第3話

「……駅間の線路上に発生した倒木の影響により、運転を見合わせております。運転再開まで、今しばらくお待ち下さい」

 構内に響くアナウンスで男は我に帰った。さっきまで薄曇りだった空は重苦しく厚い雲が立ち込め、今にも雨が降り出しそうだ。時折身体を叩くような強い風が吹き込む。

 男はぼんやりと周囲を見回す。一瞬、自分が今いる場所がわからなくなっていた。

「どうなさいました?」

 声のする方に目をやると、そこには老人が立っている。男は一歩、後ろに退いた。老人は笑みを浮かべていた。一見すると柔らかな笑顔だが、そこには一種の冷たさがあった。肉食獣が獲物を前にして舌なめずりをしているような冷たさが。

「話の途中で申し訳ないが、一つお尋ねしてもよいですか?」

 老人が口を開く。

「あなたを嫌う人たちのことをどう思いますか?理由もなくあなたを避け、嫌がらせをする人たちを」

「どうって……そりゃ、憎いですよ。それに少し怖くもある。なんで理由もなく人を嫌ったり、憎んだりできるのかって。私には理解できないです」

「自分に何か理由があるとは考えられませんか?あなたに何か反省すべき点がある、と考えたことは?」

「……私は何もしていません。もちろん、何もしていなくても嫌われる、それが私なのです。それを反省しろ、と言われても私にはどうすることもできません」

 男は少し興奮気味に言う。顔が紅潮している。

 男は老人の顔を睨みつける。老人は微かに笑っているが、その真っ黒な目は全く笑っていなかった。真っ直ぐに男の目を見つめている。

 男は大きく息を吸うと、再び話し始めた。

「そういう意味でも、谷口は酷いやつなんです。きっかけらしいものなんて、精々誘いを断った程度なんですから。そのくせやることはとても陰険なんです。谷口はしばらくなりを潜めて私が油断している隙に、罠を仕掛けていたのです。巧妙な罠を。常に、人の悪意に対してアンテナを張り、警戒している私でさえも全く気づくことができませんでした。

 つい先週のことです。谷口が私に向かって怒鳴り込んできたのです。なんの脈絡もなく。谷口は私の机に紙の束を投げつけました。それは決算にかかる資料でした。販管費――販売に係る原価や、営業経費に関する部分に赤ペンで大量の書き込みがしてありました。

 ――なんだこのめちゃくちゃな数字は!

 谷口はひとしきり、すごい剣幕で怒鳴り続けました。私には何一つ意味がわかりませんでした。資料の数字は会計システムから抽出したものです。それはこれまでに入力した営業経費の合計に過ぎません。そして、それらの数字は営業部から提出された領収書等をもとに記帳しています。もちろん記帳前に経理で決裁も取っていますし、経理に提出する前に営業部でも決裁を取っているはずです。私が勝手に書き換えたり、適当な数字を打ち込むなんてことはできません。私が戸惑って無言でいると、谷口は急に静かになって事務室から去っていきました。

 ――もう、庇いきれないからな。

 その捨て台詞は全く意味不明でした。ですが、これが谷口から私へのとどめの一撃だったのです。多分、事務所を出る時、谷口は笑みを浮かべていたことでしょう。

 そのあと、事務所は蜂の巣をつついたような大騒ぎになりました。人当たりが良くて、優秀な谷口があんなに取り乱していたのだから当然です。みんな何があったのか、と私に聞きにきました。私は何もわからないので、正直にそう答えました。何人かは私の机に置かれた資料を見ていました。

 私はすぐに経理課長に呼ばれました。決算の営業経費が営業部の把握しているものより多いのだと言われました。額は数十万。私はあるがままを答えました。決算資料に記載された数字は会計ソフトから抽出した数字で、支出経費に関わる資料は全てきちんと整理されている、と。経理課長もそれを認めた上で、再度、帳簿に記載された営業経費を全てチェックする、と言いました。もちろん、私はその指示に従いますし、その作業はまだ続いています。

 これは間違いなく、谷口による嫌がらせです。谷口に怒鳴り込まれたせいで私は悪目立ちしてしまいました。翌日には、私が帳簿を誤魔化して会社の金を着服した、という噂が流れ始めたのです。あの温厚で人望も厚く、人当たりも良い谷口が怒りで取り乱すなんて、よほどのことがあったのだ、と。前日までは無関心にでも対応してくれていた同僚が、明確に私を避け始めました。谷口の捨て台詞――もう、庇いきれないからな――を聞いた職員が複数いたらしく、それが噂に信憑性を持たせたようです。

 今、私は針の筵にいるのです。わかりますか?多分、経理の資料が揃って、数字が合っていると証明されたとしても、私に対する視線は変わらないでしょう。間違いありません。これまで生きてきて、何度も経験してきたことですから。私を経理から外すという話もあるようですが、外してどうするんでしょう。あんな噂が立った後で、社内に私を受け入れてくれる先があるとは思えません。もしかするとクビなんてこともあるかもしれない。

 これまでずっと、必死になって息を殺して、孤独に耐えて、どうにかこうにかやってきたんです。それが全て無駄になるのです。わかりますか?あまりに酷い仕打ちだと思いませんか?私が谷口に何をしたというのでしょう?少し誘いを断ったからここまでやるのでしょうか?何故こんな目に遭わなければいけないのでしょう?

 グビになる前に会社を辞めてしまおうかとも思いました。ですが、辞めたところで何も変わらない。上手く次の新しい職場を見つけられたとしても、どうせまた同じの繰り返しです。そう考えると、もう、いいかなという気分になるのです。もう疲れたんです」

 男は言葉を切った。不意に強い風がホームに吹き込み、近くで何かが飛んでいく音がする。

「ですが、私は弱い人間です。もう死んでもいいかな、とは思うものの、やっぱりちょっと、生きていたいとも思ってしまうんです。

 最初に言った通り、本当は私も死にたくなんてないんです。ですが、これから先、生きていても傷つくばかりだとするなら死んだ方がマシです。だけど、やっぱり生きていたい……。そんな思いを行き来して、これまでの一週間近く、どうしても決心がつかなかったんです。

 ですが、今朝目が覚めた時に思いついたんです。もう、神様に委ねてしまおうと。そもそも、私がこんな辛い思いをしているのは神様が、私にこんな特殊な才能を与えたからです。人に嫌われることを才能と言っていいのか、よくわかりませんが。だから、神様に責任をとって貰えばいいんです。

 それで、いつもの通勤電車、通勤ラッシュの、人が一番多い時間に電車に飛び込むことにしたんです。多分、自殺の成功率は低い時間でしょう。神様がまだ生きろ、というのならきっと誰かが私を止めるはずです。神様がもう楽になってもいいよ、と言ってくれるなら、どんな人混みの中でも私は上手く死ねるはずです。そう思って、駅のホームに来ました。するとら台風の影響か、ほとんど人がいないじゃないですか。これはつまり、神様が私に死んでいいと言ってくれている、ということでしょう?違いますか?とにかく、神様がそう言ってくださるであれば、私は従うのみです。ただそれだけです」

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