第11話 新しい世界

 大きな広場は、閑散として見えた。

 その為に、石畳や等間隔に植えられた街路樹の美しさが、堪能出来た。

 もう少し陽が昇れば、この広場を埋め尽くす露店が並ぶのだろうが、今は、広場の中程に軽食の屋台が、十数軒か、雑然と立っている。

 早朝の為か、声高に客を呼び込む声は無い。既に客は幾らか集まっているが、馴染み客ばかりのようで、店員も客も皆一様に和やかだ。時折、笑い声が上がる。

 平和な朝の風景に、胸が温かくなる。

 閉じた器の中で凪いでいた水面が揺れるように、音もなく、気持ちが揺さぶられた。涙を堪えようと握った手の中に、サシェナの手があった。顔を上げると、折角涙を堪えたのが無駄になるような、優しい眼差しがあった。

「泣きたければ泣いて下さい。僕が手を引いてあげますから、何も心配は要りません」

 頷いたのか、俯いたのか、私自身分からない。伏せた顔の両の眼から、ぱたぱた、と二粒涙が零れ落ちた。

 塔を出ても何処か未だ、非日常の中だった。

 本当に、人間の営みの中に戻って来たのだ、と声を上げて泣きたかった。それが出来ないことが、嬉しかった。



「好きなものはありますか? 逆に、食べられないものは?」

 広場の中央に近付くにつれ、食欲を誘う香りが漂って来る。

 焼き立てのパン、香辛料、肉の焼ける、匂い。

 調理器具の搗ち合う音。

 珈琲。

「いえ。特には」

 苦手な物が無いわけではないが、食べることを苦痛に感じるほどの物はない。

「それは良かった。この時間だと選べる献立《メニュー》は限られています」

 見渡すと確かに、屋台の数はあっても、商品の種類は多くはないようだった。

 パン、粥、串焼き肉、サラダ、汁物――。

 不意に乳酪《バター》の良い香りが立った。振り向くと、蒸かし薯《いも》である。

 店員が、十字に入れた切り込みから匙《スプーン》を差し込み、薯と乳酪を混ぜ……その上に、炒めた茄子、玉葱、輪切りのソーセージを乗せ、トマトソースを掛けている。上に乗せる具材は客の好みで、他にも数種類ある。

「あれにしますか?」

 店員が手際よく仕上げていく様子を、じっと見ていると、サシェナが声を掛けて来る。

 他にはどうするのか、と問うサシェナに、薯だけで充分だ、と答えた。薯自体が左右の拳を合わせたくらいあるのだ。薯だけで満腹になる。

 薯に乗せる具材を決めるとサシェナが注文してくれた。何となく、伝えた内容より多い気がしたが、サシェナも頼んでいるようだったし、合間に何か言葉を挟んだのかも知れないし、と深く考えなかった。

 出来あがりを待つ間に肉を買って来る、と言うサシェナに受け取りを頼まれた。

 サシェナは、三件くらい隣の屋台で、どうやら羊肉の串を頼んでいる。

(よく食べる)

 身体も大きいしな――などと思って見ていると、すぐ傍で発止とした声が上がった。

 笑顔で、大きな薯の乗った小皿を二皿、渡された。

「オツカレサマ!」

 掛けられた言葉も、渡された品も、おかしかった。

 快活に勢い良く出されたので、つい受け取ってしまったが、どうしたものか、と困っていると、サシェナが戻って来てくれる。

「どうかしましたか?」

 僅かに背を屈め、幾らか声を潜めはしたものの、普通に話すサシェナに、大丈夫なのかと周囲を見回すと「誰も聞いていませんよ」と言われた。確かに。

 広場に来た時より客の数は増えている。未だ早朝である為に、皆一応声は潜めているが今では“喧騒に包まれている”と言っても過言ではない状況だ。眠そうな者、時間を気にしている風な者、仕事上がりらしい疲れた顔をしている者、疲労が一線を越えたのか興奮気味の者……他人のことを気にする余裕のある者はいなさそうである。

「間違えて渡されました」

 左手にあるのは、サラミ、ひよこ豆、野菜の酢漬、にマヨネーズソース。

 右手にあるのは、揚げた鳥皮、オリーブ、サラミ、チーズ、マッシュルーム、ミックスサラダ、にヨーグルトソース。

 私が頼んだのは、オリーブ、ミックスサラダ、にヨーグルトソースだ。

「合っていますよ」

 私がちょっと掲げた物を眺めて、サシェナは、しれと言った。

「オリーブとサラダにヨーグルトソースなんて、お坊さんではないのですから。そんな食事では干乾びます」


 屋台の周囲に何台も出されている共同椅子《ベンチ》の一つに、サシェナは腰を下ろした。私も倣う。三人掛け、無理をすれば四人座れるかも、という椅子を二人で使う。

 客は増えているが、時間帯の所為か皿や鍋を持参している者も何人もいて、皆が皆、ここで食べるのではないらしく、迷惑気な顔を向けられることはない。

「昨日は碌なものを食べていないのだし、それでいてあれだけ歩いたのですから、それくらい食べられますよ」

 膝の上に置いた、予定より相当量の増えた薯を眺めながら、ちょっと呆然としていると横からサシェナが、こともなげに言った。

「お腹が空いたからといって、胃が大きくなるわけではないです」

 言い終わるのと同時に口唇に何かぶつかる。

「一つどうぞ」

 何事かとサシェナを見遣ると、その手に持った肉の串に、二つ分ほどの空きが出来ている。一つはサシェナの口の中だ。

「い、ぅぇ」

 「いえ、結構です」と少し身体を引いて言おうとしたのに、口に肉を入れられた。仕方なく噛んで受け取って、指で摘まんで口から離す。

「いただきます」

 前歯で端を噛んで、繊維に沿って剥がれた分を食べる。サシェナの呆れたような視線が痛い。

 ちびちび食べるな、と、もっと食べろ、は身内の集まりでも、隊商の宴会でも散々言われた。反論すると碌な目に遭わないのは経験則で分かっているので、黙って口を動かす。

 私が二口目を嚥下する頃に、サシェナは二切れ目を口に入れている。気にしたら負けである。

「そういえば」

 残りは一度で食べられるか、と摘まんでいた肉を見ていて、不意に思い出した。

 隣で、串を持った手で器用に薯の皿を持ち、具を混ぜていたサシェナが振り向く。

「さっき、お薯を受け取った時「オツカレサマ」と言われました」

「待たせてしまったことに対していう言葉です。一度でよく覚えましたね」

「知っている言葉なのです」

 商売の世界に身を置いていたので、北系の言葉も挨拶くらいは教えられた。

 指折り数えながら言う……労い。日中の挨拶、感謝、謝罪、指示詞、後は買い物をする際に最低限必要な言葉だけ習っている。これだけしか知らない為か、忘れていなかった。

「オツカレサマ、は何時使うのですか?」

「仕事上がりに、取り引き先の方などに」

 とても楽し気なサシェナに、首を傾げる。北の言葉を南訛りで言うからかと思っていたが、少し様子が違う。

「今あなたの話した言葉は今も通用しますが、指示詞以外は、とても大袈裟です……時代錯誤、と言えばいいのかな」

 成程――。

「ただ「オツカレサマ」だけは意味が違います。それは、待たせて申し訳ない、という言葉です」

「お待たせしました、ですか?」

 「お疲れさま」と「お待たせしました」では意味が違う。けれど、有り得ない変化でもないかとも思う。よく辛抱強く待っていたな――ということか。

「あぁ、そうです」

 それから、サシェナは、何故北系の言葉を話せるのか、誰に習ったのか、他に知っている言葉は本当にないのか、愛情表現はどうか、誘い文句はどうか……と矢継ぎ早に質問して来た。

 私は、のんびりと口を動かしながら、考え考え、それらに答えた。


「食べ過ぎて、動くのも辛いです」

「大袈裟な」

 大食いでも早食いでもない私が何とか蒸かし薯を食べ終わった頃には、広場の半分ほどが露店で埋まっていた。

「腹熟しに少し歩きますか?」

 サシェナの提案に頷いて、私達は広場を後にした。

 何処をどう歩いたのかは分からないが、城門と広場を繋ぐ辺りは“町らしい”が、そこを離れるとすぐに田舎のようだった。

 田畑と城を遠目に見てまた町中に戻る。

 「風呂に行きましょう」と言われて連れて行かれたのは、最初に通った通りとはまた別の雰囲気。繁華街のようだった。入ったのは些か佇まいの怪し気な店だった。

 公衆浴場というのは昔からある。余程の富豪でもなければ家に風呂など備わっていないから、庶民は皆、これを利用する。私も子供の頃から毎日のように通った。私の頃は明るい外観が好まれたが、今は違うのだろう、と思った。

 風呂屋に入れば、中は昔と変わらない。少し違和感を覚えるのは、外観に合わせて内装が暗いことと、朝だからだろう。朝に風呂を使う者も多いが、夜ほどではない。私も夜派だった。

「ノール」

 内装を眺めていると、呼ばれた。

「はい」

 二人分の浴布《バスタオル》を受け取ったサシェナに付いて行く。店員に少し見られたが、私が南方の者だからだろう。

 戸口を塞ぐように立てられている衝立を過ぎると、片側に扉の並ぶ廊下に出る。扉の中は脱衣室である。少なくとも私の常識では。

 サシェナは廊下に入って四番目の扉を開けた。そこに入れられた。サシェナも入って来る。脱衣室は原則個別だが、家族や友人なら一緒に使う。夕方の繁忙時になれば誰彼無しに一緒に使う。数に限りがあるのだから仕方が無い。大抵の場合、客は皆近所の者だからそれで問題が起きることはない。

 脱衣室の奥に、扉があった。何だろう、と問う前に、鍵の掛けられた音がした。

 驚いて振り返ると、サシェナは早々に脱いだ外套《マント》を棚に置いている。

「どうして鍵など掛けるのですか?」

 脱衣室の鍵は渡されても掛けることは滅多にない。他の客が困る。朝は客が少ないとはいえ、充分な脱衣室の数があるわけではない。

「他の人が入って来ると困るでしょう」

 サシェナが当然のように言う。会話が噛み合っていない。そのことに悩む間もなく、服を脱ぐように急かされる。

 服を脱いだら、脱衣室を出て、大浴場に行く……これが一般的な風呂だ。

 大浴場とは別に、按摩《マッサージ》を受ける人用の個室もある。この按摩は、石鹸で身体を洗うことや香油を塗ることなども含まれるので、ここも浴室になっている。様々な理由で他の客と一緒に浴室に入りたくない、入れない客がこちらを使う場合もある。

 脱衣室の奥に続く扉は、按摩用の個室だった。部屋の真ん中に施術用の台がある。

「何をしているのですか」

 呆気に取られて、戸口から浴室を眺める私の腕を、先に入ったサシェナが引いた。

「個人用というか……家族用の風呂屋なのですか?」

 按摩用の個室にしては広い。少人数用という感じだ。こういう店なら、料金が割高なのではないか、と思って言った。

「そういう言い方も出来るかも知れません」

「普通の公衆浴場にすれば良かったのに」

 普通の公衆浴場も、まだ開いている、もしくはもう開いている、だろう。遠かったのかたまたまこの店が目に入ったからか――何にしても無駄遣いだ。

「普通の所は大人二人で個室を使わせてくれません」

 個室を大人二人で使おうと思うことが先ず、理解出来ません。

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