第5話 塔の守人

「怖いです。でも、怖いという気持ちに負けることはもっと怖いです」

 握られたままの手を握る力が強くなる。言われた内容を考えていた私は、サシェナに意識を戻した。

「ここまで来たのに、あなたを置いて行ったりはしません」

 瞳の奥に決意を見てしまえば、もう何を言うことも出来なかった。

「あなたは僕のものです」

「悪いことはしたくありません」

「拘りますね」

「当たり前です」

 誰かを、困らせたり、泣かせたり、はしたくない。当然だ。

「盗んだり騙したりすることでもありません。気持ち良いことです。あなたもすぐに好きになります」

 私かサシェナだけが傷付く、かも知れなくて、気持ち良いこと――傷付くかも知れないのに、気持ち良い?

 風呂に入るのは気持ち良いけど、別に傷付いたりはしない。

 凝りを解してもらうのは気持ち良くて中々痛みを伴う。しかし、やっぱり傷付いたりはしない。

 酒を飲む――酔って怪我をすることはあるかも知れない。最初は酒の酸味や苦みを苦手に思っていても飲み慣れれば、また酒宴の雰囲気を、好きになることは大いにある。

 晩酌の相手をさせようということか?

「私は、お酒は嗜む程度です。それほどは飲めません」

 告げると、サシェナは最初きょとんとした。後に失笑する。

「そう来ますか!」

 背を丸めて笑い出す。

「違いますか?」

「いいえ。それも勿論含みます」

 明らかに、言われてから気付いて、追加している。

「適当なことを!」

 今度はこちらが拗ねる番だ、と口唇を尖らせる。

「本当に可愛らしい人です」

「嬉しくありません!」

 成人男性に向かって使う「可愛い」は馬鹿にした意味だ。

 無礼に腹が立ち取られたままの手を取り返そうとするが、出来ない。睨んでもサシェナは微笑っているばかりだ。

「そろそろ支度をしましょうか」

 言われて、旋風を見遣ると、鍵の現れた辺りに差し掛かっていた。


 サシェナは外套を羽織り、鞄を手にする。

 私は水筒だけを手に持ち、魔法陣の何処かに線を避けながら進むのに向いた場所はないか、と探した。

「何をしているのですか」

 何をしているのか、間違いなく察しているサシェナの呆れた口調に、内心で舌を出す。

「毎度毎度ご迷惑をお掛けするのも心が痛みますので」

「無駄に時間が掛かる方が迷惑ですよ」

 「ほら」と片腕が差し出される。

 渋々ではあるものの、素直にサシェナの首に腕を回す私は、成人男性として、どうかしている。

「鍵は持っていますか?」

 旋風の傍らに立って、サシェナが訊いて来た。

「はい」

 私は握っていた鍵を掌に乗せて、サシェナに刹那見せる。長く見せていると取られるかも知れない、と……思っていたのだ。

 私が開いた手を閉じるより、サシェナが鍵を手にする方が早かった。

 私の手が包んだのはサシェナの手であった。

「な」

 呆気に取られている間に、サシェナはまるで屑籠にでも入れるように、鍵を旋風の中に放った。

「前塔の守人さん」

 傍らに聞こえた声に、私はぎこちなく顔を向ける。

「見て下さい」

 顎をしゃくられて、見遣ると魔法陣の中央に立っていた黒色い塔の形が変っている。

 大きく広がり、中に小さな空間があった。大きな樽を立てて、出入りする為に側面を切り取ったような形だ。中は真っ暗。ただ、下に浅黄色の小さな魔法陣が浮いている。

「転移の魔法陣です」

 眼前の余りに非現実的な光景に私の頭は浮かされた。

「本当に?」

 言葉の先に「こんなことがあるのか」か「ここから出られるのか」か、また別の言葉かが続くような気がしたが、それが何れであるのか呟いた私にも分からなかった。

「鞄を持って下さい」

 言われ、渡されるまま鞄を手にした。

「万一、転移先に僕の姿がなかった時は呼子を吹いて下さい。鞄に入っていますので」

 歩きながら、サシェナは話し始めた。

「え?」

「僕が傍に居なかったら呼子です。必ず、人の居ない所で吹いて下さい」

「どういうことですか?」

「この転移陣、一人用かも知れませんし」

「待って下さい!」

「あはは。嫌です」

 視界が暗転した。



     ◎   ◎   ◎



 身体が震えた。

(寒い)

 掛け布団を引き上げようとして動かした手にさらさらとした感触がある。

 何時もとは違う目覚めに、私は重い瞼を開いた。

 最初に目に入ったのは、殆ど崩れた煉瓦の壁だった。

 肘までの分だけ身体を起こして、周囲に見たものは、砂漠。

 肩から滑り落ちたのは、茶色の着古した外套。

 戸外だ――。


「……サシェナ、さま」

 視界に入らない人物の名前を呼んだ。

「サシェナ様!」

 緊張に喉が詰まって、上手く声が出ない。

 深呼吸をし、出来るだけ唾液で喉を潤してもう一度声を上げる

「サシェナ様っ!」

「はい」

 何処からか、聞き覚えのある声が聞こえた。

「ちゃんと居ます」

 崩れた壁の陰から、現れる。

「ちょっと、周囲を見て来ただけです」

 言われて、私は再度、己の居る場所を眺めてみた。砂漠の中に朽ちた建物跡だ。

 サシェナが隣に腰を下ろす。

「恐らくですが、月と星の城跡ではないかと思います」

「月と星の城、あと……?」

「何年も前に一度来ただけなので確かなことは言えませ」

 突然、正気付いたように顔を上げた私にサシェナが口を閉ざす。

「月と星の城跡! まさか!」

 ここは、明らかに砂漠の真ん中だ。

「ここは砂漠のただ中ではありませんか……月と星の城跡は、もっと。砂漠の中でも町の近くで。緑が」

「あなたが生まれた時代にはそうだったのでしょう」

 驚いて声を上げる私を冷静な眼差しで見ていたサシェナが静かに言った。

「砂漠は、少しずつ広がっています」

 私は口を閉ざした。隊商で働いていた頃にも「砂漠は広がっている」と言われていた。

「あなたは暁星《きょくせい》王の時代の人でしたか」

「いえ……それは、前の。私が育ったのはその次の王の時代です」

 生まれて数年間は暁星王の世だったが、それからはその次の王の治世だった。王は在位中にはただ「王」としか呼ばれない為、私は彼の名前は知らない。

「三百年近く前ですね」

 私が塔の守人になって、最初の十数年で年数を数えることは止めてしまったが、三百年近くが経っていることは何となく理解していた。

 好事家が「暁星王の世からなら二〇〇年間くらい経っている」と教えてくれたからだ。あれからとても時間が経っていて、二五〇年間は超しているだろう、とは思っていた。

「色々なことがとても変わっています」

 サシェナの手が髪を撫でた。

「王も、国も、街道も。文化や習慣も……僕は、あなたとこうして喋っていますが、この言葉はもう、使われていません」

 どういうことですか、と言葉にならなかった。

 この言葉が、通じない?

「来て下さい」

 腕を引かれた、その手をサシェナの膝に突く。

「キスをして上げます」

 拙い慰めに、笑みが漏れた。

「心配しなくても、僕が付いています」

 最初から、それを言えば良いのに――。

「名前を、教えて下さい」

 少し和らいだ気持ちが一気に冷めた。

 口唇が凍る。

 胸が痛い。

「忘れたわけではないでしょう?」

 同情に何か他のものを混ぜた表情でサシェナが私の顔を覗き込む。

「忘れてしまいましたか?」

 首を振った。

「余、りに、長く、口に、していない、ので」

 使われていない、という言葉で話していいものか……サシェナ相手には今更だが……不安に思いながら、不安を口にする。

「上手く、言え、るか」

「僕が復唱します。それが正しければ問題ないでしょう?」

 聞き分けられるだろうか――?

「教えて下さい」

 自信がない。

「お名前は?」

 真直ぐなサシェナの視線に見詰められ、口唇が戦慄いた。

 心臓が、潰れるのではないか、と思うほど強く打っていて視覚も聴覚もおかしかった。

「ノルキド……?」

 それでも、サシェナの声ははっきりと聞こえた。

 二度と聞くことはないと思っていた己の名前だ。

「ノルキド、で良いのですか?」

 頷くと、涙が溢れた。

 涙とともに次々と様々なものが溢れ出た。嗚咽する私をサシェナが抱き締めてくれた。私はその胸で泣いた。

 サシェナは私が落ち着くまで、辛抱強く、私のことを抱き締めてくれていた。

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