第2話

 ホームを湿った風が吹き抜ける。駅を見下ろすように立ち並ぶ周囲のビルから風を切る甲高い音が流れてくる。台風は確実に近づいて来ている。

 男は前髪が風に巻き上げられるのを感じる。老人は風にも全く反応を示さない。男を見据えたまま、瞬き一つしない。

 男もまた老人を見つめる。気になるのはその目だった。黒く、深く澄んだ目。顔に刻まれたシワや、広いおでこ、真っ白く薄い髪の毛には不釣り合いの若々しい瞳。男はそこにある種の純粋さを感じた。

 男は口を開いた。

「一つ、断っておきますが私は決して死にたいとは思っていません。できることなら生きていたいと思っています。この世界には素晴らしいものが沢山ある。美味しいものや、綺麗なもの、心地よいもの、本当に沢山ある。旅行や、食事、映画に、小説、美術に音楽…。私はそれら全てを愛しています。

 問題は人間です。私はどうも、人の間で生きていくことに向いていない。いつも誰かに嫌われ、憎まれ、避けられる。私の人生はその繰り返しです。わかりますか?」

 老人からはなんの反応もない。それでも男は話を続ける。

「子供の頃からそうなんです。学校ではいつも仲間外れ。教室の隅で一人で過ごしていました。幸いなことに、積極的に嫌がらせをしたり、暴力を受けることはありませんでしたが、誰にも受け入れてもらえず、避けられていたのです」

 男は不思議な感覚に襲われていた。なんで子供の頃の話なんてしているのだろう。男は老人の目に映る自分の姿を見ながら自問する。話の手綱が自分の手から離れていく。

「それは大人になっても変わっていません。大人になった分、表面的に取り繕ったり、建前で誤魔化したりということはありますが、みんな私を嫌っているんです。

 私も、好かれようという努力はしてきたつもりです。人が嫌がることはしない、やりたがらないことは率先してやり、寛容に、優しくあろうと努めました。身なりも整え、でも、目立たないように。だけど上手くいかない。どうしても人に受け入れてもらえないんです。なぜ私だけがこうなのかと、神様を憎んだこともありました」

 男は戸惑いながら、自分の喋る声を聞いていた。自動的に、口から言葉が流れ出ている。男はそんな自分を、黒く広がる老人の瞳越しに眺めている。

「いつか、人から離れて生きることができればいいなとも思っていました。どこか人里離れた山奥だとか、海の向こうの無人島だとか、そういうところで生きるのです。子供の頃から、そういった想像が救いになっていました。誰にも嫌われず、自由で満ち足りた生活。自然は大好きですので―― だって、木や水や土は私のことを嫌いにならないでしょう?――これは名案だと思っていました。実際、いつかそうなればと思って、そこそこのお金も貯めていました。まぁ、そんなに甘くはいかないと言うことはわかってます。今ある便利な生活を捨てて、自給自足、なんてどう考えても私には無理です。知識もないし、体力だって自信がない。どんなに自由だとしても、人から離れて生きるのは、私には荷が重い。

 だから私は仕方なく、こうして人の間で生きることを選んだのです。

 ただ、子供の頃からそうなので、もう人から嫌われることには慣れてしまいました。多少の軋轢や齟齬はありますが、不用意に人に近づかなければ傷つくことはありません。上手く生きるコツは気配を消すこと、人と自分の間にある一線を超えないこと。それだけです」

 男は一息ついて、線路の先に目線を送る。電車がやってくる気配はない。頭上の電光掲示板には遅延のメッセージが流れ続けている。

「それで、何故、今更死のうと思ったんですか?上手くやり過ごして生きてきたんでしょう?」

 男は老人に向き直る。老人は不思議な引力で男の目を捉える。男は口を開く。

「きっかけは谷口という男です。

 私は樹脂成型の会社に勤めているのですが、谷口は会社の同僚で、同じ年に入社した同期です。同期は私も含め五人ほどいますが、私と谷口以外の三人は高卒の十八歳で、大卒はなのは私と谷口の二人だけでした。私は経理、谷口は製造に配属されました。

 谷口はとても社交的で、明るく、エネルギッシュなタイプの男です。背はそんなに高くないのですが、骨太で、大きく、よく通る声をしています。

 初めて会った時――内定式だったと思います。彼は屈託なく笑って、これから仲良くやろう、と言ってきました。彼は笑って握手したのを覚えています。私にそんなことをする人は、今までいなかったのでとても驚きました。彼は他の同期や、先輩たちにも同じようにして握手していましたが。黒く日焼けした手が印象的でした。

 入社してしばらくすると、谷口は製造部門で目立つ存在になっていました。年下の同期や年の近い先輩を集めて。何か研修のようなことを始めたのです。少しすると谷口の集めた若手から各部署の作業の無駄や、レイアウトの変更、作業工程の変更など、様々な業務改善の提案が挙げられ、そのうちのいくつかが採用される、といった事が起きました。

 私は経理担当なので、現場の詳しい状況はよくわかりません。ただ、谷口の名前はよく耳にしました。あいつは優秀だとか、製造部長のお気に入りだとか、そんな話です。もちろん、陰口も聞きましたが、賞賛の方が多かったですね。

 一年ほど前、谷口は同期の一人と共に、製造部門を離れました。製造部長の発案で、それまで製造部長と社長が担っていた営業活動を行う部署が新設されたのです。その部署は製造部長の直轄で、谷口は実務上の責任者になっていました。

 私は入社からずっと経理担当なので、製造部門の谷口とはそれまでほとんど接触を持つ機会はありませんでした。ですが、谷口が営業担当となってから、ことある毎に顔を合わせるようになりました。

 谷口は経理に顔を出すたび、私に声をかけ、また今度飲もうだとか、ご飯を食べに行こうだとか、言ってくるようになりました。それは新鮮な経験でした。人からそんな風に誘われたことなんて、一度もなかったですから。こういうあけすけな態度が、人から好かれるコツなのかも知れない、そんな風に思いました。今から飲みにいくから一緒に行こう、なんて強引に連れて行かれそうになったこともあります。ですが、私は私のことを弁えています。必要以上に近づけば傷つくのは私自身です。その日は丁重に断りを入れ、不要な摩擦を避けることができました。

 仕事の面で、彼は積極的に活動していて、これまでは営業の出張なんて2ヶ月に一度くらいだったのが、毎週くらいに変わってしまいました。こんなに経費を使って、本当に利益が出るのか疑問でした。しかし、部長の決裁を経てやっている事業に口出しすれば、無用な摩擦を生むだけです。私は何も言わず、自分の仕事をこなしました。

 結局、谷口は上手く成績を上げていたようです。会社の取引数は増加し、設備投資や人員増の計画も持ち上がりました。うちの上司なんて、谷口で会社が持ってるなんて言うほどでした。

 その頃からです。谷口が私に対して敵意を向け始めたのは。初めはちょっとした言葉尻や言い回しでした。例えば、伝票を一枚持ってきて、きちんと処理しといてくれよ、とか、出張の前渡金精算で、数え間違えるなよ、とか。言葉の受け取り方の問題だと思うかもしれませんが、こっちは子供の頃から無意味に嫌われ続けているんです。人の敵意には敏感です。

 谷口からのこの行動は私にとって少なからずショックでした。人の悪意や敵意に慣れているとは言っても、傷つかない訳ではありません。社交辞令だったかもしれませんが、谷口はそれまで私に対して友好的に接してくれた唯一の人でした。誘いを何度も断ったことが原因だろうかとも思いましたが、そもそも、何もしていなくても人に嫌われる質なのですから、考えたって仕方がありません。私は気付かぬふりをしてとにかくやり過ごし、できるだけ谷口に近づかないよう気をつけるようになりました。

 しかし、不思議なことに、谷口は妙に私に近づき、やたらと声をかけてくるのです。それまでと同じように、いや、それまで以上の熱意を持って私を食事や飲みの席に誘うようになりました。ですが、その誘いの言葉にはこれまでと違い、どこか暗い、悪意が影を落としているのが感じられました。何か狙いがあるのは間違いありません。私はとにかく、必死になって谷口を避け続けました。

 そんな日々が数ヶ月続いたある日、ふと思い返すと、しばらく谷口からの接触がなくなっていることに気がつきました。谷口から仕事を頼まれることもなく、飲みや食事に誘われることもありませんでした。ほとぼりが覚めたのだと、そう思いました。ようやくこれまで通りの、日常が戻ってきたのです。ですがその日常はとても短いものでした」

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