第4話

 黒く立ち込める雲の間から、ついに最初の雨粒が落ちてきた。それをきっかけに、天気はバケツの底が抜けたような大雨に変わる。風は強いうねりを持って、雨を地面に叩きつける。

 駅のホームには、屋根を叩く雨の音が響く。風が吹き込み、霧雨状の雨粒を吹き付ける。ホームに立った二人は霧雨に包まれながら、向かい合っている。

「――大変、興味深いお話でした」

 老人は満足気に頷く。

「本当に予想以上ですよ。聞けてよかった」

 男はぼんやりと老人の顔を見つめている。頭に霧が立ち込めたようにぼんやりしており、何の話をしているのか、上手く飲み込めない。

「……駅の間で発生した倒木は先程撤去が完了いたしました。電車が遅れ、お客様には大変ご迷惑をおかけしております。最終安全確認後、運行再開となる見込みです。到着まで今しばらくお待ちください」

 構内にアナウンスが流れる。

「……さて、今度は少し、私の話を聞いてください。大丈夫です。電車が到着するまでには終わります。よろしいですかね?」

 男は反射的に頷いていた。

「ありがとうございます。さて…何からお話ししましょうかね。まぁ、時間もないですし、単刀直入に行きましょうか。

 あなたは今の話をどこまで本気で信じておられますか?」

「えっと、どういうことですか?」

「ですから、あなたはご自分の嘘を嘘だと理解しているか、と聞いているのです」

「……意味がわかりません。私は嘘なんてついていませんよ」

「なるほど、嘘のつきすぎで自分でもわからなくなっておられるわけだ。見事なものです。人に嫌われる質、でしたか?それは嫌われるでしょう。都合の悪いことは人になすりつけ、嘘で誤魔化し、最後にはそれすら忘れてしまう。そんな人間が好かれるわけが無い」

「ごめんなさい、意味がわからないんですが……」

「谷口さん、でしたっけ?彼が本当に気の毒です。とてもいい人なのに。今頃、大変でしょう。会社の金を横領した容疑者ですから」

「横領?!谷口がですか?!」

「いやいや、横領したのはあなたでしょう?」

「なにを言って――」

「新設された営業部、予算は目安が分からなくてどんぶり勘定、派手に動く営業マン…経理担当のあなたなら適当な領収書を使って前渡金や交際費を誤魔化すのなんて、簡単なものだったでしょう。しかも、営業成績は好調。多少、金使いが荒く見えたところで、文句を言う人はいませんものね。

 あなたにとって想定外だったのは、谷口に気付かれたことです。いやぁ、本当に彼は優秀な人ですね。ですが優しすぎた。何かおかしいと気づいても、会社に報告するのではなく、あなたに声をかけてきたんですから。あなたを庇い、大事になる前にあなたを止めようとした。だが、あなたはそんな彼を見事に貶めた。横領に使った領収や関係資料は宛名や実施者が全て谷口さんの名前になっているし、経理上は完全に谷口さんがお金を使い込んでいるように見えるでしょうからね。

 とはいえ、きちんとした調査が入れば、あなたがやったことはバレてしまうでしょう。谷口さんはこれから必死に抵抗するでしょうし。業務上横領ですかね?窃盗罪?それとも民事訴訟になるんでしょうか?法律のことはよくわかりませんけど。しかし、それであなたは代わりに何を得たんです?小金でちょっと豪遊したとか、そんな程度ですか?美味しいものを食べて、好きなところに行って…ですか?高くつく話です」

 老人は笑みを浮かべて男を見つめる。男は立ち尽くしている。その顔には表情がない。老人の方を見ているように見えるが、焦点があっていない。

「……あんたは一体何なんだ」

「何って、ご覧の通りただの老人ですよ。ただちょっと人より長生きで、ちょっと他人のことがわかるだけです」

 老人はニヤリと笑う。目は釣り上がり、薄く開かれた口からは尖った犬歯が見て取れる。その顔はまるで……。

「……悪魔」

 男は思わずつぶやく。老人はふふっと笑いを漏らす。

「物事は全部受け止め方次第です。あなたには私が悪魔に見えたとしても、別の人には神様に見えるかも」

 老人は顔を上げると真っ直ぐに男の目を見つめた。

「あなたの自己欺瞞の純度の高さには私ですら頭が下がります。人は誰でも自分に嘘をつくものですが、あなたほどの嘘つきはそうはいない。見事なものです。自分が嘘をついているという自覚すらないと言うんですから」

 雨足はさらに強くなり、屋根からは滝のように水が流れてくる。風は屋根を吹き飛ばす勢いで吹き募る。

「台風が近づいてきていますね。天気予報では今日の夜にかけてこの地域に接近すると言ってましたが、どうやら速度を上げたらしい」

 老人は空を見上げて言う。

「最初に言った通り、私は別に、あなたをどうこうしようというつもりはありません。あなたが嘘の世界を生きるならそれは自由にしたらいい。世の中に疲れたから死ぬと言うならそれも結構。ただ……」

「……ただ、なんです?」

「あなたは自分の生死は神様に委ねると言った。そうですよね?他人を陥れ、嘘で自分を誤魔化して、挙句最後は神様任せと言うわけだ。私はどうにもそれが気に食わない。とはいえ、その可否は私が決めることではありません。それは神様が決めることです。神様がお決めになったことであれば従うんですよね?」

 老人は男を見つめる。その顔は固く、冷たい表情を浮かべている。

「何でしたっけ?通勤ラッシュの人が一番多い時間の駅で飛び込み自殺できれば、それは神の意思、ですか?回りくどくてわかりづらいですが、いいと思いますよ。

 はやく電車が来るといいですね」

「……当駅をご利用の皆様にお知らせいたします」

 構内にアナウンスが響き、男は顔を上げた。

「急速に速度を上げて接近する台風の影響により、この地域に大雨暴風警報が発令されました。それに伴い、当駅を通過するすべての路線は運行を停止することとなりました。多大なご迷惑をおかけして申し訳ありません……」

 目線を戻すと老人の姿は消えていた。

 男はホームの端で吹き込む雨に打たれながら、空を見上げた。雲は低く低く垂れ込め、強い風がそれを散らすように前へと推し進めていく。

 男は大きく息をついて周囲を見回す。ホームには男以外に誰もいない。

 足元に目をやると、黄色い線が引かれている。男は黄色い線の外側に足を踏み出した。ホームの端で足を止め、線路を覗き込む。庇の隙間から吹き込む雨が強く身体を叩く。静かに目を閉じたその瞬間、強い風が吹いて、男の身体を押す。雨に濡れた床で足が滑り、身体が大きく傾く。

 目を開くと、男はホームの上に倒れ込んでいた。しばらく呆然と天井を見上げる。雨が目に流れ込む。膝をついて立ち上がる。

 黄色い線はまだ目の前にある。だが、もうそれを踏み越えるつもりにはならなかった。男はただその場に立ち尽くし、来るはずのない電車を待ち続けていた。

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台風の日に ハクセキレイ @MalbaLinnaeus

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