台風の日に
ハクセキレイ
第1話
①
「……台風の影響により、午後六時以降の運転は見合わせる予定です。また、今後の天候次第で、午後六時以前の運行も見合わせとなる可能性がございます。ご注意下さい。……」
男はアナウンスを聞きながら駅のホームへと上がる。黒のスーツに黒の革靴。背中にはビジネスリュック。これから出勤するところのようだ。ホームに足を踏み入れた瞬間、男は立ちどまった。目の前には見慣れぬ光景が広がっている。時刻は午前七時過ぎ。普段なら通勤ラッシュで混み合う構内には、僅かな人影があるだけだった。
しばしの逡巡の後、男はゆっくりとした足取りでホームを歩いていく。ホームの先端まで進むと、黄色い線の手前で立ち止まり、庇の隙間から見える空を見上げる。薄い雲越しに柔らかな日差しが広がっている。台風が接近しているらしいが、一見すると夏の終わりの穏やかな朝だ。しかし、目を凝らしてよく見ると、雲は上空の強い風に流されて、渦巻いている。雨を伴う重い雲はすぐそこまで迫っている。嵐の前の静けさというのはこういうことを言うのだろうか。
男は周囲を見回す。辺りには誰もいない。ゆっくりと足元の黄色い線を踏み越える。線路に背を向けて、ホームの際に踵を浮かす。静かに目を閉じて、そのまま五つ数える。何も起きない。男は何事もなかったかのように、線の内側に戻っていく。
「何しているんですか?」
背後から声がして、男は身を固める。ゆっくりと振り向くと、そこには一人の老人が立っていた。白のシャツの上に、黒い薄手のカーディガンを羽織り、ベージュのチノパンにローファーを履いている。身綺麗で、きちんとした人、という印象だ。いつの間にやって来たのかわからない。一瞬前までは確かにそこに人はいなかった。
「いえ、別に何も」
男は素っ気なく答える。
「嘘がお下手ですね」
老人はくすくす笑う。男は老人を無視する。頭上の電光掲示板に目をやると、時刻は午前七時十五分。目当ての電車は七時十七分予定。あと二分。電車がやってくる方を眺める。まだその姿は見えない。
「心配しなくても、止めたりはしませんよ」
老人は言う。男が振り返る。
「人はそれぞれ事情がある。見たところまだお若いようだが、抱えているものの大きさと、年齢は関係ないものです」
男は何も言わず、老人を見つめる。
「ですが、どうしてそんなことをしなければならないのかが気になります。お答えいただけませんか?さきほども言いましたが、止めるつもりはありません。ただ、話をお聞きしたいだけです」
男は黙って線路の向こうを見つめる。もう間も無く、電車ははやってくるはずだ。
「あぁ、そうですね、電車の時間がありました。ですが、そこはご心配いりません」
「……一番乗り場に参ります、七時十七分発の電車は走行路線に倒木が発生した影響により、遅れが発生しております。ご利用のお客様にはご迷惑をおかけして申し訳ありません。到着まで今しばらくお待ちください」
構内にアナウンスが流れる。
「どうです。これで大丈夫でしょう?」
老人は笑顔で言う。男は初めて老人の顔を見る。
「……なぜわかったのですか?」
「そんなことはどうだって良いのです。大事なのは、まだ時間があるということ。しつこいようですが、私は別にあなたを説得しようとか、止めようとは思っていません。ただ、あなたの事情に興味があるだけです。ただの暇潰しのおしゃべりだと思っていただければ結構です」
「……私があなたとおしゃべりしなくてはいけない理由がありません」
男は戸惑いながら言う。
「……そうですか。困りましたね。それでは私は今から駅員さんに声をかけにいきましょう。私のお願いを聞いていただけないのであれば、私があなたの邪魔をしない理由はなくなりますので」
男は眉間にシワを寄せる。
「……一体全体なんなのですか?私の話なんて聞いてなんの意味があるのです?」
「これから死のうと言う人が、意味なんて聞いてどうするんです?ただ聞きたいだけですよ。意味なんてありません」
老人は笑って言う。
「……何が聞きたいんです?」
男は諦めたようにため息をついて聞く。
「全てです。あなたがどうして線路に飛び込もうとしているのか、その理由の全てを知りたいのです」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます