サルトル先生とシモーヌ

Hiro Suzuki

第1話第一部第1章裸足のシモーヌ

2021年3月

 午後3時の休憩。丸鋸で木材をカットする手を少し止めて、足場から屋根に上がり寝そべる。今、工事中の新築は、目の前は海、屋根からは富士山が見える。どこまでも広がる空と海風が俺の体を優しく包んでくれる。

「また、3月か。」

ボソッと独り言を言いながら、目を瞑り、俺、サルトル仮称と妻シモーヌ仮称の3月に耳を傾けようとした。

俺と妻との出会いは、10数年以上前の丁度この季節にまで遡る。


2009年3月

 鎌倉の春らしく、静けさの中に時折海の匂いと花の香りや草木の匂いを含む風が吹く。

僕ら以外には鳥たちのさえずりと、トンビが時々通り過ぎていくぐらいでひと気のない、よく晴れたありきたりな田舎の午後。穏やかな柔らかい陽の光。僕は親友の裕介と彼の家の前でキャッチボールをしていた。僕も裕介も髪はさっぱりと短く、白いTシャツに紺色のジャージ上下とアディダスの白いスニーカーを履いている。僕は軟式テニス部で、裕介は陸上部だ。僕らは小学生の頃からの友人で中学でも同じクラスだった。僕も裕介もフィリピンハーフらしくまだ3月なのに、しっかり日に焼けて浅黒くなっていた。

**

 少しだけ、僕、裕介、マナちゃんの話をしよう。

裕介はその頃、クラスで一番の美人マナちゃんに恋をしていた。僕はその当時から、自分で言うのも少し気が引けるが、背が高く日本人離れした顔つきで女の子たちに人気があった。部活の時に女の子たちから差し入れをもらったり、下駄箱にたまに手紙が入っていた。マナちゃんも例外なく僕に好意を持ってくれていた。

 マナちゃんは裕介と同じ陸上部だったが、僕の部活が終わるのを見計らうかのように、裕介を引き連れて下駄箱で待っている時があり、3人で一緒に帰ったりもした。由比ヶ浜の海を見渡せる校舎を出ると長い坂道があり、3人で他愛もない中学生らしい会話をする。マナちゃんの自宅は長谷だったので和田塚駅で別れて、僕と裕介は七里ガ浜まで江ノ電で帰る日常。そんな3人の関係に変化が訪れたのは、マナちゃんがある日、一人で僕を待っていた日だった。裕介はとっくに帰ったらしく、僕らは2人で坂道を降った。由比ヶ浜のカトリック教会の手前あたりで、マナちゃんが、僕の手を握って来た。

「私さ、サルトル君が好きかも」僕もまんざらではなかったから、裕介の気持ちも知ってはいたが握り返した。その日以来、僕とマナちゃんはよく、裕介抜きで、2人で帰るようになった。ある日、その光景をたまたま見ていた次男の兄貴に、長男の兄貴と親父、母ちゃんの前で茶化されて以来、それが嫌で僕はマナちゃんを少し避けた。そう、僕は3人兄弟の三男である。

 「俺は、その少し後、マナちゃんと付き合ってちゃっかりやることやった。マナちゃんどうしてるんだろう。」

昔の記憶を辿ることを少し中断し、時計を見やると10分も経っていない。もう一度目を瞑る。「マナちゃんのことじゃなくて、キャッチボールしていた日を思い出していたんだった」。

 その日、キャッチボールをしながら、裕介が、「マナちゃんからサルトルの事で相談された」とやや気落ちしながら話してきた。僕は適当にごまかした。とっくに僕とマナちゃんはキスもしていたし、マナちゃんの部屋で抱き合った仲だった。僕の家はとてつもなく古いボロ屋で、立派な長谷の邸宅のマナちゃんの自宅に引け目を感じていた。だから一度もマナちゃんを僕は家に連れて来なかった。

裕介の初恋話やマナちゃんと僕の淡い恋の話はまた別の物語で機会があったら話す事にする。記憶を辿ってもマナちゃんの顔や匂いや肌の感触が思い出せない。

これは俺サルトル仮称と妻シモーヌ仮称の物語だ。話をキャッチボールしていた時に戻そう。


2009年3月

 ボールを投げる裕介の後ろ遠くに、見慣れない小さな外国人の女の子がピンクのランドセルを背負ってトボトボと歩いているのが見えた。茶色い厚手のパーカーと水色のジーンズを履いている。よく見ると両手に白い上履きのズックをぶらぶらさせて裸足だった。アスファルトは舗装されきれておらず、ところどころ砂利だ。「おーい、なんで裸足なの?外履きは?靴は?」そう声をかけると、女の子は恥ずかしそうに駆け出した。

が、ズッコケた。

 田舎の僕ら子どもたちは少しだけ結束力のようなものがある。僕と裕介は女の子に手を貸してやり、女の子はなんとか起き上がったものの、じっとしてうつむいている。まだとても柔らかい小学5年生の女の子の手のひらは、ところどころズッコケた勢いで擦りむけており、血が滲んでいた。「手大丈夫?日本語むり?キャンニュースピークイングリッシュ?何で靴履いてないの?名前は?」僕らは女の子を質問攻めにした。

とりあえず僕は裕介にさよならをして、その小さな外国人の女の子をおんぶして家まで送ってやることにした。「名前なに?おんぶしてあげるから乗って」ズッコケたことや裸足のことに膨れっ面で黙りこくったまま、遠慮なく女の子は僕の背中に乗る。

「俺、サルトル仮称、お前は?ネーム、ワッチュアネーム?手痛くない?」

しばらく黙っておんぶされていたが、僕の背中で女の子が泣くのを我慢しているのがわかった。

T字路でどちら側かとジェスチャーで聞くと、女の子が、今度はハッキリと、泣いているのがわかった。指差しで僕の家とは逆を指しながら、泣き続けていた。

「あの時、シモーヌはまだ小学5年生か6年生くらいだっけ。」俺はもう一度時計を見た。G-SHOCKは午後3時15分を教えてくれている。

夕暮れが当たり一面をオレンジと紫がかった群青色にし始め、僕と背中の女の子の影が長く伸びる。10分ほどおんぶしたまま歩くと、女の子が大きな家の私有道路の坂道で僕の肩をとんとん叩いた。僕は女の子の足の裏の砂を払い落として降ろしてやった。「ありがとう」そう言って女の子は泣きべそをかきながら僕の手を引っ張って家の庭先まで連れて行った。


第ニ節 木蓮の庭

2009年3月

 僕はおんぶしながら歩いていたので疲れていて、遠慮なく庭のベンチに座る。ベンチの両側には木蓮の木が植っていた。白い大きな木蓮の花から優しい良い香りがする。家の中からピアノの音も聞こえる。「シューベルト、アンプロンプチュ」と、女の子が指を3本立ててぽつりと言う。

「シューベルトのアンプロンプチュ3番って曲?」

女の子は何も言わなかった。夕暮れ時の木蓮の香りに包まれて流れてくるシューベルトはとても優しかった。僕はしばらくじっとその曲に耳を澄ませていた。しばらくして、演奏が止まった。

 目を瞑ったまま、木蓮の香りを思い出していると、我が家でのシモーヌの声が頭の中で木霊する。「シューベルトのアンプロンプチュはホロヴィッツに限るの。」

いつもシモーヌはそう言って弾いてくれる。俺はホロヴィッツを聴かされた後に自分で弾いてくれるシモーヌの横顔を眺めるのが好きだ。

「シモーヌ?遅かったわね」ピアノの音が鳴りやんで程なく、女の子の母親らしき外国人女性が現れた。シモーヌママ仮称だ。ロシア人なのに流暢な日本語で、僕に理由を尋ねて、少しだけ待つように言われた。緑がかった芝生が広がる庭も夕方の太陽の前ではオレンジ色だ。


 引っ越してきたばかりらしく家の窓の向こうには段ボールがまだ積んであるのもみえる。少しずつ肌寒くなってきて着ていたジャージのポケットに手を突っ込んだ。

シモーヌママがあったかい牛乳の入ったマグカップを2つ持ってミニシモーヌと僕に差し出す。

「いただきまーす。」

そう言って僕はマグカップで両手を温めながら飲み干した。

横に座るミニシモーヌはおんぶされていた時とは正反対に、堂々としているように見えた。片手を脇腹に添えて一気に牛乳を飲んでいる。

シモーヌママが僕を観察しながら話しかけてくる。

「家まで連れて来てくれてありがとう。この子はシモーヌよ。靴は多分学校で隠されたみたいね。先生に電話しないといけないわ。ところでお名前なんて言うのかしら?」

「サルトル」

 僕の目をじっと見つめながら真剣な面持ちでミニシモーヌは、僕の代わりに、そう言った。灰色がかった不思議な薄緑色の彼女の瞳はとても美しかった。

「そう、サルトルくんって言うのね。お家はどの辺?時々遊びに来てくれると助かるわ。まだ友達が居ないから。」

「ええっと、手前の別れ道を逆に少し海側へ歩くと工務店があって、そこです。」

「あら、近くなのね。時々来てもらってもいいかしら?」

シモーヌママの勢いに圧倒され僕はノーとは言えなかった。

「助かるわ。ちょっと小学校に電話するわね。サルトル君も暗くなる前にお家に帰ってね」

そう言ってシモーヌママは家の中へ消えて行った。

「つぎ、またなんかされたら俺らに言いなよ。明日遊ぶとき迎えにきてあげる」

 何となく、裸足で帰らざるをえなかった彼女のクラスでの立場を理解していた。裕介の考えなどこれっぽっちも考えず、「俺ら」と言い切った。むしろ、その時は裕介のことも、彼の真剣な悩みも、何故かあれほど好きだったマナちゃんのことさえ思い出さなかった。

 牛乳を飲み終えたミニシモーヌはベンチに仰向けにふんぞりかえり空を見上げながら裸足のままの足をぶらぶらさせて、すっかり元気にみえた。木蓮の香りをもう一度思い切り吸い込み、僕はミニシモーヌにさよならをした。


 その日の帰り道、僕は送ってあげた小さな女の子の事を思い出しながら、妹分ができたような気持ちを誇らしく思えていた。

 ズッコケたミニシモーヌの後ろ姿も、おんぶしながら見た夕暮れの空も、シューベルトのアンプロンプチュ3番も、じっと俺の目を見つめながら真剣に俺の名前を口にした彼女の美しい灰色がかった薄緑色の瞳も、そして庭の木蓮の香りと翌日遊びに誘わないといけないという使命感に燃えていた事も、すべて昨日の事のように今でも覚えている。

第三節 待ちぼうけ

胸の下にある2人の名前と2匹の鯉を撫でながら、右上腕部のマリア様を見つめる。17歳の時、モスクワへ少しの間帰っていた。その時に、兄の真似をして、私もマリア様のタトゥーを入れた。2匹の鯉は2年前に入れた。ゆっくり時間をかけてシャワーを浴びて歯磨きをすませ、上にサルトルのパーカーだけ羽織り誰もいない庭に出る。サルトルが昼休憩の時に私の子ども時代の話、特に私たちが最初に出会った時のことを聞きたいから電話すると言っていた。それまであとたっぷり3時間以上はあるから、思い出せるかぎりのことをノートに書いている。

***

 モスクワで生まれてすぐ、ママとパパは離婚した。だから私はパパには会ったこともないし、写真も見たことがない。それから2年してママは新しい人と付き合って、私には弟ができた。ママは姉、兄、そして私と2つ年下の弟、4人の幼い子どもたちを食べさせる為に昼はピアノ教師、夜は日本人相手にロシア語の先生をし、働き詰めだった。ママのボーイフレンドはお金の援助を申し出たけれど、ママは一切受け取らなかった。

 私が5歳くらいの頃、姉と兄はママのママ、おばあちゃんの家から学校に通い、週末になると小さなアパートに戻ってきた。だから私は日中いつも小さな弟と2人ぼっちで過ごしていることが多かった。けれども、ママのボーイフレンドは月曜日から木曜日まで、私たちの面倒を見に、遊びに来てくれた。私たちはアパートの4階に住んでいて、ママのボーイフレンドがコツコツと階段を登ってくる音が響くと、私は急いで玄関のドアに駆け寄り、開けて彼の優しい顔が階下に見えてくるのを心待ちにした。私はママのボーイフレンドをジェーニャと呼んで慕っていた。

 ある日、ママが夜中に帰ってくると、キッチンで泣いていた。私が心配そうに「ママ?」と声をかけるなり、何事もなかったかのように私ににっこり微笑んで強く抱きしめ、そのあと弟の眠るベッドに2人で潜り込んだ。

 次の日、ジェーニャは来なかった。次の次の日も、その次の次の日も来なかった。私はコツコツと階段を登ってくる足音が響くと、玄関を開けてジェーニャを待った。けれど、郵便配達員や隣の人たちで、ジェーニャではなかった。それからだんだんとジェーニャのことを考える日は少なくなって、1年後にはすっかり忘れてしまった。

 それから数年経ったある日の夕方、ママが見慣れない日本人の男の人を連れてきた。ママはその人のことを「タカクラ先生」と呼んでいた。とても感じの良い穏やかな人で私と弟はすぐ懐いた。ママとママの新しいボーイフレンドはやがて結婚し、私の名前はタカクラになった。タカクラ先生は私たちにたくさん日本語の絵本を読んでくれたり、少しずつ読み書きを教えてくれていた。


 11歳の誕生日を過ぎた2月、私たち家族はモスクワを離れ、タカクラ先生とみんなで鎌倉へ移り住んだ。初めて通う日本の小学校。私は初日、とても緊張していたと思う。そして、モスクワにいた時のように振る舞うと、やがてクラスのみんなから変わり者扱いされてしまった。

 ある日の国語の授業中、窓の外に小鳥が止まっていた。私はとても可愛いらしいその小鳥に魅せられ、席から離れて、窓辺に歩み寄り、「ことり」とみんなに教えてあげた。担任の木内先生は私に「タカクラさん、ちゃんと座って。授業中です」と言い、私を諌めた。

 木内先生は大学生かと思うほどに若く、丸顔でいつも白いシュシュで髪を一つに後ろで束ねて、健康的に太っていた。生真面目そうな日本人らしい細い目と小さな鼻と口が一層に先生を若く見せていたのかもしれない。細い目のせいで私には、あまり優しい人に見えず、頼れないなと心のどこかで悟っていた。

 私は木内先生の言うことを無視して窓際に立ち続け、小鳥の姿に見惚れていた。やがて、小鳥が羽ばたき、去っていったので、私も小鳥の羽ばたく真似をして席へ戻る。クラスのみんなが私を笑っていたけれど、私は気にし なかった。

 次の日から、私の持ち物に消しゴムの屑が入れられたり、上履きをトイレの水の中に入れられたり、タカクラ先生が準備してくれた真新しい素敵な赤いスニーカーもなくなり、上履きで帰る日もあった。上履きがあまり汚れないように、途中から裸足で地面のひんやり感を楽しみながら帰る。学校の嫌な出来事を忘れて、ママが時々弾いてくれるグリンカのひばりを口ずさんで。そんな風に歩いていると、私よりも大きな男の子たちが仲良くキャッチボールしているのが見えてくる。また悪口を言われるかもしれない。私は俯き口ずさむのをやめて歩く。できる限りこちらに気を向けないで欲しい。けれど彼らのいる場所を通らずには帰れない。地面の冷たさと、たまに踏む石ころの感覚だけに集中した。そんな私の願いはすぐに打ち砕かれる。

「おーい」

 私は無視して駆け抜けようとし、転んでしまった。彼らは意外にも私に優しく、背の高い方の男の子が私を家まで送ってくれた。サルトルという名前だった。学校で何かあったら、味方になってくれる約束もしてくれたし、遊ぶとき仲間に入れてくれる約束もした。彼らは残念ながら同じ小学生ではなく、中学生だったことを知り、少しがっかりした。翌日、赤いスニーカーは体育館の裏のゴミ置き場で用務員のおじさんが見つけてくれた。木内先生がその朝、みんなに友達の持ち物を隠したりしないように諭していた。うしろの席の男の子が私の背中にその間も消しゴムの屑を飛ばしていたし、そのあとも卒業するまで私への嫌がらせは続いていた。

 もし、サルトルたちが一緒にいてくれたらどんなに心強いだろう。私はジェーニャを待っていた時のように、次の日、学校から戻ると、サルトルが呼びに来てくれるのを庭で待った。けれど、彼は現れなかった。次の日も、その次の日も庭で待った。学校は春休みを迎え、私はいつもピアノをママに教えてもらったあと、庭で少しだけサルトルが来るかもしれないと思い、待っていた。

 木蓮の花びらがベンチの周りにすっかり落ち、クリーム色の絨毯のようになっている。きっと彼らは小学生なんかじゃないから忙しいのだろう。ベンチにひとりぼっちで座り、サルトルたちと手を繋いで学校へ行き、みんなが休み時間それぞれにおしゃべりするようにサルトルたちとおしゃべりしたり、帰り道も楽しく笑いながら3人で手を繋ぐ姿を想像した。そんな事はきっと起こらないのも知っている。けれど私は彼らと友達になりたかった。モスクワの遅い春のことやどんなに冬の外は寒いのか、私のピアノのこと、兄弟のこと、ママのこと、タカクラ先生のこと、たくさんおしゃべりしてみたかった。並んで牛乳を飲んだ日の少し寒かった空気は、もう暖かく乾いたものに変わっていたし、クリーム色の絨毯はなくなり、薄緑の芝生が広がっているだけになった。もうすぐ、春休みも終わり、また学校へ通う日がやってくることをできる限り考えないようにした。春休みが終われば、私は小学6年生だし、彼らは中学3年生だ。みんな子どもなりに忙しいのだから。

***

 ここまで書いていると、電話が鳴った。

「何しとった?弁当うまかったよ。今日、暖かいな。少し、散歩したりした?」

「転んだ日のこと書いてたの。あなたが、朝、聞きたいって言ってた。」

サルトルに書いていたことを話すと、待ちぼうけにしたことを謝りながら、その間にあったことを聞かせてくれる約束をしてくれた。

第四節 木蓮の庭 再び


 シモーヌに、「出会った時のことを思い出せたら教えてほしい」そう言ったのを俺は少し後悔しながらいつもの新築現場の大工工事に取り掛かっていた。昨日とは違い、今日は雲ひとつなく、朝からよく晴れている。いつもなら10時ぴったりにシモーヌにビデオ通話をかけていたが、何となく気が重く、メッセージだけ送って、昼過ぎに彼女と話すことにした。思い出させる事ではなく、俺がこれから書くことで、繊細な彼女を無用に心配させたり、傷つけたり、は過去の俺の馬鹿げた話でがっかりさせたくなかった。間違いなく俺がしばらくミニシモーヌに会いに行かなかった理由を聞かれるだろうし、説明しても不機嫌そうにするのも目に浮かぶ。けれど、それをいつまでも言わずにこの物語を書くのも無理がある。

 そんな風にシモーヌが作ってくれた弁当を食いながら、俺は葛藤しつつ、シモーヌに電話で話を聞き、帰ったらその続きを話す約束をした。

***

僕は翌日ミニシモーヌの家には行かなかった。正確に言うと、あれほど使命感に燃えていたのに、あっさりマナちゃんと過ごすことに屈服し、ミニシモーヌのことを忘れていた。いや、完全に忘れていたわけではない。いつもどこかで彼女の瞳と擦りむけた手のひらと、背中きら伝わる押し殺した泣き声が僕の心に残っていた。

 裕介はその日、塾の面談があり、僕とマナちゃんは2人きりで帰った。雨が降りそうで降らない午後。どんよりとした曇り空の下で、マナちゃんが僕に宿題を手伝って欲しいとせがんだ。

「サルトルが良ければだけど、少しだけ手伝って欲しいの。英語の宿題だから、サルトルには簡単でしょう?」

「どこで?今日?」

「今日!今から。お母さんも旅行でいないから、遠慮なんかすることないしさ、私の部屋に来て手伝ってくれないかなって。」

「んー、いいけどさ、俺、昨日少し近所の子と約束しちゃったんだよね。遊んであげるって。その子小学生でさ。多分、引っ越してきたばっかだから友達も居なそうで。」

マナちゃんは、僕の話が終わらないうちに手を握っていたずらそうに微笑みながら、僕を彼女の家の方へ引っ張って行った。マナちゃんの顔がどんな風だったかは本当に覚えていない。けれどその時、確かにいたずらっぽく微笑んでいたのはなぜだかおぼえている。僕はフィリピン人の母親と日本人とスペイン人のハーフの父親のせいで家の中ではほとんど英語で会話している。祖父と話す時だけは、日本語だ。

 マナちゃんの部屋はとても広くて、白っぽい壁紙と出窓のコーナー側にベッドが置かれて、その対角に立派な机が置かれていた。僕の兄貴と共有している六畳和室とは大違いだ。僕とマナちゃんは並んで宿題をし、マナちゃんは僕のものを写しただけだったが、曇り空の中から陽の光が差し込むのを2人で眺めながら、おしゃべりしていた。マナちゃんが僕に覆い被さってキスしてきたから僕はそのままマナちゃんと

***

 俺はここまで思い出して、ガキの頃からシモーヌにたまに言われる通りヤリチンだったなとなんとなく思った。マナちゃんとその日お互い初めてセックスしたし、俺はちゃんと、何故か、財布にゴムも入れてたから避妊もした。何故かというよりも、母親がうるさく言っていて、勝手に財布に入れられたというのがじっさいのところだ。大体これ以上書いても、シモーヌにこの話の続きをしたら、顔すら思い出せないマナちゃん相手にヤキモチを妬かれて、家に入れてくれなくなるのも想像できる。

***

 僕は、その日意気揚々として家へ帰り、その日以来、何かと理由をつけて裕介を避けた。もっとも、ミニシモーヌと最初に出会った日以前から、マナちゃんとはマナちゃんの部屋でキスしたり抱き合ったりはしていた。裕介は俺が小学生の頃クラスのリーダー格の奴らにいじめられかけていた時、俺を庇ってくれた。それ以来、俺と裕介は何でも話し合う仲だった。けれど、マナちゃんのことだけは言えなかった。マナちゃんとはマナちゃんのお母さんがいない頃合いを見計らって部屋に転がり込んでいた。僕の世界の中心は、マナちゃんとのセックスだったし、ミニシモーヌとの約束は彼女の家の前を通りかかるまで忘れていた。

 理由はよく覚えていない。いつものようにマナちゃんの部屋で抱き合ったりした後、家へ帰る途中、何故かふと、遠回りしたくなって、ミニシモーヌの家の方向へ曲がった。「ここから私有地。無断駐車禁止」と書かれた立て札を見て、ミニシモーヌがこの家の子だったのを思い出す。庭先の木蓮があまりにも強く印象に残っていたから、僕は気になって、庭に視線を移した。木蓮の花は全て咲き終わってしまっていたが、ベンチにふんぞりかえる少し寂しげなミニシモーヌが見えた。その姿を見た瞬間に、僕はあの日の帰り際、ミニシモーヌと次の日迎えに来る約束をしていたことを思い出し、ミニシモーヌに思い切って声をかけた。

「何してんの?」

 不意に声をかけられて、ミニシモーヌは驚いたように僕を見つめる。まるで僕が突然現れたご先祖さまの幽霊か何かのように。

「もうおうちの中に入らないといけないの。あなたが来るの待ってたけど、遅い」

「俺も、これから帰るところ。明日キャッチボールか缶蹴りでもしようよ。この前の友達も連れてくるからさ。」

僕とミニシモーヌは垣根越しにそんな会話をしてそれぞれに別れた。

***

マナちゃんの顔も匂いも感情も全ては遠い記憶の彼方にあって俺はシモーヌを心の底から愛している。けれど、あの日約束していたことをしばらく忘れてしまったのも事実だ。ごめんな。ミニシモーヌ。

夕方4時半の市内放送が鳴り、後片付けをしてトラックに乗り込む。親父は今日別の現場を見に行っているからひとりだ。車の中でしばらく¥ELLOW BUCKSのNeed A Dr.をかけながらぼんやりシモーヌの事を考えていた。きっと癇癪を爆発させる。寝ながら話すか、寝た後話すか、飯食いながら話すかどうするか。

第五節 サルトルとの対話と金魚鉢

エンジンをかけてしばらく、そのままバックミラーに映る俺を見つめる。そこには14歳ではなく、26歳の俺がいる。4月のような柔らかい夕暮れの海風が俺の意識を遠い過去に連れて行こうとする。俺はそれに抗うように、けれど少しだけそこに近い場所を触れていたくて、裕介のことを考えた。


裕介とは今でも頻繁に連絡を取り合っている。裕介は地元の高校を卒業した後、鉄筋鳶職の仕事に就いた。19歳の時にキャバ嬢と結婚し、今では2児の父でもうすぐ3人目が生まれる。

俺がマナちゃんとできていたことを今更告白したところで、笑い飛ばされるだけだろう。まっすぐこのまま帰らずに、無性に裕介に会い、彼に笑いながら、

「お前ってほんと昔からバカだよね」

と言われたくなった。


まっすぐもう一度バックミラーを見ると、俺と瓜二つのサルトル仮称ではなくサルトル先生がそこにいた。俺を見つめ返してくる。嘲り笑うのを必死に堪えて顔をしかめて俺を問う。


『マナちゃんも神戸のときの女の子たちもほとんど覚えていないんだろ?それともシモーヌには神戸のカナのことしか話していないのが後ろめたいのか?俺はこんなに女の子と向き合うことなく適当に遊んでいましたって自慢にもならない自慢をして、お前を捨てようとしたシモーヌに復讐したいのか?』


俺は教授を無視することにした。それに俺はシモーヌに捨てられかけてなんかいない。第一、今俺はシモーヌの夫でシモーヌは俺の妻だし万が一シモーヌが裏切るようなことがあったとしたら俺は絶対に許さないし、シモーヌを監禁してでも俺の元から離さない。監禁して俺はシモーヌの首を死なない程度に締め付けて、手錠をかけたまま死ぬほどセックスして、手錠をしたまま綺麗に身体を洗ってやり、朝仕事へ素知らぬ顔で行き、夜また同じ事を繰り返して、彼女から完全に自尊心を奪い取って、俺に絶対的な服従をさせるし、ミラーの向こうの教授の喉を締め付けて俺を嘲ろうとしたことを死ぬほど後悔させてやる。

 

突拍子もないことをよくも思い付いたなと我に返り、俺はそのままサイドミラーを確認しトラックを発進させた。

***

春休みが終わるまで僕とミニシモーヌはほぼ毎日遊んだ。遊ぶというより、主に日本語を教えてあげていた。時にはそこに裕介も参加した。サッカーボールを取り合ったり、僕の得意なスケボーを披露したり、スケボーにミニシモーヌを乗せてミニシモーヌの自宅の私道から僕の家の前まで引いてあげたり。


僕のボロ家にもミニシモーヌは遠慮なく上がり込んで百科事典を興味深く眺めていた。僕はDの項目を見せて得意げに犬の解説をしてあげたりもした。ミニシモーヌの家の中にもお邪魔した。シモーヌママがとびきりのパウンドケーキを焼いて僕に帰り際持たせてくれたりもした。


この関係は僕と裕介が中学を卒業するまで続いていく。僕は少し物覚えと要領が良く、あまり勉強しなくても成績が良かった。担任の尾島も両親に強くS南高校を受験することを勧めてきていた。僕はそのもっと前から親父や長男の兄のように大工になることを決めていたから、あまり乗り気ではなかった。


マナちゃんとは夏休みが終わったあたりから一緒にいることがなくなっていた。マナちゃんは塾で忙しくなり、お母さんから僕らの交際を反対されたのもあって、「お互い受験が終わるまで、会うのをやめましょう」と言ってきた。何故か僕は未練もなく、納得したし、中学を卒業してから僕らが再び会うことはなかった。

 

無事にS南高校にも合格し、両親にとっては順風満帆のように見えた春。僕はその2週間後には退学し、勘当同然のような形で家を飛び出し神戸へ向かう。どうしてそうなったかは、また別の機会にでも話す。


ただ、神戸で生活するようになってからもしばらくの間、ミニシモーヌに僕が鎌倉を離れることを伝えられなかったことが少しばかり気がかりだった。

「また今度、教えてあげるよ。」

「私、もうすぐしたら中学生よ?そしたらスケートボードでなんて遊べなくなるもの。」

「俺なんて中学3年なのにまだやってんだぜ?ミニシモーヌだってそう簡単には大人になれないって。」

「私は大人になるかどうかなんて気にしていないの。中学生になったら、あなたは高校生でしょ?今よりもずっと忙しくなってしまってきっと私のことなんて忘れるわ。だから、きっとスケートボードは今じゃなきゃだめよ。」

僕が中学を卒業した春休みに交わした会話。ミニシモーヌと子どもらしい最後の会話だったと思う。


神戸へ行ったあと、僕は簡単に大人になっていってしまった。きっとミニシモーヌの何倍もの速さで。

***

見慣れたT字路を右折し、部屋から溢れる電球の光が目に入ってきた。トラックのエンジンを止めて、しばらくまた放心状態になりながらもなんとか玄関のドアを開け、家族の顔を見つけると、どっと安堵が押し寄せ、マナちゃんの話などどうでもよかった。


風呂に入り、親父、かーちゃん、シモーヌ、俺、そしてゆりかごの中で眠る娘、5人でテーブルを囲んでテレビを観ながら食事。俺のありきたりで平凡な夜が、何故かとてつもなくこの日は大切に思えた。


夕飯のあと、母屋から別棟の俺とシモーヌの部屋に戻り、ソファでふんぞりかえるシモーヌ。子どもの頃のように無邪気な横顔を見てそのままひとつになってセックスしてしばらくしてから、ぼんやり窓際に目をやると、そこには真新しい金魚鉢が置かれており、小さな一匹の金魚がおよいでいた。背から尾びれまでがオレンジで腹が白い平凡な金魚だ。


「これ、どうしたん?」

「可愛いでしょ?サルトルみたいだなって思って、すぐに買ったの。今日サルトルママと西友にお買い物いったら、何故か売っててさ。」

「へー、俺、金魚やないよ?」

「ねえ、今日の約束のやつ。覚えてる?私に約束してくれたでしょ?あの日の翌日どうしてしばらく来なかったのか教えてくれるって」

「わかったけど、その前に、あの時行かなくてごめんな。謝っとくわ。あと、これから話すことは昔話であって変に拗ねないって約束してな?」

ありのままマナちゃんを優先し、ミニシモーヌのことを忘れていたこと、裕介の気持ちのこと、高校を中退し神戸へ行く際、ミニシモーヌに何も告げなかったこと、その時の最後の会話のこと。すべてありのままにシモーヌに話した。


案の定、シモーヌはマナちゃんのくだりで少し拗ねていたが、それ以上彼女は俺の予想に反して怒らなかった。話終えると、ただ、じっと金魚鉢を見つめていた。


「私は小鳥であなたに恋焦がれて窓際にあなたを見つけに来るの。あなたは私に気づいて美しく泳いで見せてくれる金魚鉢の金魚なの。」

シモーヌは少し酔いが回っていたんだろう。そんな不思議なことを言い、珍しく俺より早く眠りについてしまった。俺はシモーヌの言った言葉の意味が理解できず、こうして書き残しておくことにした。


その夜、不思議な夢を見た。


第一章 完結

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