9
雨が降っていた。
いつの間にか止んでいた。
雨の匂いが強くなる。
どうしてだろう。
雨が止んだあとの方がよっぽど雨を意識する。
秋は傘を忘れてきた。
天気予報をみない。
秋はカフェで紅茶を飲んで暇を潰していた。
予定は特になかった。
散歩をしていた。
何か目新しい何かと出逢えることを期待して。
しかし。
何も出逢えない。
(何かと出逢う為には掴みにいかなければならない。)
秋はそのことを知っていたが、何もしない。
ただ待っていた。
そのまま老人となり死ぬ。
秋はそれで満足するのか。
誰も何も強制しない。
空想の誰かに強制し、被害を被るだけだ。
いつも。何時も。
タクシーが停まる。
群衆。
信号待ち。
タクシーからスタイルの良い女が出てくる。男も同伴。
匂い。
我々とは違う。
(我々とは?)
自分は何を目指しているか。
彼女のようになりたいか。
否。
なりたくない。
秋の胸の中にある主張。
幸せになりたい。
幸せとはなんだろうか。
改めて考える。
幸せに誰か愛し合える相手と生活すること。
緩やかで長閑なダンスのように生活する。
秋はそのような生活を出来れば満足できる。
(定はどうだろうか?。)
自分と同じ生活を出来るもの。
秋は自分自身の暴力性を自覚していた。
彼女を傷つけている。
自分自身の暴力性が好きではなかった。
愛したくなかった。
しかし。
しかし。
秋は再び考え続ける。
彼は女を探していた。街中を散歩する理由だ。
誰か。
自分自身が見続けたい女。
女を撮り続ける。そして。
弾ける。
紅く暗く碧く。
女が弾ける限界を切り取りたかった。
ただの欲望である。
その過程で秋は定を傷つけ続ける。
(いっそのこと、総てを殺してしまえばいい。)
その想いは結局のところ自身の破滅を意味していた。
自殺。
愉快?
まさか。
(もう。どうにでもなってしまえ。)
がむしゃらに秋は撮影の欲望を擦り続ける。
目の細く紅い女。
秋は見知らぬ女の手を取った。
女は不愉快そうに秋を見つめ、腕を振り払う。
女には連れがいたようで、連れの男は秋の胸ぐらを掴む。
「なに、したんかわかってるんか。キミ」
秋は愉快そうに微笑む。
男は腕を振り上げて、秋をぶつ。
秋は地面に叩きつけられる。
群衆は秋たちに気付き、悲鳴をあげて離れる。
秋は痛みに身を震わせながら、快感を感じていた。
(総て、矛盾だ。)
しかし。本当だった。
男と女は不愉快そうに秋を見る。何故、秋が笑うのか理解できない。
「次は僕の番だ」
秋は立ち上がる。何をするつもりなのか。愚か者にしか理解できない。
彼は女を打つつもりなのだ。
何故、そんなことをするのか。
秋は自分の理性に問いかけなかった。
そのとき、群衆から一人の男が現れた。
秋は男を見る。
男はやけに都会とはかけ離れた聖人づらした服装に包まれていた。
秋が男に視線が奪われているうちに男と女は二人から離れる。
警察がやってきた。群衆の乱れが敏感に伝わる。常々人々の胸中で痛みに震えていても何も始まらないのに。
(動くということは常にリスクが伴う。しかし。それでも。僕は。)
「何かありましたか」
警官は柔和そうな男だ。
「この男が私に寄りかかってきただけです。問題ありません」
男は真剣に嘘をついた。
男の誠実さに警察官は騙される。
しかし、それを赦さない人がいる。
一人の少女が叫んだ。
「私はみていた。その男が女の人に乱暴したのよっ!」
少女の叫びはリアリズムを含む。警察官は瞬きを繰り返す。
聖人のような男と少女を見返す。群衆のざわめきは増していく。
警察官は額に流れる汗を拭く。彼にも時間が必要だ。
しかし群衆は警察官に新しい答えを求めていた。
秋は警察官にひどく同情する。自分の行いがこのような波紋を描き、このままでは自分は犯した罪を裁かれることなくこの場をやり過ごしてしまう。
何もかもが不可解だ。秋は当事者でありながら場を円滑に進めるための進行役の席から外されていた。
「僕ですよ。悪いのは僕です。僕は見知らぬ女性の腕を掴みました。女は不愉快そうに私の腕を振り払いました。もう、それだけのことです。しかしその女はもう此処にはいない。私はどうすればいいのだ。どうすればっ」
秋は警察官に言うまでもなく叫ぶ。群衆は秋が叫んだことに目を見張るが、一体何を話したのかうまく聞き取れなかった。
「つまり、貴方は罪を犯したと言うわけですね」
警察官は難儀そうに秋をみる。
この目だ。当然の態度。
「悪いことはしてはいけませんよ。当事者は此処にはいないようなので今回は黙しておきますが、今後こんなことがないように注意していただきたい。お願いしますよ」
警官は秋の善に訴えかけるように鋭くみる。秋は視線を受け止めながら、自身の罪に胸を押し付けられた。
しかし。
一体何事が。
秋は隣にいる聖人ずらした男をみる。
彼はいかにも悟りを開いたように無表情で警官を見つめている。
警官は離れていく。
群衆は何事か自分には関与しない範囲で悪が裁かれる瞬間をこの目でみようと期待に胸を膨らませていたが肩透かしをくらったことに落胆し、場から離れる。
聖人ずらした男は秋の目を見つめる。
「よかったねぇ」
「はぁ」
この男は奇妙である。秋はこの男が如何に自身が起こした騒動に首を突っ込んだのか不明である。
「貴方は如何様で僕を庇うんだい」
男は首を縦に振る。
「ときとして人は愚かな行為に走る。いかなる善人と呼ばれるモノも宿命からは逃れられない。貴方は過剰に貴方の罪を裁かれようと悪意を引き寄せた。しかし悪に身を滅ぼさせることほど愚かなことはない。私はそのように人が傾いていくことを見逃せなかった。ただそれだけなのだ」
男は頼んでもいないのに長々と自分の意見を述べた。半分以上耳には入っていない。
秋は首を縦に振る。
男は嬉しそうに微笑む。
「貴方に幸運を祈ります」
男は嬉しそうに離れていく。彼は本当にただ彼なりの善行を尽くすつもりで私の事象に首を突っ込んだようだ。私に深入りすることもなく、善行を積んだ喜びを噛み締めながら別れる。
不思議な出逢いもあるモノだ。
秋は自身の罪と罰について、全く思慮しない。
空を見上げる。
青空と灰色の雲。
捌けているじゃないか。
何もかも。
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