第4話 塔の守人
私は先ず玄関広間でサシェナの鞄を拾い、厨に運んだ。それから、少し考えて、冷えたアイランを塔に願った。
アイランを出し、厨に戻り、サシェナの水筒に水を満たす。
私用の水筒は、そんな物が必要になるとも思えない、と思ったけれど、もうこの先外出の支度をすることなどありはしないだろう、と遊び心で用意することにした。
サシェナのもたらした『夢』はすぐに覚めてしまうものだ。現実を思えば胸が痛んだがそれでもいい、と思った。
今日のことは、塔に一人暮らす私を長く慰めてくれるに違いない――。
サシェナの鞄と二本の水筒を旋風の部屋に運ぶと、私の仕事は無くなった。
私は部屋の隅に腰を下ろして、サシェナが魔法陣の上で何やら思案している様子を茫と眺めていた。
歩く、立ち止まる、しゃがむ、腕を組む、眉間を指で叩く、天を仰ぐ。
サシェナを眺めていて、ふ、と思い立って魔法陣の端に立った。
「サシェナ様」
声を掛けて両腕を肘から下を差し出すと、僅かに首を傾げて近付いて来る。
「抱っこですか?」
「違います。外套《マント》をお預かりします。邪魔になるでしょう?」
言うと「あぁ」と襟元の紐を解いた。
「着けている時間が長いので失念していました。お願いします」
「お預かりします」
大きな外套を受け取って、会釈する。
額の辺りに笑みの気配を感じて、顔を上げると優し気な眼差しがあった。
「楽しいですか?」
「何か」と問う前に問われて、首を傾げる。
頬をサシェナの指が撫でる。
どうしてそのようなことを問うのか、と思ったが答えを考える前に言葉は口唇から零れた。
「はい。誰かの為に何か出来るということは幸せなことです」
頬を撫でられ、こめかみから顎までを撫でられ、髪を撫でられた。二度三度と髪が撫でられる。サシェナはその間、困ったような、泣く寸前のような、微妙で曖昧な笑みを浮かべていた。
「サシェナ様?」
側頭部にあった手が離れ、揃えた指の背がこめかみに触れた。
「今は先ず、この塔を出る段取りを確かめないと」
そう言ってサシェナは身体を翻した。
サシェナの様子に疑問を覚えながらも、作業を中断させることも躊躇われて、私は結局元の位置に腰を下ろした。傍らの鞄の上に、極力皺にならないようにと畳んだ外套を置いた。
また作業の様子を眺める。
暗い視界が一層暗くなった。
違和感に瞼を開くと、サシェナの顔があった。近い。幾らか慣れはしたが。
「あ……すみません。私。つい」
サシェナだけを働かせて、うとうととしていた。しかも、彼の鞄にもたれてである。見れば、きちんと畳んだ外套が縒れている。折角皺にならぬようにと気を配ったのに。
何てことを、と皺を伸ばす為に外套を撫でる。
「鍵を貸して下さい」
外套に気を取られていた私は、言われたことを聞いていなかった。しかし、身体の方は確りと理解していたようで、外套にあった手が胸元を掴んだ。襯衣《シャツ》の下に鍵の感触を覚えて、安堵する。
「駄目です」
条件反射で答えていた。
「塔の扉を開く方法は大体分かりました。一度試してみたい」
何を言っているのだ、この人は――。
「この仕掛けには時間制限があるようです。ですが、その時機が分からない。何か示唆を見付けないと」
サシェナの分析した現状は理解した。しかし――。
「これは……鍵だけは駄目です」
「その鍵が必要なのです」
「失敗したらどうするのです?」
試すこと自体は構わない。しかし、塔に何かして、二人共閉じ込められたら?
現状が維持される限り、サシェナだけは塔を出してやることが出来る。
「失敗、が何を指しているのか分かりませんが。少なくとも、これで鍵が失われるということはありません。この魔法陣には暦と時が刻まれています。それは何故か? 毎日、毎月、毎年などの時を定める為です。繰り返し利用する為です。なら、時刻に制限はあっても回数に制限はありません」
サシェナの言うことは理解出来る。成程、とも思う。
「ですが」
不測の事態があったら、と考えると怖い。
サシェナを、サシェナを待つ人達の世界へ帰してやりたい。
塔を出たいと思わないではない。だが、私を待つ人はもう、一人だっていない。どちらが大事かなど、考えるまでもない。
「塔は夏の短い間だけ僕達の世界と繋がっています。往来出来るのがその間だけなのだとしたら?」
躊躇う私に、サシェナは静かに言った。
「次の機会は来年まで待たなければなりません。この塔では守人以外は眠ると行方知れずになるのですね? ならば、どちらかは生きて塔を出ることは叶わなくなります」
思い掛けない話に言葉を失う私に、サシェナは「例えば、の話です」と付け加えた。
「塔を出るには夜を待つ必要があるそうですが、それから察するに、塔の日付は日出か日没で変わるのだと思います。日出であるなら、今日の残り時間は恐らくもう然程多くはありません」
騙されているかも、という考えが脳裏を掠めた。
しかし、上手い反論は思い付かない。
「分かりました。ですが、鍵は私が扱います。サシェナ様は決して触れないで下さい」
サシェナが呆れ交じりに苦笑した。
「では、あの旋風に鍵を放り込んで下さい」
「そんなことっ……!」
「何故必要なのか」と「出来ません」が同時に喉を通ろうとして失敗した。
「どれ程探しても、錠らしい錠はなかった、のでしょう? 錠といえば鍵穴、鍵穴といえば深い穴が回るものです」
サシェナが旋風を指差した。
確かに、旋風の中心は空間になっている。それを『穴』と捉えるなら、穴は深く、回っている。
「大丈夫なのですか?」
「大丈夫、というのは?」
私達は互いに困惑顔を見合わせた。
「とにかく、やってみないことにはどうしようもありません」
不測の事態に立ち直るのはサシェナの方が早い。言いながら身体を寄せて来る、その意図を察して、私は膝を寄せて身体を小さくした。
「歩けます」
一応言ってみた。
「魔法陣《あれ》を絨毯の模様と同じに思えるようになりましたか?」
出来ないだろう、と思っているのだろう。問いながら私の背中と尻の下に腕を回して来る。答えられない私はされるままである。
「なっていないのでしたら、抱っこです」
言い終わると同時に抱き上げられた。
子供のように縦抱きにされて、私は背中越しにサシェナの足元を見る。
何の躊躇いもなく魔法陣の線を踏んで行くのを見て、溜息が洩れる。豪胆さを讃える気持ち半分、罰当たりなと罵る気持ち半分だ。
私を抱えていて尚、一〇歩程度で旋風の傍らに立ったサシェナは「さあ」と私の身体を揺すった。
「鍵を旋風に入れて下さい」
本当にするのか、と今更ながら思ったが、面倒だ、と私ごと放り込まれても困ると思い渋々ながら首飾りを外し、鎖から鍵を外して、旋風の中に落とした。旋風は私の目線より少し高いくらいの筈なので、サシェナに抱き上げられているのはこの仕事の為には丁度良かった。
「え」
旋風の中に放り込まれた鍵はそのまま下には、落ちなかった。
旋風の上の口を、拳一つ分ほど落ちた所で止まり、ゆっくりと回転しながら沈んで行った。
「やっぱり」
私より頭半分は背の高いサシェナにもその光景は見えたのだろう。
「旋風《これ》が錠であるのは間違いないですね」
そうなのだろうか――?
「鍵は。どうなったのですか?」
旋風の下に現れる様子はなさそうだ。落ちた音がしない。
私達は暫く無言のままでいた。
手に持ったままだった首飾りの鎖を握ってみるが、これに鍵の戻って来た様子はない。
時間の経つほど、不安が大きくなって来る。
「あの……」
突然、サシェナが半回転した。一歩、魔法陣の内側に踏み出し。ゆっくりと歩き出す。
「成程」
向かい合わせに縦抱きにされている私に見えるのは後方だけで、サシェナが理解したものを一緒に理解することは出来なかった。しかし、サシェナが今反応するのは鍵だけだ。
「鍵があったのですか?」
問えば「えぇ」と返って来る。
「思ったより近くに」
「鍵に触れないで下さい!」
しゃがもうとするサシェナに私は強く言った。
「何処にあるのですか? 私が取ります」
サシェナの行動から察するに、床にあるのだろう、と身体を捩ると「落ちますよ!」と叱られた。
「僕が取る方が早いし、楽なのですが」
少し不機嫌な声が聞こえるが、瑣末な内容だ、と聞き流す。
私に鍵を取らせる為に床に片膝を突いたサシェナの膝の上から床に手を伸ばして、漸く鍵を取り戻した。
「よかった」
安堵の息が漏れる。
「鎖の方を下さい」
「どうするのですか?」
「鍵のあった場所の目印にします。今と同じことを後何回か繰り返して、鍵がどの位置に出るか確認します」
続けてサシェナが説明してくれた所によると、旋風の中に消えた鍵が出現したのは、旋風が移動する軌道上、時刻を示している部分の上なのだそうだ。
この後、三回同じことをして三回とも鍵は同じ場所に出現した。それは旋風の進行方向の少し先になる。
旋風が現在の時刻を示している可能性が高いということで、私達は鍵の出現場所に旋風が移動するまで待つことにした。それほど長い時間ではない。部屋の隅に並んで座った。
楽に座れるように少し距離をおけばいいのに、腕を引かれて、腕が密着するほど近くに座らされた。子供みたいな人だ。
年嵩の従兄弟の、その子供達と遊んだことがある――。
何をしたとかいうことはまるで思い出せないが、重労働だったこと、笑ったこと、子供は母親に付いて回りたがること、を覚えている。年長の子供でも意外と母親にくっつきたがるものだ。それが叶わない時には、お気に入りの大人に付いて行く。
サシェナは、嵐のような子供だっただろうな、と思う。子供のみならず、大人まで巻き込んで、皆を翻弄して、でもその屈託のなさで許されているような――。
「何を考えていますか?」
暫く続いた沈黙を、サシェナが破った。
答えるような内容を考えていたわけではない私は「特に何も」と言おうとして、ふ、と思い付いたことを口にした。
「サシェナ様は、私をここから連れ出して、どうするおつもりなのですか?」
「あぁ。取り敢えず、悪いことをします」
何の感慨もない口調に、一瞬「成程」と返し掛けた。
「な……悪いこと、て」
学者だと言っていたのではなかったか。学者は学者でも世の中を恐怖のどん底に陥れる研究をしている学者なのか――? 壁にもたれさせていた背を起こして隣を見遣ると、笑っている。
「揶揄ったのですか?」
サシェナの立てた膝頭を拳で軽く叩く。
「いいえ。違います。これは僕の言い方が悪いのです」
サシェナが、彼の膝に乗せた私の拳をその両手に包んだ。何故か少し恥ずかしそうに。
「悪いことは、別に誰かを傷付けるようなことではありません。仮に傷付く人がいたとしても、それは、僕かあなたです」
私かサシェナだけが傷付く、かも知れない、悪いこと――要領を得ない説明に首を傾げる。
「もう少し具体的に説明してもらえないのですか?」
「今は駄目です」
「それは、拒否出来るのですよね?」
「悪いこと」というのがどうにも気に掛かって、問う。
「出来ません」
サシェナが壁から背を起こして、立てていた膝を胡坐に直した。
「どうしてそんなことを言うのです。塔には従順なのに、僕のことは拒否するのですか?それは納得出来ません!」
「塔に従順、とは一体。何のことですか」
心当たりのないことに強く抗議されて驚く。塔が、私に何を要求したというのか。塔はただ立っているだけだ。
「あなたは、あなた自身とその人生を塔に捧げているではありませんか。捧げる相手が塔から僕に変わるだけですよ。塔がよくて僕が駄目な理由は何ですか」
「塔は、悪いことはしません」
詰まる口調に焦って、拙い答えをしてしまった。
非難されたと思ったのだろう。サシェナは大きな目を僅かに見開き、口唇を噛み。それから、目に見えて萎れた。起こした背中を壁にもたれさせる。何故か私の手は握ったままである。
「後……私は塔に人生を捧げているわけではありません」
「鍵を僕に渡さないくせに」
「それは当然です。私はサシェナ様をこのような所に閉じ込めたくありません」
「僕はこんな所に閉じ籠ったりしません。一つ所に留まるのは苦手です」
「鍵を持ってしまったら、塔からは出られないのです」
言い聞かせるように言うと「出られます」と返って来た。
世界を知らない、頑是ない子供――塔に来て数時間で旋風と鍵の不思議を発見してしまうような、知力と行動力に溢れた人物だから「出来ないこと」は私などより遥かに少ないのかも知れないけれど。どうしようもないことは、ある。
「出られない可能性は考えないのですか?」
「全く出られない、という可能性は〇です。何故なら、この塔はそもそも出入りする前提で建てられているからです」
説明を始めたサシェナの顔は、如何にも学者らしい。常にこのようであれば良いのにと思う。少し、突き放された気持ちにもなる。
「不測の事態により閉じ込められる可能性はあります。ですが、これは時間と手間を掛ければ解決出来ます。あなたの言うような「出られない」事態が起こる可能性は限りなく〇です」
「〇ではないのではないですか」
「やらない理由、は僕には必要ありません」
飄々と言う。
「怖くないのですか?」
もし、上手くいかなかったら――。
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