第2話交響曲第5番第4楽章 ある少年の日記・断章 『妄想力の問題』第4部収録より抜粋

∞ パリ郊外で行われた国際日記文学/妄想学会20xx年 E・H・ひろム教授による基調講演から引用

「われわれの存在の意味をなによりも深くまた相対的に特徴づけているのは、生と死の関係である。

というのも死が介在することによってわれわれの存在に限界がもうけられている事実が、生の価値を理解するには決定的と考えられるからだ。 」

『供述によるとペレイラは……』アントニオ・タブッキ(*1)

はじまりの終わり、不滅の消滅、永遠の瞬、希望の絶望、軽さの重さ、存在と無

いくつかの章の断片からなる、ある少年のこの日記は、少年の1日であり、彼にとっては永遠と繰り返されるとるにたらない物語である。それと同時に、彼の不滅の輝きのはじまりの物語でもある。なお、わたくしがこの日記を発見した際には、既に、一部の章がなかったことを付け加えておく。

20xx年 11月7日 ソルボンス大学名誉教授、国際日記妄想研究所・所長 エーリッヒ・ひろム 

2 2021年11月6日 理不尽な朝 雨

《永遠回帰》ニーチェの思想(*2)だった。父の本棚にあったクンデラの小説「存在の耐えられない軽さ」の冒頭も永遠回帰で始まる。タイトルがエグいくらいにカッコよくてページをめくったら、いきなりニーチェの永遠回帰から始まった。「耐えられないほどの軽さって何…」読んだときは意味が分からなかった。今は、ぼんやりわかる気がする。正しく言うならば、「今は」というよりも、山田カナにフラれた「昨日から」だ。山田の純粋ぶっていたり、押し付けがましかったり、その割に理屈っぽいところは、いかにも「理系の女子」だった。反吐が出るくらいに嫌悪感でいっぱいで、みんなが騒ぐほど美人だとも思えなかった。何しろ山田の早とちりやグイグイくる感じは、生理的拒絶反応によって蕁麻疹出るくらい、俺には無理なタイプだった。プリントの一件がなければ一生接点もなかった。どうでもいい。俺にはもう関係ない。

「ヒロー、早く下降りてきなさい。降りて来ないと遅刻するわよー、いい加減、起きなさい!もう!」フィリピンママが俺をいつものように階段下で吠えながら呼ぶ。朝からずっと憂鬱でおまけに雨まで降っていた。何しろ、この俺を振った山田に会いたくもない。「偶然、誰もいない早朝に八里ガ浜高校に隕石が降る」とか、村上春樹の『海辺のカフカ』みたいに「魚が空から降ってくる」とか何でもいいから、今日だけは理不尽なことが起きて学校に行かなくて済む理由が欲しかった。

当然そんな調子良く学校が消滅することはない。今日は、ごくありきたりで平々凡々とした雨の降る文化祭当日でしかなかった。フラれたのは、俺が山田に詩をLINEで送った直後だった。

オリオン座が頭上に輝き小さな鼓動が伝わる水平線

もうすぐ陽が無常の優しさで世界を包む

白んで行く東の空に助けてと僕は叫ぶ

白んで行く東の空に僕は何を願えば良いんだろう

白んで行く東の空に僕はただひとつのことを願った

「わかってるって!もー、結構前から起きてるし」正確に言えば、一睡もしていない。けれど何故か疲労感はなかった。ただベッドから出たくない。昨日の真夜中からずっとiPhoneでカラヤンが指揮振るマーラーの交響曲 第5番、第4楽章をヘビーローテーションさせている。俺が下に降りないのは、ただそれだけの理由だ。不機嫌そうな父親と出来る限り細心の注意を払って目を合わせないようにした。父親とは一週間以上まともに話していない。椅子に座ることもなく慌ててトーストと目玉焼きだけ口に放り込み、ブレザーを片手に、そのままナイキのおろしたての白いスニーカーを履いて、いつも通り、小雨の中、駅までダッシュして、いつも通り、正門が閉まるギリギリに滑り込んだ。昨日のこと以外は全て、いつも通りなはずだった。下駄箱のところでいつも通り、内ばきに履き替える。そして更に惑星2―Aまでの最後の数十mをダッシュしなければいけない。全ていつも通りの俺の朝だった。階段を駆け上がっている最中にあの生徒とぶつかるまでは。

これは、俺と山田の恋愛についての話だ。

「あー、悪りぃ。ちょっと真面目にヤバいから人いるの気付かなかったわ」俺と背丈が変わらない、パーカーを着た男子生徒に階段の曲がり角でぶつかって、そいつの持っていた何かが階段に転がった。かなり適当に謝って、またダッシュしようとしたら、思い切り手首を掴まれた。「待てよ。これ、やるわ。好きな子くらいはいるっしょ?それ舐めると良いよ」と、言いながら床に転がるチュッパチャプスみたいなものを拾い上げて、俺に無理矢理渡してきた。かなり怪しい。けれど、受け取らないと、もっと面倒くさい事になりそうだった。「あー、さんきゅ。ちょっとマジでヤバいから、またな」面倒なやつに構ってる暇なんてない。偶然、俺と同じクリーム色のバレンシアガのパーカーのフードで顔はよく見えなかった。一瞬フードの中の目と俺の目が合う。瞳の中には俺がいる。昨日、山田に自尊心をこれでもかってくらいにぶち壊されて、希望なんて何もないとまで思い、徹夜でマーラーのアダージョを聴きながら日記を書いていた悲劇的な自称文学少年が、一変して滑稽なまでに「遅刻」という現実に直面し、ダッシュして肩で息をしている。それがパーカー男の瞳に映り込む俺だ。

無慈悲に朝礼のチャイムが鳴り響く。「まあ、ブツクサ言うのやめて、それ舐めて落ち着け」と、俺を煽ってるのか、遅刻確定の俺をなだめようとしてくれたのか、よくわからない。どことなく、懐かしい音の波形でパーカー男はそう言うと、階段を降りて行った。床には、パーカー男の持っていたらしき傘が落ちていた。

「おーい、忘れてるって!これお前のじゃね?」下に向かって叫ぶ。「それもやるよ」下の少し遠い方からパーカー男の声が返ってきた。階段の手すり越しに下を見るともうパーカー男の姿は見えなかった。仕方なく、傘を拾い上げた。再び、遅刻確定の絶望の中、階段を登る。ダッシュではなく、ゆっくり歩いた。3階に着いて左に曲がる。外はいよいよ雨足が激しくなり、雨が校舎の窓を打ちつけていた。ざわざわとしたクラスメートたちと担任の声が遠い外国のラジオみたいにドアの向こう側からきこえてくる。惑星2ーAを通り過ぎて、俺はそのまま直線ストレートコースを進み、突き当たりの左に続く、雨のせいで朝から薄暗い長い、渡り廊下を歩いた。誰も居ない図書室のドアを明けた。図書室の入り口にある鏡にはうなだれた姿の俺がだらしなく映っていた。

これは俺の遅刻確定までの詳細なレポートではない。

今日が文化祭で朝のホームルームに遅刻したらといって何かが変わるわけでもない。

とにかく、これは11月の俺と山田の恋愛についての話だ。

3 2021年11月6日 図書室 雨

 中に入って、俺は少し本を適当に物色した。もうすぐホームルームも終わり、俺の欠席を担任は母に連絡するだろう。やがて文化祭の開催時間になれば、山田がやたらと観に来るように勧めていた演劇部の演劇も始まる。全く俺は興味がない。ベケットの「ゴトーを待ちながら」(*3)級で演者が垢抜けた巨乳の可愛い子とかなら観てもいい。けれどそんなことは現実的ではないし、うちの学校にベケットを読む奴もいなければ、垢抜けた巨乳の可愛い子なんていない。図書室の隅にフランス文学の本がいくつか並んでいる。その隣にはスペイン文学やラテンアメリカ文学が並んでいた。仰々しい赤茶色の背表紙の本が気になって手に取った。

タイトルは『愛するということ』 (*4)

その下に長いサブタイトルがある。

ー愛は、ちんこの実存という問題への、唯一の健全で満足のいく答えであるー

マーラー交響曲第5番第4楽章CD付き

馬鹿げたサブタイトルだ。しかもCDなんて付いてない。カバーの裏側には作家の名前と略歴、本の内容が印刷されている。鳴りっぱなしのマーラーと雨の音しか聴こえない中で、しばらくその本を眺めていた。

『著者 エーリッヒ・ひろム 略歴

日記文学者、セックスダブルス競技アスリート。工務店「木に学べ」経営、木造大工職、一級建築士。

1994年、スペイン人の父とフィリピンママとの間にスペイン、バルセロナで爆誕。

日本人の祖父、タカシの影響で3歳から日記をつけ始める。独特の世界観と狂気とエロスを描くスタイルは5歳の頃確立された。ロシア人の妻、シモーヌ(現ロケット「ペソア号大佐)と娘と愉快な家族と共に、現在、勝手に日本に在住。20xx年より偶然、発症した中二病との闘病生活を送りながらも精力的に日記活動を続けている。

20x2年、『サルトル先生とシモーヌ』(*5)で英国ブッパー賞受賞

20x3年、『不穏な人びと』でクッツェーに並ぶ偉業、二度目の英国ブッパー賞受賞

20x5年、ノーベル妄想学賞受賞

20x7年、オリンピック新種目セックス ダブルス部門 金メダリスト

本書は、貧しい家庭環境に生まれた過酷な少年期と天性のナルシストが開花する青年期、そして妻とのダブルス部門での優勝を果たすまでの壮絶なトレーニングと家族への想いが見事なまでに描かれた著者の自伝的日記である。

代表作品はこの他『ハルキストの憂鬱な宴』など。全作品がフランス ガリマーロ社から出版されている。昨年、プレイヤード(*6)として全2巻に納められた。存命中に納められるのはクンデラ以来の偉業である。

フェルナンド・ペソア、ジャン・ポール・サルトル、アルベール・カミュ、アントニオ・タブッキ、ジョゼ・サラマーゴらから影響を受けている。特にタブッキ、サラマーゴらからの影響が強く文体に現れている作品もある。 (*7)

口癖

散文は人間の実存の未知な部分を開拓する。

「書くこと」は「愛すること」

座右の銘

艱難汝を玉にす

L'homme est une passion inutile.(男は役に立たない情熱)

将来の夢 ナポレオン』

「暇人かよ」不意に独り言が漏れた。どうせ誰かのいたずらだろう。

チュッパチャプスもどきを手持ち無沙汰にぷらぷらさせながら、少しだけページをめくる。

 『序 獅子座の彼方にある惑星でのセックス

副題 目を閉じたら、誰に逢いたいか?

地球とは違い、時間が伸びたり縮んだりするため、セックスアスリートは全てにおいて注意深くならなければいけません。ダブルスのパートナーとの激しいトレーニング下で最も重要なのは、言うまでもなく、競技時間の30分という時間制限です。挿入後3秒(地球時間)で逝くアスリートは特に注意しましょう。また、競技初心者は、まずは、地球にて、わたくしの好きな、立ちバックからトレーニングすることを推奨します。実存は本質に先立ちます。競技者のレゾンデートル(存在意義)を作り上げて逝く。競技セックスの本来の目的は、「他者との、積極的かつ責任を負って、交わりの中で、能動的に自分自身を社会へ投企し、他者との関係性の中で自分の存在を確立させていく、愛の在り方を作り上げていく」ということです。(*8 )

この目的を常に見失うことなく、トレーニングに励んでいただくことが、本書の目的でもあります。

 わたくしは、小説家という言葉が好きではありません。わたくしは一片の日記散文家であります。また同時にパパでもあり、夫でもあり、大工さんでもあり、建築士でもあります。わたくしにとって、「書くこと」は「愛すること」です。わたくしの散文は人間の実存の未知な部分(*9)を開拓するものです。読者諸君がご自身の存在の未知な部分を開拓する上で本書が少しでもお役に立てますことを切に願います。 』


序章以降、第一章は奥さんと出会うまでのセフレとのやり取り、元カノと元セフレが結託して寮にやってきたこと、そのせいで隣の先輩の部屋に逃げ込んだことなどから始まり、結婚前に奥さんにフラれかけたことなどが書かれていた。そのあとは彼の好きな体位立ちバックのことと、過去、顔射しようとして奥さんから反撃をくらい、全治3ヶ月の重症を負ったことや、日常のこと、娘さんのことなどが延々と書かれているだけだった。

何度も言うが、これは、俺と山田の恋愛についての話だ。

「誰に逢いたいか?」そう呟きながら、俺は、パーカーのフードを頭から被ったまま、何故か硬くなりかけた俺のレゾンデートルを鎮めるために、目を閉じて俺の嫌いな山田を思い出していた。

5 2021年11月6日 よく晴れた朝の世界線

 図書室でタバコを吸うわけにもいかず、口寂しくなった。パーカー男に渡されたチュッパチャプス コーラ味を舐めた。雨の降りしきる音だけが聞こえる。図書室の奥の壁時計を見ると8時30分だ。iPhoneを確認する。8時30分だ。朝のホームルームのチャイムが鳴るのは8時40分だ。何かがおかしい。階段で確かに俺は無慈悲のチャイムを聴いた。通り過ぎた2ーAのドアの向こうには担任が騒がしい生徒たちに注意をしていた。だから俺は8時30分の世界にいるはずがない。図書室の時計と俺のiPhoneが偶然バグって、偶然8時30分で止まった。

「佐藤?もうすぐホームルーム始まるよ?」

振り返ると、山田カナが俺の背後にいた。

「え?今何時?」

「8時半だね、玄関で佐藤見かけて、珍しく遅刻してなくて驚いたの。何か悪巧みしてんのかなぁって思って、追いかけてきちゃった」

「え、まって、今、これ俺夢みてる?」

「大丈夫?」

山田が俺の額に思い切りデコピンしてきた。容赦なく。痛かった。

「今日って八里ガ浜祭だよな?」

「何言ってんの?当たり前だし。演劇観ようね!」

そう言うと山田が俺の腕に抱きついてきた。

「昨日、山田が返してきたLINEのって、冗談?」

「LINE?わたしの彼氏、記憶喪失かなんかにでもなった?」

山田は不思議そうに俺の目を見つめて、俺の手を引っ張った。そうして俺たちは図書室を後にした。図書室から出ると、軽くめまいがした。どうして山田にLINEのことを聞いたのか、自分でもよく分からない。どうでもいい。俺は山田の彼氏で山田は俺の彼女。

11月なのにまだ気温が25度まで上昇する日もある。気候変動問題は俺の記憶にも温暖化の影響を与えてくれたのだろう。

外は朝から晴天で、文化祭にはうってつけの日だ。

ホームルームの後、文化祭が始まり、悠太たちと合流して、演劇が始まるまでの時間潰しをしていた。悠太とは八里ガ浜高校に入学した日以来の悪友だった。午後3時から演劇が始まる。演劇は文化祭初日のトリらしい。山田に12時半ぐらいに席確保しておいてと頼まれている。12時少し前に、たこ焼き班のたこ焼きを俺が2パック買い、その間に、山田は「コンビニで少し飲み物を買ってくるね、あと、これあげる」と言って、俺に紙クズのようなメモを渡し、体育館側からコンビニへと向かった。

席確保のために、悠太たちと別れて、俺は体育館のとなりにある会場の八里ガ浜記念ホールに行った。まだ時間まで30分以上あるせいか、誰もいない。 体育館を通り過ぎる時、少し人だかりができていて、騒然としていたことが嘘のようにホール内は静まりかえっている。

俺と山田用に前の方の席に座って、目を閉じる。山田が俺にプリントを持って来てくれた日のことが蘇った。

それまで、俺にとっては、山田はどうでもいい存在だった。どうでもいいどころか正直言って、嫌いなタイプでしかなかった。一度、英語の授業で同じグループになり、その嫌悪感はますます増大していった。グループで、ヘミングウェイの「老人と海」の一節を英語で説明するのが課題だった。山田はいきなり英語で仕切り始めて、「みんな意見出さないなら、これで決めるね」それでもううんざりしていた。

「山田が全部決めたらいいんじゃね?俺面倒なのもいちいち押し付けられるのもめちゃくちゃ元々嫌なんだよね。課題って来週じゃん?それなら3日くらい各自で考えてから意見出し合った方がよくね?」と、俺は半ば投げやりに山田に言った。

「そうかなぁ、でももう時間ないし!これで決めよう!佐藤はどうせ3日あってもやってこないでしょ?」勝手に自分の価値観で押し付けて引き下がらない。「そこまで言うなら、山田の好きにしたら?俺は面倒だから意見出すのやめるわ」その日から俺と山田はかなり険悪だったと思う。俺と山田はぶつかりあいながら色々と話した。顔を合わせれば言い合いになっていた。毎日、帰り際に喧嘩しているかのような2人。それでもあの日、俺は一瞬で世界が変わり、世界の全てが虹色に塗り替えられた。好きになったのはプリントを持って来てくれたから。他の理由なんて何も必要なかった。単純だと言われようが、構わない。山田と二人でランドマークの観覧車に乗った日、観覧車の中で山田とキスして、横浜ブルク13で映画も観て、彼女の部屋で2人でずっと話して、由比ヶ浜で日焼けして、俺の部屋でいつもの交響曲第5番を流しながらひとつになって、俺は山田の中で果てて、山田の部活がない日に一緒に帰って、赤レンガ倉庫で山田が迷子になって、泣きながら俺を探してて、ディズニーシーの抽選を運良く引き当てて、表参道の落ち葉を踏みしめながら二人で散歩して、山田との一年が俺の脳裏に走馬灯のように駆け巡る。

 どうしてだろう。ほんの数分前に別れたばかりだ。あと数分したら、また、俺の隣に山田が来て、山田の体温と柔らかさを確かめながら山田の瞳の中に俺が映り込む。何故かそのことがたった数分の山田の不在で、たった数分の待ちわびる俺の状況で、どれほど俺の希望になっているのか、思い知らされて、俺は気付いたら泣いていた。突き抜けるような秋の晴れた空が窓の外に広がっている。目を閉じると、山田がコンビニで買い物をする姿が浮かぶ。耳の奥でカラヤンが指揮棒を振り続けている。

 山田のことを独占しておきたくなったのは多分、俺の部屋でひとつになった日からじゃない。その少しあとに、表参道の散歩帰りに渋沢のラブホに行った時だと思う。それまでは、そこまで舞い上がってなかった。山田とふざけてゴムなしで「先っちょだけ」とか言い合って、本当にそのままやってたら、そのままいってしまった。茫然とした後、山田が、「万が一何かあったとしても、一緒にいてくれるの?」と聞いてきた。「決まってんじゃん、そんなの」と、俺は適当に言った。「何もかもが変わってしまうかもしれないのに、何でそんな軽く言えるのよ」と、山田はかなり憤慨しながら俺に背を向けた。結局は生理が来て、俺はちゃんとゴムは付けるようにした。そしたら山田が今度は「赤ちゃんできて欲しくないんでしょ」とか訳のわからないことを言い出して不貞腐れた。裸で不貞腐れた山田を見ていたら、居ても立っても居られなくなった。だから、その時だと思う。それだけじゃない。山田の数学部が終わるのを待っている間、下駄箱のところで俺は隣のクラスの女子と少しだけ話込んでいた。部活動が終わり、俺のところに来た山田がやたらと不機嫌になった。不貞腐れながら「わたしもあんな風に話し込んで欲しい」と、俺の顔を両手で挟んで、言ってきた。その仕草があまりにも子どもっぽくて、俺は愛おしくなったんだと思う。普段、理屈っぽい山田を俺は好きじゃなかった。けれど、付き合っていくうちに、山田は段々と理屈っぽさがなくなって、どんどん子どものようになっていった。ニーチェの三段階変化(※2)みたいだ。愛すべきひと。俺だけに見せてくれる素直な山田の仕草や表情。コンビニから戻ってきたら、そのことを山田に話そうと俺は決意していた。

7 2021年11月6日  よく晴れた朝の世界線と喪失

「佐藤、ここにいたのかよ!そこで座ってる場合じゃないから。とにかくタクシー呼んだから一緒に来て」

ホールの入り口から悠太のそう叫ぶ声が響き渡った。俺の優しい記憶が、水平線の向こう側へと押し戻され、代わりに、現実がやって来た。

「何?」

「山田がさっき病院運ばれた」と、短く表情をこわばらせながら、悠太が言った。 悠太は山田と幼馴染でもあった。

「は?」

「説明、あとでするから、とにかく病院行こう」

「どこの??てか、なんで???」

「大船病院、とにかく、タクシーつかまえて行かないと」

タクシーの中で、山田がトラックに轢かれたことを聞かされた。山田は正門から離れたコンビニから学校に戻ろうとして、正門に向かう横断歩道を渡らず、近道しようとしたらしい。正門とは真逆にある体育館の裏に通じる道路を路肩駐車された車の影から、飛び出し、走って渡った直後、直進してきたトラックに轢かれた。

何もかもが俺にはただ漠然としていて、まるで他人の交通事故のニュースを聞かされているようでしかなかった。夕方ともあり、道は渋滞していた。タクシーが大船病院の手前の鎌倉芸術館を通り過ぎ、そこで俺と悠太はタクシーを降りて、病院へと走った。

俺は無我夢中で走った。走っている間中、俺は神さまにお願いした。神さまがもしいるなら、今だけ、お願いだから、時間を戻して。神さまがいるなら、お願いだから、時間を戻して。お願いだから、時間を戻して。お願いだから、時間を戻して。お願いだから、時間を戻して。お願いだから、時間を戻して。お願いだから、時間を戻して。お願いだから、時間を戻して。お願いだから、時間を戻して。お願いだから、時間を戻して。神さまがいるなら、お願いだから、時間を戻して。お願いだから、時間を戻して。お願いだから、時間を戻して。お願いだから、時間を戻して。お願いだから、時間を戻して。お願いだから、時間を戻して。お願いだから、時間を戻して。お願いだから、時間を戻して。お願いだから、時間を戻して。神さまがいるなら、お願いだから、時間を戻して。お願いだから、時間を戻して。お願いだから、時間を戻して。お願いだから、時間を戻して。お願いだから、時間を戻して。お願いだから、時間を戻して。お願いだから、時間を戻して。お願いだから、時間を戻して。お願いだから、時間を戻して。神さまがいるなら、お願いだから、時間を戻して。お願いだから、時間を戻して。お願いだから、時間を戻して。お願いだから、時間を戻して。お願いだから、時間を戻して。お願いだから、時間を戻して。お願いだから、時間を戻して。お願いだから、時間を戻して。俺と山田が付き合わない世界線になってもいいから、お願いだから。ニーチェなんてどうだっていい。今すぐ、どうしても話しておきたいことがあるから。お願いだ、時間を戻してくれ!

「佐藤!こっち!」そう言って俺の腕を掴んで悠太は救急の入り口へと向かう。中に入り、手短に受付で用件を言うと手術室の前へと案内された。既に山田のご両親が向かいの待合室にいた。

「残念ですが、これ以上蘇生処置を施しても非常に低い可能性です」

唐突に、医師らしき男が手術室から出てきて、そう告げた。俺は泣き崩れる山田の母親と悠太をただただ見つめていた。手術室の赤いランプが消えた。代わりに窓からの夕焼けが、あたり一面をオレンジ色にした。

 山田の遺留品の手提げバッグには、コンビニで買ったと思われる綾鷹の抹茶オレ2本、チュッパチャプスのコーラ味とサイダー味一本ずつ、それからコンドーム一箱が入っていた。俺の中での山田は、たこ焼き班の前で突っ立って会話したことが最後だった。さよならも言わずに呆気なく何処かへ消えてしまった。事故の衝撃は山田の身体に強く傷痕を残し、遺体の損傷は激しく、頭部はトラックに弾き飛ばされた際に、かなり損傷したらしい。医師から「見ない方が君のためかも知れない」と言われ、俺はそのまま、うなだれて、廊下を亡霊のように歩き、タバコを吸うため東館の中庭に出た。

 タバコの箱をポケットから取り出すと、一緒に紙くずが出てきた。昼間、山田がまだ俺の隣にいたときに渡してきたメモだ。

『2 .1,2  3.37  11.320』

山田の丸っこい可愛らしい文字で数字のメモが残されている。多分、部活のメモか何かで要らなくなって俺にくれたんだと思った。渡してくれた時の山田の手の感触、山田の声、山田の瞳、山田の髪を思い出そうとした。けれど、全て蜃気楼の海に浮かぶヨットみたいにぼやけている。メモを折り畳み、ポケットに入れ直した。

 不思議と涙が出なかった。太陽が闇に押し潰されて、日が暮れようとしている。群青色の東側で星々が何事もなかったかのように煌めきながら囁き合い、獅子流星群からの流れ星がこぼれ落ちた。 俺はどこに居るのだろう。

11 雨の夜行バス

「なんだ、佐藤、学校来てんじゃん」 肩を揺り動かされて俺は悠太に起こされる。

「あ、え?ごめん、寝てた。何時?今」

変な夢を見ていた。夢の内容は覚えていないけれど、とてつもなく何かを願っていたような気がする。

「12時だってーの。お前さー、山田と何かあった?あいつから、演劇?みたいなやつのゴリ押しし過ぎたから謝っといてって頼まれたんだけど」

「んー、まあ、ちょっとね…」 悠太にだけは、俺が山田に昨日フラれたことを言いたくなかった。

「ふーん、直接言えよって言ったら、『私からはもう話せないから』って頼み込まれたんだよねぇ」

「あーね。ごめんな。悠太を間に入らせて」

「美男美女カップル破局?」 そっけなく言う悠太。でも悠太も山田を狙ってたのを俺は知っていた。

「いや、付き合ってすらないし」

「だよなー。お前のタイプじゃなさそう」と、悠太が能天気にそう言いながら図書室を出て行った。俺の目の前には、エーリッヒ・ひろムの『愛するということ』の最後のページが開かれている。

『……(中略)では、どうすれば、一流のセックス競技者となれるのか?それは、どうすれば愛せるか?ということです。それは「自分で経験する以外にそれを経験する方法はない」「規律、集中、忍耐の習練を積まなければならない」

 人を愛するには、愛するしかないのです。愛とは、無保証で与え、赦すこと。

読者諸君、……(延々と著者の競技トレーニング中の細かい描写が続くため中略)

わたくしにとって「書くこと」は「愛すること」、「愛すること」とは「赦すこと」

妻シモーヌ大佐に捧ぐ エーリッヒ・ひろム 20XX年』

最後のページをめくると、『月間 ひろムの自撮り写真集11月号終末予言、明日地球が滅亡するとき6,800円が今なら何と!980円!しかも来月号は無料!』

明日地球が滅亡するくせに来月号を勧めるという、やたらチグハグなキャッチフレーズに、カメラ目線の著者の自撮りが掲載された小冊子のようなものがあった。

俺はその小冊子だけ抜き取り、雨の降る昼下がりの窓の外に捨てた。

ひろムがこちらから目を逸らすことなくひらひらと空を舞い落ちる。雨のアスファルトに落ちて溶け始めた安っぽい小冊子はねばねばとした樹液のように見える。紙のインクのねばねばがマロニエの木(*10)の中に戻り、自撮りの男がねばねばからもがくことなく、俺をじっと見据えている。そこには存在の重さも軽さもない。ただ、紙に印刷されたひろムの虚なまなざしを通して俺が存在するだけだ。

その日、山田とは顔を合わすことはなかった。俺は分厚い雲に覆われた11月の夜空を見上げる。冷たい雨の中、家へは帰らず、大阪行きの夜行バスへと飛び乗った。全てが軽く感じた。サビナの感じた軽さ(*11)とは違う。あるいは、同じかも知れない。どちらでも良かった。俺は俺だ。時間も空間も伸びたり縮んだりしない。爆発と共に偶然何かの拍子に閾値を超えて、宇宙が誕生し存在したときから、時間のベクトルはある加速度を与えられて、永遠に止まることなく、否応なしに、その方向に進む。そんなのは誰だってわかってる。

E=mc²

アインシュタインが間違えていない限り、誰にも変えることはできない。時間は、残酷な優しさを持ち平等だ。そして存在は偶然であり、偶然の中の僅かな必然性を隠している。スピノザのような水平なまなざし(*12)を持つものにはその必然性が見えるのかも知れない。

これが俺と山田の恋愛の結末だ。

気温が昼とはうって変わって冷え込んでいた。バスのシートに身を沈め、イヤホンを耳に押し込むと、いつもの静かなアダージョが鳴り響き始めた。雨が永遠にバスの窓に降る。窓に映る俺の目には、パーカーのポケットに手を突っ込んだ俺が映り込んでいる。手が紙くずとチュッパチャプスに触れた。

Infinity 著者のあとがきのようなもの 日記を『愛するということ』巻末に収録するにあたって

以上が少年の日記の断片である。

わたくしが彼のこの日記を受け取ったのは、昨年、八里ガ浜高等学校の西村校長にお会いした際だった。古くなった旧八里ガ浜記念ホールの解体工事中に、卒業生、佐藤ヒロ氏の日記が小ホールの前の方の座席下に落ちていたらしい。工事を担当していた作業員サルトル仮称が見つけ、西村先生に渡し、紆余曲折の末、わたくしに佐藤ヒロ氏本人に渡すように依頼された。そのため、佐藤氏のご家族らとお会いしたく、彼が夜行バスに乗ったあと、どこでどうしたのか調査をしたところ、彼がバスから降りたあとの足どりが全くわからないままである。佐藤氏が現在も生きていらっしゃれば、120歳を優に超えている。ご両親、彼の当時の友人らもすべて他界されており、彼の夜行バスに乗ったあとの人生をお聞きすることは不可能に近しい。

そこで、彼の日記を『愛するということ』の巻末に収め、八里ガ浜高等学校の図書室に寄贈させて頂くことになった。

誰もが通るであろう17歳という特別な年。彼は山田カナとの記憶を癒すために書き続けたのかは、不明である。しかし、サリンジャーのように、「自分だけの為に『書く』こと」で誰かを救ったり、自分自身を救うこともあるかもしれない。日記の中の佐藤ヒロは、かつての読者諸君でもあり、俺でもある。

交響曲第5番第4楽章 ある少年の日記・断章 『妄想力の問題』第4部(エーリッヒ・ひろム著)からの抜粋

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