽るのは簡単だ。これも俺なりの気分転換であってストレス発散させたいだけだ。在りもしない教授の視線を地獄のように思って不安になるのは、馬鹿げている。シモーヌを内面的な残虐性をもって支配し尽くすセックスの妄想の方がまだマシだ。大体、昨日の金魚の話もそうだ。シモーヌは俺を支配していると勘違いしている。だから変な夢まで見る羽目になったし、とにかく、俺はまだ、常軌を逸していない。


 俺は、俺をきちんと、『コントロールできている。』 

第二節

真夜中にうなされるサルトルの寝言で起きた。

「大丈夫よ。それは夢だから。」

そう言いながら私がサルトルの額の汗を拭いてあげると、彼は寝返りを打ち、また、深い眠りに入っていった。金魚鉢は西友ではなく、辻堂の駅近くで取り置きしてもらっていたものだったし、サルトルママとは買いになんて行っていない。一人で取りに行った。何故か咄嗟に小さな嘘をついてしまった。なんとなくその金魚鉢を取り置きしてもらった時の私の感覚が後ろめたかったのが多分理由。

***

 雨の降る午前中、リサ、私たちの娘をサルトルママに見てもらって、辻堂の駅前まで車で裕介の奥さん、志穂さんとお昼ご飯を食べに来ていた。志穂さんは裕介達と10年上で36歳。とても美しい日本人形のような方。本人が言わなければ、3人も彼女に子どもがいるなんて誰も想像できない。長く美しい艶のまっすぐな黒髪を今日はひとつにまとめている。裕介と結婚するまで彼女は横浜の高級クラブでキャバ嬢をしていた。志穂さんのお母さんが経営していて、お母さんは今もそこでママをしているらしい。私を妹のように可愛がってくれている。志穂さんの話し方はとても気持ちよく、思いやりを持ちながら、芸能から社会派まで話題に幅のあるとても社交的なスタイルなので、いつも私は彼女と話をするのが楽しみだった。その日も志穂さんといつものように楽しく時間を過ごしたと思う。裕介はここ一か月ほど休みなく工事現場で仕事をしていると言うのも聞いた。

「ほとんどワンオペ状態じゃないの。志穂さん辛くないの?」

「3人目はほったらかしに近いかな?上2人がお姉さんらしく末っ子の面倒私より見てくれてるわよ。正直なところ、死ぬこと以外は、なんて事ない、あはは」

そんな風に笑飛ばす志穂さんを私は尊敬した。

「そうそう、シモーヌちゃんさ、この近くにね、すっごく不思議な本屋さんがあるのよ。知ってる?見かけはただの古本屋なんだけどね。1日2組しかお客さんを入れてくれないんだって。そんな本屋さん商売としてやっていけてるのかしらね。でも高級料亭みたいでなんかいいよね。ナイチンゲールって言う古本屋さんなんだけど、行ったことある?」

ナイチンゲール、私がまだほんの小さい頃好きだった小鳥もナイチンゲール。

「初めて聞いた。どの辺にあるの?予約していないと入れない?」

志穂さんとお昼ご飯を食べ終えたあと、私たちはその古本屋へ行ってみることにした。

 古本屋は少し細い路地裏にあった。

『ナイチンゲール 古本屋 不定休 雨天のみ営業』

店の出窓に、そう書かれた紙がただ一枚貼ってあるだけで、外からはどう見ても古本屋には見えない古民家だった。私たちに気付いて、中から1人の着物姿の30代位の男性が出てきた。

「今日は、雨ですね。まだどなたもお客様いらしてないので、どうぞ。」

木造の小さな門が開き、中へ通された。外から見るよりも、大分広い敷地だ。ほとんど手入れされていない庭には実家と同じ木蓮が植えられている。木蓮特有の優しい香り。平家作りの古い木造の玄関扉は昔ながらの引き扉だ。靴を脱ぎ、中へ入ると、古本はさほど置いていない。茶室に通され、私たちは抹茶を頂きながらその部屋を見渡していた。普通の茶室だが、ひとつだけ変わっているのは壁一面分の本棚といくつかの金魚鉢が置かれている点だ。

「ごゆっくり。」

店主らしきその男性はそう言うと、何処かへ行ってしまった。一瞬、志穂さんと店主が目を合わせたようにも見えた。きっと思い違いかもしれない。

「なんだか、すっごく雰囲気あるよねー。素敵。シモーヌちゃんいなかったら、一人で入る勇気なかったわ。」

志穂さんはそう言いながら適当に本棚の本を漁っていた。不意に2時を告げる振り子時計の音で、志穂さんが、慌てて本を棚に戻す。

「私、帰らないと。一番下の子、裕介のお母さんに見てもらってるけど、3時にはお母さん用事あるって言ってたの忘れてたわ。シモーヌちゃんはどうする?」

「私はもう少し居ようかな。電車で帰るから。志穂さん先に帰っていいよ。今日はありがとう。」

そう言って、志穂さんがいそいそと帰る後ろ姿を見送った。

部屋の中をもう一度見渡すと、Boseのスピーカーが天井に3つある。音楽は流されていない。雨が庭の無造作な葉に滴り落ちる音だけが響く。私は本よりも金魚鉢の方が気になった。たしか、3、4個あったと思う。どれも1匹ずつ大きさも色も違う金魚が泳いでいる。その中の1つは尾が少しだけ溶けかけているように見えた。背はオレンジ色で腹は白だ。背中からその溶けかけているような尾までのラインを見ていると、サルトルの背中に彫られている龍と鳳凰を思い出した。日焼けした背中に薄青の今にも飛び出してきそうな姿で眼と牙を剥き出しにする気性の荒そうな龍。それを遠くから愛を注ぐかのように舞う朱色とオレンジの濃淡が美しい鳳凰。私のマリアさまとは違いとても精巧に背中一面彫られていてまるで日本画のようなサルトルの刺青。和彫というらしい。神戸の知り合いの紹介で西成の特殊な彫り師に特別に彫ってもらったと言っていた。サルトルの刺青は背中だけではなく、胸の下にもある。鯉が2匹、円を描くように泳いでいる。その下に私の名前と娘のリサの名前が彫られている。胸の鯉が素敵で、私は2年前に同じデザインを頼んで新宿の彫り師に入れてもらったからお揃いだ。

サルトルの背中を想像しながらその金魚を眺めていた。

「その金魚、お気に召しました?」

店主らしき男性がいつの間にか私の背後に立っていた。

「とても。」

「お譲りするわけには少し込み入った事情がありまして、出来ませんが。」

「おいくらお支払いしたら譲っていただけます?」

「晴れの日に、また来ていただけるなら、お譲りします。」

***

 私はどうしても、その金魚が欲しかった。だから、晴れた日の午後2時間だけ、店主、川嶋さんのデッサンのモデルをすることにした。 




第三節 刺青

変な夢を見てから数日、天気も晴れ続け、春そのものを感じる日々だ。

シモーヌがあの日言っていたことも、2日ほど経つと俺は忘れてしまっていた。金魚鉢を見ても何となく俺が金魚と言われたことよりも、尾腐れ病にかかっていたから、治してやることに俺は意識が向いていて、小鳥がどうとかすら思い出さなかった。それにしても4月中旬あたりの気温にまで上がると、3月でも体を動かして仕事していると暑い。昼に弁当を食べ終わり、1時前にシモーヌに電話したが出なかった。きっと忙しくリサの面倒を見てくれているんだろう。1時過ぎにセルロースファイバー断熱の施工で西村さんと打ち合わせをすることになっていた。30後半位の中肉中背のおっさんだ。俺とは一回り以上違う。1時半近くになっても西村さんはまだ現れない。養生した床の上で寝転んだ。

***

 空調服の下のシャツを水で絞って着るとひんやり感が違う。僕はシャツを脱いで水で絞っていた。

「何してんの?洗濯?タトゥー凄いね。背中。」

振り向くとシモーヌが突っ立っている。

「あ?何でここにおるの?背中は気にせんといて。てか、でかい声で言うな。」

近くを通りかかって、差し入れでアイスを持ってきてくれたらしい。僕の思い付きで付き合い始めてまだ1週間くらいだった。

「ふーん、でも綺麗ね。でも、じゃなくて、すごく。あなたの心の底みたいだね。その龍と鳥」

「そうか?鳥は鳳凰やよ、フェニックスな。ええやろ?」

「うん。どこで入れてもらったの?」

他の子たちは綺麗とは言う子は少なかったと思う。寝る時に見るとカッコいいとか凄いとか言う子たちはいた。ましてや、俺の心の底なんて表現するのはシモーヌが初めてで最後だろう。

「タトゥーっていうか、刺青言うらしい。入れてくれた彫り師さんがそうゆうとった。んー、まあちょっと話長くなるし、あんま言いたくない。なんせ、17かそんくらいの時に、西成で和彫専門の人おってん。んで紹介されて、入れてもろた。タトゥーというか、まあ、刺青。ここにもあんねんで?」

そう言って、シモーヌに僕は心臓の下あたりにある鯉の刺青も見せた。

「へー可愛い。私の名前入れちゃう?別れたら黒歴史になるけど。」

「ええよ。今週日曜入れたるわ。」

西成の彫り師はカナの父親だ。カナの父親はもう足を洗っていたが、まあ、そういう筋の人だった。全身刺青男で、僕が絶賛した。寮の先輩たちや仕事仲間も夜間のクラスの奴らも何人かどこかしらにタトゥーを入れていた。カナの父親の刺青は彼の弟子が入れたらしい。今で見てきたタトゥーで一番美しい和彫だった。そういうものに憧れる歳だったのだ。だから僕はカナの父親の刺青を心の底から賞賛した。カナを大事にすることを誓わされ、タダで入れてくれた。泳ぐ2匹の心臓付近の鯉は、僕とカナだ。あとから、寮の先輩に、この面積でこれだけの和彫を入れると100万近くはするんじゃないかと教えられ、驚いた。デザインは、俺の話をカナから根掘り葉掘り聞いて、考えてくれた。カナは夜間の工業高校時代の彼女で、僕とカナは4年位は付き合ったと思う。出会いは、単純だけど、同じクラスだった。美人とは言えないが、愛嬌のある健康そうな顔つきで、丸く小さな鼻と奥二重の小さな瞳、髪はいつも1つに後ろで束ねてあった。身長も小柄で、化粧っ気の全くない、何しろ地味な子だ。僕は前にも説明したが、彫りの深い色黒スペイン人と言った方がわかりやすいかもしれない、何しろ背も高いから目立った。2人並ぶとチグハグだと男友達に言われる位に僕とカナは正反対だった。カナの自宅近くが現場だったある日、僕が棟梁の叔父に、羽目板を取り付けている最中、怒鳴りつけられていたところを見られた。カナが翌日、よく頑張っとるね、とかそんな風な言葉をかけてくれたと思う。朝5時半起きで、7時には棟梁の運転するバンで先輩たちと寮から現場へ、夕方5時すぎに上がらせてもらって、そのまま夜間の高校へ、家に戻るのは11時過ぎ。飯もろくに食わずに疲れ果てて眠る。そんな日常だったから、カナがかけてくれた言葉に僕は救われた。カナの容姿よりも、彼女の奥底が透明な優しい何かのように思え、僕にとっては女神かマリアのようにしか見えなかった。カナに夢中になった。帰りも送ってあげたり、何しろカナに気に入られようとして頑張った。その甲斐あって、僕とカナはすぐに付き合い始めた。マナちゃんの時とは違い、付き合って半年以上は手を出さなかった。僕にとっての青春=カナと言っても過言ではない。とにかく好きだった。カナの方は、あまり素直に自分から感情を出すような女の子ではなかったから、どのくらい僕のことを好きでいてくれたのか、わからない。高校を卒業したあと、仕事が忙しくなり、夏場でとてつもなく疲れる毎日。工期も後半にさしかかっていたから、徹夜の時もあったし、日曜なんて俺のカレンダーにはなかった。寮に戻ると誰かと会うとか、電話をするとか、LINEのメッセージを見るのすらしんどくて、全く僕から連絡してあげられなくなっていた。夏が過ぎ、秋になって、久しぶりに僕からカナに連絡し、カナの家の近所の喫茶店で待ち合わせした。喫茶店に現れたカナは少しぎこちなさそうだった。僕はあまり気にしないようにして、夏、連絡ができなかったことの言い訳をしたと思う。僕は喫茶店を早く出てカナと二人きりになりたかった。彼女の夏の話も聞きたかったし、とにかく彼女の屈託のない笑顔を見て安心したかった。

「...と、まあ、そんなわけやったんよね。ここ出てカラオケいく?それか2人でいれるとこ行く?」

「ごめん、サルトル。うち疲れたわ。あんたおらんかった間、お父さんもちょっと大変やったから、話をそん時に聞いて欲しかったんやけど。なんか、もう、疲れた。ごめん。」

「ほいなら、焼肉食うか!給料出たし好きなもんカナ食べたら元気なるんちゃう?行こうや」

「そうやなくて、サルトル、意味わからん?疲れたわあんたに。」

「どうゆう意味?」

「ごめん。友達に戻りたい。何ももう期待して待ったりしたくない。サルトルがこの1ヶ月凄く大変だったのもわかってる。だから、うちは、何も言えん。付き合った時からそうだった。いつも不釣り合いなのも気にしながら、歩かんといけんのが嫌やったから後ろ歩いて。緊張してあんたの顔なんかまともに見たことなかった。何もかもが無理しとって、もう、疲れたんよ。うちが悪い。ごめん。」

僕は振られた。カナはずっとごめんしか言わなかった。カナは無造作にコーヒー代の600円をテーブルに置いて、席を立った。僕は必死に、カナの手を掴んで、怒鳴った。店員や他の客がいるのも気にならなかった。

「なんでなん?ちょっとちゃんと話そうや。大体、似合う、似合わんってなんや?そんなん俺一度も気にせんかったわ。確かにこの1ヶ月ほったらかしにしとった俺が悪いよ?でも、俺かて、疲れとったし、そんなんわかるんやろ?大体な?カナは何も悪くないやんか?なんでそんな謝らなあかんの?俺ら4年近く付きおうとるんに話できひんってないやんけ。」

とか、色々しつこく言ったと思う。その時には、すでにカナには別の男がいたのをあとで僕はカナの友達から聞かされた。僕からは連絡し辛く、カナが時々、近況報告してくれると、彼女が一生懸命に彼女なりに生活し、新しい彼氏と幸せそうにしているのが伝わってきて、僕はいつも「俺も頑張るわ」とだけ返していた。別れてからは一度三ノ宮で見かけたくらいだ。僕は、叔父に誘われて取引相手の仕事仲間たちと飲み屋に無理矢理行かされる途中だった。雨の降る中、傘をさして、駅へ向かうカナを見つけた。多分、仕事帰りかなんかで、疲れた表情をして俺に気付くことなく駅の改札口へ消えていった。それ以来、僕は特定の女の子に特別な感情を持つのを死ぬまでしない、心に誓った。事実僕は、それから色んな女の子と寝てもそれ以上踏み込まなかったし踏み込ませなかった。彼女たちとセックスするときも顔なんて見ようとすらしなかった。

***

 あの時別れていなくても多分、カナとは一緒になっていなかっただろう。

遠い想い出に浸っていていてもいいことはない。大体、女作らんとか抜かしておいて、あっさり、シモーヌにハマった。マキタのラジオから、俺はこのラジオを「マキコ」と呼んでいる、ひとりでいることの多い大工は孤独なのだ、ここぞとばかりに、マーラーの交響曲第5番アダージョがながれている。

「ごめーん、遅くなりましたわ。親父さんの病院寄ってきたから。」

改札口に消えていった時の疲れたカナの顔を思い出そうとしていたら、俺を現実に戻す西村さんの声が聞こえた。

忘れて欲しくないのだが、これは別にこれから死ぬ奴の最後の回想録でも、お昼のミセスたちが暇つぶしに見るような愛の劇場でもない。あくまで、シモーヌと俺の青春恋愛劇場版であって、ライトノベルだ。カナには悪いけれど、鯉の下にはシモーヌとリサの名前が彫ってある。

「ここ来るときに、着物着たすかした人いたわー。男なのにこの季節。やっぱり、鎌倉だからなんかね。綺麗な女連れてたわ。小柄だったけど、今どき珍しいくらい古風な感じで。うちの嫁さんもあんなんだったら連れて歩くんだけどね。」

「へー、そうなんすか。西村さんの奥さん可愛らしいやないっすか。」

「あ、そう?お世辞言わなくていいから。はは。親父さんだいぶ顔色は良かった。早く現場復帰したそうだったわ。大事にならなくて良かった。」

 西村さんと軽く打ち合わせし、来週から予定通りセルロースファイバー断熱の施工に取り掛かってもらえることになった。西村さんが帰る頃には、晴れていたのが嘘のような雨が降り始めた。少し早いがキリも良いから片付けをして帰ることにした。

 海沿いの江ノ電の踏切待ちをしていると、トラックのフロントガラス越しに、一組の男女が雨の中寄り添うようにして急ぎ足で傘もささずに通り過ぎて行く。男の方は着物姿だった。西村さんの話してた男かも知れない、この辺りなら、着物を着て歩く観光客はいくらでもいる。きっと別人だろうし、どうでもいい。 

第四節 川嶋さん

 川嶋さんと約束通り、午後、デッサンのモデルをするため、ナイチンゲールに来た。門の扉の横にあるチャイムを鳴らしても、出てこない。不在のようだ。路地側に突き出しているナイチンゲールの出窓に張り紙がしてある。

『本日、急用のため、誠に勝手ながら、予定を変更し、明日からまたよろしくお願いいたします。店主』

 そのまま私は駐車場へ引き返し、家へ帰ることにした。

***

大学の学内コンクールで私はバッハ=ブゾーニ編曲シャコンヌとショパンのバラード4番を演奏することにしていた。ママは少し心配していて、他の曲を薦めてきた。どちらも重い曲でそれを2つ持って行くのは良くないし、負担もリスクもあるというのがママの大雑把な意見だった。意見を聞かずにその2つを持って臨み、私は予選落ちした。その日以来、あまりピアノに触れたくなくて、ダラダラとサーフィンしたり友達と出かけるだけの日を過ごしていた夏。懐かしいサルトルに再会もした。気が向くとサルトルの仕事現場にガリガリくんを持って出かけた。キスはしてくれてもそれ以上サルトルは何もしてこなかった。けれど10時と12時と3時に必ず電話してきてくれてたし、仕事が終わって着替えてから私の家の庭にやってきて、ベンチに座ってよく話を聞かせてくれた。夕ご飯をタカクラ先生とママと私たち兄弟に混じって食べていくことが多かった。そしてそれはそこにいる誰もが当たり前のことのように思えていた。それに、サルトルは話をするときいつも私の両手を握りながらしゃがんで話していたり、時折、頭やおでこを撫でてくれたりした。本を朗読してくれたりもした。それは結婚してからもしてくれる。サルトルが私を彼女としてだけでなく、もっと別の、例えるなら、母親のような愛情を注いでくれている感覚がした。あっという間に夏が終わっていく。私はサルトルの刺青を見て以来、何度か見せて欲しいとせがんだ。

「しゃーなしやで?一回だけな」

いつもそう言いながら見せてくれたあと、私の頭ごとTシャツかぶるように着直して抱きしめて、ぽんぽんっと頭を撫でてくれた。太陽の匂いがして私はそうしてもらうと少しホッとする。疲れ切っていないときは、七里ガ浜のパシフィックまで歩いていき、私にサン=テグジュペリの話を聞かせてくれる。波がまったく静かな夜のとき、私はサルトルに大好きなコクトーの詩を教えてあげた。

「私の耳は、貝の殻

 海の響きを懐かしむ」

「俺、その詩、凄い好きやわ。誰の?」

「ジャン=コクトーよ」

「めっちゃ好きやわ。凄く好きや。愛しとーよ」

そう言ってサルトルは私の頭を思い切り撫でて、これでもかというくらいに抱きしめてくれた。

ずっとそれは忘れない。

***

車を自宅の車庫に入れてからも、サルトルが頭を撫でてくれる時の匂いを探していた。

そこまで思い出し、不謹慎だけれど、川嶋さんがあの日いなくてよかったと胸を撫で下ろした。その日から3日くらい雨が降り続いていた。4日ほど経った晴れ上がった朝の新聞に小さく、川嶋さんの自殺が記事に書いてあった。

『日本画家 川嶋 康成氏 亡くなる 享年38歳

警察によると、自宅の庭先に停めた川嶋氏所有の乗用車で故人が倒れているのを発見される。死後2日ほど経過しており、死因は一酸化中毒死と見られる。事件性はなく、自殺と発表した。

川嶋氏は独特な感覚で女性の日常を丁寧に日本画として描き、国際的にも注目されていた新鋭の日本画家』

私はいくつかの川嶋さんの絵をインターネットで探し見入った。

川嶋さんの描いた女性たちは決して裸ではなく、着物を着た姿でナイチンゲールの茶室に佇んでいたり、あの庭で洗濯物を干していたりしていた。茶室の絵には金魚のサルトルも描かれていた。茶室の絵の中だけではない。ちゃぶ台の上に置かれたサルトル、勝手口の隅に置かれたサルトル。色んな日常の中に金魚のサルトルがいた。

私はデッサンのモデルと言われた時に、裸になるものだと思い込んでいたからだ。そして、金魚のサルトルをどんなに川嶋さんが大切にしてきたのか思い知らされた。きっと、私のせいだ。 

第五節 サルトルとの対話2 ナイチンゲール


 西村さんと打ち合わせした日から数日雨が続いた。久しぶりに晴れてくれた日は、一度も休憩中シモーヌは電話に出なかった。俺が家に戻ると、かーちゃんがリサをあやしていた。親父は、俺が変な夢を見た翌日の朝、持病の兆候を自覚し、病院へかーちゃんと行き、そのまま1週間ほど入院することになった。入院といっても命に関わるような持病ではなく、過労とストレスからのメニエール病が久しぶりに顔を出し、静養するために入院することにしたらしい。

 風呂から出てきてもまだシモーヌが見当たらない。

「かーちゃん、シモーヌどうしたん?買い物かなんか?」

「シモーヌちゃん、ちょっとだけ不安定になって、朝から。サルトルたちのあっちの部屋で寝させてるよ。リサ、ワタシが見るから、今日明日少し寝るか、実家にひとりでゆっくりしてきなさいっていったらね、サルトル待つって言ってあっちで。部屋でね。」

「なんかあったん?」

「画家?のナントカさんが死んだとか言って、ほらこれ、新聞。でもその人、シモーヌちゃん一度会ったことしかないらしいのに。なんだろね。季節の変わり目だしー、リサの面倒で疲れてるよきっとね。」

 フィリピンママのかーちゃんがそう言いながら、俺に新聞の記事を見せてよこした。車の中で自殺した新鋭日本画家のその男の顔は踏切で見かけた顔付きと似ている。―「あの人あの後死んだんか。一緒にいた女は?後ろ姿しか見なかったけど。仲睦まじく寄り添うようにトラックを横切っていた。あの女は悲しんだのだろうか。」―

 リサをあやすのを交代し、寝付いたリサを抱きながら、母屋を出て離れの俺たち夫婦の部屋へ行った。


 シモーヌはソファに座り、じっと金魚鉢を見つめていた。

「ただいま、かーちゃんから少し聞いたで。画家の。シモーヌちゃーん、疲れたん?どーしたん?俺の顔見るより金魚の方がええの?もしもーし、プリヴィエ?ハロー、なあ、どうしたん?」

寝付いたリサをベビーベッドに寝かせて、シモーヌの隣に座った。顔を俺の方へ無理やり両手で挟んで向かせると、シモーヌは目を真っ赤にし見開いたまま、声も立てずに泣いていた。

「どしたん?一度会っただけなんやろ?それとも何かあったん?それ以外でも」

俺は、彼女の灰緑色の瞳を通してサルトル教授を見つめた。

「金魚を私が川嶋さんから切り取ったから私のせいなのよ。ナイチンゲールは、金魚と恋をしていたのに、私が引き裂いたの。私はナイチンゲールなんかじゃなかった。川嶋さんは何もかも」

『何もかも、サルトルのせいだ。お前が金魚鉢から出る事を諦めて、ただすべて傍観する事を選んだから、こうなった。』

俺は、ひどく頭が痛く激痛が走り始めていたが、必死に教授の声をふりきった。

「川嶋さんは何もかもわかっていながら、私に金魚を譲ってくれた。私にもその金魚が必要だと川嶋さんは知っていたから。それなのに私はひどく幼稚なことを考えていただけだったのよ。」

 シモーヌの言っていることも、教授並みに常軌を逸しているように思えた。あるいは、俺がうまく彼らを理解してあげれないだけなのかもしれないし、すべて幻聴で、シモーヌはそんなこと言っていないのかもしれない。

 漠然と美しく鳴くナイチンゲールが夜の月明かりに照らされて窓越しに尾腐れ病の金魚に逢いに来ている光景が教授と俺との間で広がっていくのを感じた。

***

 僕は疲れている。海沿いの国道から路地に入った街灯のほとんどない夜の道を散歩すると、今は見えない星々の囁き合う声が分厚い雲の向こう側から今にも聞こえてきそうなくらいに天が近く感じる。春の夜らしい雨の夜。僕のシモーヌとリサがいた懐かしい焦茶色の離れから、オレンジの光がカーテンの隙間から溢れていて、その僅かな隙間に目を凝らすと、金魚の入れられた金魚鉢も見える。

 部屋の中に入り、少しだけ金魚を眺める。窓際にはいつの間にか羽根の傷付いた、深い悲しみに囚われたナイチンゲールが金魚を恋焦がれてとまっている。

 ナイチンゲールの悲しみと羽根の痛みを柔らかな優しさに変えてあげたくて、尾ひれの腐りかけている金魚は、激しい痛みに耐えながら、美しく泳いでみせた。僕の視線を感じた金魚は不安に一瞬囚われそうになったが、その視線に抗い、何もかもを超越した美しさで金魚鉢の中を泳ぐ。

 ナイチンゲールは金魚の為に美しい羽根を広げて見せた。僕は薄暗いオレンジのスタンドランプに映し出される天井のナイチンゲールと金魚と金魚鉢の水のゆらぎを懐かしく眺めていると、僕は天井の水のない水槽を泳ぐ。次第に身体に激痛が走り始めた。それでも僕は僕へ羽根を広げようとするナイチンゲールの為に泳ぎ続ける。

***


「リサを預けて、一度、ナイチンゲールを探しに行かなきゃいけない。私たち。」はっきりとした意志のある波形の声で、シモーヌはそう言いながら教授の陰影を彼女の瞳の奥へと行かせ、その瞳には俺しか映っていなかった。波形が狂う寸前で、彼女は俺に覆い被さりいつものように一つになって眠りについた。

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