11

何に困っていたんだろうか。

牢獄の中でいつも振り返る。

何に不満で苦しんでいたのか。

小早川長女、小早川冬は牢獄の中にいた。

彼女は母親を殺した。

自分で振り返っても過去の記憶が曖昧で思い出せない。

赤と青が混じるように。

本当に殺したのかどうかわからない。

獄中から出たときにあの時のまま母親が冬の前に姿を現し、私を抱きしめてくれる。

そんな妄想をするのだ。

『囚人番号078、出てきなさい』

冬は一定時間に呼び出される。

鍵が開き、扉が開く。

毎日無償の労働が待っている。

流れてくる魚の表面を拭く仕事だ。

美味しい魚を世間に届けるための大切な仕事だ。

灰色の服を見に纏い、白い生地で拭く。

隣で吹いている女と仲良くなった。

彼女は冬より歳下。

彼女は実の父親を殺したようだ。

冬と違い、殺人に至る経緯を覚えている。

黙って拭く。

獄中にいると、時間は永遠で肉体は有限であることを思い知る。

もう5年も経つ。

入る前に比べると皺も増えて、身体も重くなった。

想像力豊かではない。

過去、出逢ってきた様々なモノが今何をやっているのか。考えられない。

過去は噛み締めすぎて、もう何もない。

冬は時間だけを無情に過ごしていた。

冬の楽しみは親族、友人からの手紙、および面会であった。

甲斐甲斐しく月に一度の面会に弟がやってくる。

今日はその日だった。

仕事途中で呼び出される。

時間は未定である。

時計はくるくる回っている。

冬はいつも以上に愛おしく魚を撫でた。

『囚人番号078、作業を休止しなさい。』

面会だ。

冬は心を輝かせて面会へ向かう。

白い部屋。

パイプ椅子に座る。

境の向こうから秋はやってくる。

面倒くさそうに秋は入室してくる。

秋は黙って座っている。

冬の頭の中に以前の会話が蘇る。

それだけが娯楽だった。

「ありがとう」

「何が」

「今日も来てくれて」

「当然だろ」

当然だって。冬は優しさを抱きしめる。

秋は冬を見る。話し始める。

「どう。調子は」

「いつも通りよ。退屈だわ」

「仕方ないさ。獄中は人間社会における冬だからな」

「冬だけに、ね」

秋は苦笑する。

「秋こそ彼女さんとはうまくいってるの?」

「もちろん」

「もちろんとかいって。この幸せ者」

「言葉通り筋が通るほど幸せとはいかないさ」

秋は不安を煽る。冬の心の中はワーワー叫んでいる。

「どうしたの。何かあったの。」

「何もないさ。ないことがむしろ心に来る」

「その気持ちはわかるわ」

「姉さんは味わっているもんな」

「アドバイスしてあげよっか。秋くんより経験積んでるから」

「辞めとくよ。俺は俺の道で物事を味わいたい」

弟は生きようと足掻いている。その姿を見ると冬は喜びが溢れる。

甲斐甲斐しく弟の頭を撫でたくて堪らなくなる。しかし。

撫でられない。

私は犯罪者だ。

罪を償っている。

つまりそれは。

誰かの成長を見守ることや長閑に暮らす権利を放棄したということ。

初めはそのことを受け入れることに必死だった。

私は母親を殺したことを未だに罪と受け入れられていない。

このようにして社会から罪と罰を名乗られることに違和感を覚えている。

彼女は社会と闘い、死んでもよかったのだ。

しかし何故このようにして獄中で罰を受けているのか。

妹と弟がいるから。

二人が冬に伝えた。

捕まらなければならないと。

生きるために積みをつぐわなければならないと。

あのとき、秋は冬を抱きしめながらいった。

「---------------」

えっ。

そう。

思い出せない。

そして。

秋に聴こうとしても身体が震えてしまう。

貴重なこの時間を痙攣で過ごしたくないから、冬は秋に聴くことを早い段階で放棄した。

噛み尽くした冬の人生譚。実際、一人では開くことのできない扉も数多くある。

冬の人生において、開いたほうがタメになるモノも多いだろう。

しかし。

そのような権利も放棄してしまった。

取り返しのつかない過ち。

それでも冬は後悔していない。

自分の行いに耐えて、必死に未来を見ている。

何一つ希望はない。

生きるとはなんでしょうか。

死ぬとき冬はわかるかもしれない。

何もないということを見つめ通した先に生命がただ動く。

冬は瞬きをする。

面会はいつの間にか終わり、今は夜だ。

寝る事以外に能はない。

また逢う日まで。

あと何度出会えるのか。

冬は高窓からの月の光に祈る。

どうか生きててくださいと。

自分自身ではなく、自分以外にと。

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