すべては白に消える

軒下ツバメ

すべては白に消える

 こいつを殺して私も死のう。そう決めたのは、最近のことじゃない。

 人を殺すことに躊躇はある。十五年間は平凡に暮らしてきたのだ。思考に根付いた感覚を簡単に消せはしない。けれど、それ以上にもう、他にどうしようもなかった。


 中学三年生の冬、私は誘拐された。

 当時は、大々的に捜索されていたはずだから私の名前を知っている人も、もしかしたらまだいるかもしれない。

 あの時テレビをつけていれば一日の間に何度もニュースで私の名前を見かけたはずだ。私と同世代の子どもを持つ親は他人だとしてもきっと心を痛めていたであろう。

 所詮一ヶ月もすれば大半の人は忘れてしまっただろうけれど。

 十年たった今、話題を持ちかけられればそんなこともあったかもと思い出す人くらいしかいないだろうけれど。

 そう、十年、私は見つからなかった。

 私を誘拐した男はどこの県かも分からない山の麓の家に私を監禁した。

 そこは人の気配のない辺鄙な、寒々しい場所だった。

 私を拐った男は身代金を要求するわけでもなく、私に何かをしようとするわけでもなかった。私がこの部屋にいさえすればいいようだった。ただ、犬のように繋がれたわけではないけれど、がらんとした物の少ないその家から一歩たりとも出ることは許されなかった。

 男が何を考えているのか私には理解できなかった。

 はじめの内、三年目くらいまでは私もどうにか逃げようと必死だった。

 男が外出した隙に扉や窓、外に繋がるあらゆる場所を隅々まで確認して逃げ道を探し回ったけれど、それは無駄足に終わった。外から鍵をかけられてしまうと部屋は内側から開けられないように改造されていたのだ。

 監禁された家には電話もなく、ネットも繋がっていなかった。一体どれほど町から離れているのか、山の麓にやって来る人間もいない。人の気配を感じたこともなかった。

 外との連絡手段は、一切なかった。

 探しても探しても私がこの家から逃げ出す手段は見つからなかった。だが、まだ心は折れていなかった。

 三年目の秋。一度だけ、男の隙をついて、家から飛び出せたことがあった。しかし、家のなかでしか動けなかったことで弱った足では、男から走って逃げることなどできずにすぐに捕まる。

「誰か、助けて」

 喉を焼ききるように叫んだ声はか細く、誰にも届かなかった。……もとよりここには誰もいなかったから、大声を出せたとしても届かなかっただろうが。

 男との会話を拒否して黙り込んでいたせいで私の喉はもう大声を出せなくなっていた。喉にひっかかった叫びは掠れ、満足な言葉にすらなっていなかった。

 私の腕を強い力で握って捕まえた男は、逃げ出した私を罰しなかった。殴りもしなかった。……本当は、逃げ出せば殺されると思っていた。それでもいいと、思っていた。でもそうはならなかった。

 私はその日、男の前で初めて泣いた。

 四年、五年、六年たって、私は少しずつ心を整理していった。

 起きて、男が用意した食事を摂り、ぼんやりとテレビを眺め、眠るだけの日々。

 考える時間だけは山程あった。

 逃げ出したあの日、嗚咽の隙間を埋めるように「殺して」と訴えた私に、男は「ここにいてほしい」とすがるように呟いた。

 一瞬、閉じ込められているのは自分のはずなのに私がこの男を縛り付けているかのように思えた。だから、決めた。

 私が終わらせるしかない。そうして、私も私を終わらせるのだ。

 男は、私が逃げ出しさえしなければ行動を制限することはなかった。私は簡単に包丁を手にすることができた。一度心を決めさえすればそれは簡単だった。

 本当は私はいつだって男を殺すことができたらしい。

 油断している時を狙おう。そう思い、決行は男が外出から帰って来た瞬間にした。

 口から飛び出そうなほどにばくばくと音をたて鳴る心臓。包丁を持つ手が震えるのを何度も押さえながら私はその瞬間を待った。

 そして、帰宅した男が玄関で靴を脱ごうと屈んだ所に飛び付き、走り出した勢いと自分の体重をのせて男の腹を刺した。

 心臓も肺も喉も手足も頭も燃えるように熱かった。

 高揚していた。

 私はやりとげた。私は私の意思でやりとげた。私は解放された。燃えるような達成感が私を満たした。けれど「ありがとう」と男が私に告げたことで全ては冷めた。

 男は静かだった。十年間で一番穏やかな目をしていた。

 呆然と私が男を見つめていると「ありがとう」と囁くようにもう一度、男は私に感謝を述べた。――許せなかった。

 仰向けになった男に私は包丁を再度振りかぶった。

 男の血が私の頬に飛び散ったけれど気にならなかった。

 だって許せない。だって、だって、だって本当はお父さんとお母さんのいる家に帰りたい。もう一度会いたい。許せない。中学だって卒業したかった。高校だって行きたかった。許せない。大学に行って就職して。恋をしたり結婚だってしたかった。それを全部こいつが奪った。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。


 許せない。


 再度振りかぶった包丁は骨にぶつかった。ごつりと硬質な素材を削るような変な音がした。

 十年だ。十年もたってしまった。私はもう中学生じゃない、二十五歳で、二十五歳なのに中学すら卒業していない。それでどうやって生きていけばいい。

 私、何もない。

 十五歳のまま大人になってしまった。

 もしも帰ったとして、帰れたとして、私は、私は一体何になれるというのだろう。

 帰った瞬間だけ、自分の存在が話題になることは分かりきっている。

 数日テレビで取り上げられて誰かの日常のエンタメとして消費されて、そして、そして、私は?

 名前も顔も世の中にしれわたった私は、そのあと死ぬまで十年間も監禁されていた可哀想な女性として生きていくの? それとも名前だけでも変えて隠れるように違う人生を生きるの? でもそんなのもうまっぴらだ。

 十年、死んだように生きた。もう、いいだろう。

 繰り返し繰り返し男を刺し続けた手に力が入らなくなって、包丁が床に不愉快な音を立てながら落下した。体力の無い身体は悲鳴をあげていてぺたりと座り込んでも、なかなか息は整わない。

 血溜まりを見つめていると、壁の色が緑に見えて、ああ、ドラマで見たお医者さんの手術着はだから緑色なのかとどうでもいいことを思った。

 血の色すら分からなくなった頃に、やっと頭は冷静さを取り戻してきた。

 ぬらりと立ち上がって玄関の扉に触れる。

 七年前に一度だけ飛び出した扉は軽く押せば簡単に開いた。男の使っていたサンダルをつっかけて、外に足を踏み出す。

 冷えきった空気が頬を撫でる。街灯もろくにないここでは、外はもう真っ暗闇でぼんやりと木々の様子が見えるだけだった。

 きいきいと変な音がして、夜行性の動物でもいるのかと首をめぐらす。けれど姿は見当たらない。声はするのにおかしいなと思っていたら、姿が見えないのは当たり前だった。

 きいきいと鳴る奇妙な音は十年ぶりに聞いた自分の笑い声だったのだから。

 おかしかった。くだらなかった。

 私は、今になっても私は、この家から出たら何かが劇的に変わるのだと心の片隅で信じていたのだ。

 私と世界を隔てていたのは、今となってはもうこの家でもなければ、男ですらない。

 十年という時間がどうしようもなく乗り越えられない溝としてそこに横たわっていた。家から一歩出ただけでそれは変わったりしない。十五歳の自分に戻れるわけでもない。

 ――もう、ここから、どこにも行けない。

 私は、多分、男を好きになってしまった方がもっと楽に生きてこられたのだろう。

 ストックホルム症候群。そうなれればきっと楽だった。

 どこまでも自分のために男を好きになれていたなら、日々を穏やかに、どちらかが死ぬまで生きていけた。けれど私が男を好きになる可能性はどこにもなかったのだ。

 男は私に執着する癖に、私が男を好きになることを望まなかったのだから。

 男は、私が男を無視しても睨んでも気にしなかった。

 十年一緒にいたが、私は男から殴られたことも怒鳴られたこともない。

 男はおかしな奴で私が男を無視したり反発しても当然な顔をしているくせに、私が普通に返事をしてみたり、家事の手伝いをしようとしたりすると一転不安そうな顔をするのだ。

 長い時間のなかで、私たちの間ではまともな――普通からすれば短い会話を交わしたことがある。

 男はいらない子で、いらない子だから、親のために家事をするのは当たり前で、名前を呼ばれたこともなくて、おい、とかガキとかが自分の呼び名で、学校でも当たり前にいじめていい人間だったそうだ。

 中学の卒業式のあと家に帰ったら親も荷物も消えていて、がらんとしたアパートを見たときはびっくりしたという話を聞いたときは、自分がそれまで暮らしてきた世界と違いすぎていつもとは別の意味で言葉を失ってしまった。

 断片的な話だったが男の人生のだいたいがそんな調子のようだった。

 男は自分を人間より一段階低い存在だと思っていた。だから対等に扱われると戸惑ってしまうらしい。

 今となってはもうあり得ないけれど、仮に私が男を好きになったとして、その瞬間から私は彼にとってなにかよくわからない存在になってしまうのだろう。

 私が男を好きになった瞬間、男のなかで私は人間ではなくなってしまう。だって、男は人間ではないから誰からも愛してもらえなかった。だから自分を好きになるならそれは人間でない。と、そういう方程式ができている。

 ぽつりぽつりと話す男を私は可哀想だと思った。拐われるまでは平和に生きてきた私には想像もつかないような話だったからだ。

 可哀想だと思った。だけど、だからといって男が私を誘拐したことを許容できるわけがない。

 この時、私は男に理由を訪ねた。「どうして私だったの」と、その質問に男は「君がありがとうと俺に言ってくれたから」と答えた。

 意味が分からなかった。私は誘拐される前に男と会った記憶がなかったから。

 男が説明するには、それは本当に些細なことだった。

 たまたま男は日雇いの仕事で私の地元に来ていたらしい。

 駅のエレベーターに乗っていると、こちらに走って向かって来る制服の女の子がいて、入口近くにいた男はエレベーターが閉まる直前に開くボタンを押したそうだ。無事に間に合った女の子は男にお礼を言った。

 笑顔でお礼を言った女の子が私なんだと男は言う。

 覚えていない。私は、そんなの、覚えていなかった。

 だって、私、その相手が男じゃなくたって、子どもにだって同い年の女の子にだって男の子にだっておばさんおじさんおじいちゃんおばあちゃんにだって、誰にだってありがとうと言う。

 特別じゃない。普通のことだ。

 ――そんなことで。

 頭に血がのぼった私は捲し立てるように、そんなの特別じゃない理解できないせめてもっと納得出来る理由で誘拐してよと男をなじった。

 男は、ただ静かに謝り続けた。ごめん、と。

 何回も何回も男は謝り、頭を下げ続け、その最後に「でも笑いかけてくれる人もありがとうと言ってくれた人もいなかったんだ」と。子どもみたいな目をしながら言った。

 私はそれに何も言葉を返さなかった。

 十年という時間があっても、男は私の気持ちを望まなかったし私は男を愛せなかった。

 男ははじめから壊れていたし、私もまともで居続けることは出来なかった。

 だから、そう。もしも。なんて、存在しなかったのだ。

 外に出ても家から流れてくる血臭が鼻につく。凍りつきそうな冷たさも、さすがに男の身体中から流れたこの臭いは隠しきれないようだ。

 私はここがどこかも分からなかったが、冬の寒さと降り積もる雪からして東北のどこかだということは分かっていた。

 今は冬で、雪は音を吸収していて、この場所は冬になると生き物なんて世界に自分と男以外存在していないんじゃないかというくらいになる。

 だから私は、それがいいんじゃないかなと、思った。

 生きるうえで自分で決められることなんてもうなくなってしまっていたから、死に方くらい自分で選ぼうと思ったとき雪の中がいいと思った。

 ずるずると冷たくなった男を家から引きずって山を少しだけ登った。男を引きずるのは自分の腕が取れてしまうのではと思えるくらい大変で、汗だくになった。

 山の木々の間から私たちが住んだ家を見晴るかせる場所を見つけて穴を掘り、男を雪の中に埋める。スコップで穴を掘るのも大変だった。

 生きて何かをすることの大変さを思い出しながら私は穴を掘った。

 男を埋めた隣にもうひとつ人間一人分の穴を堀り、横たわる。

 男を刺した包丁を自分に突き立てるのは、正直怖かった。

 暗闇からうみだされる白い雪がほとりほとりと私に落ちてくる。今はまだ体温で溶けてしまうがいつしか積もっていくだろう。

 寒い。いや、熱い。違う寒い。痛い。苦しい。でもいつしかこれすら無くなる。

 目を閉じた私は、今、寂しくて、虚しくて、そしてとっても嬉しかった。

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