第78話 公爵の覚悟、少女の内心
シンと静まり返る執務室。互いに目を逸らすことなく、真っ直ぐ見つめ合うルトとリーゼロッテ。
議題は重い。とても重い内容だ。数多の命の結末が、この場で決まってしまうのだから。たった一人の決定で、それもまだ幼い少女の一言によって失われてしまうのだ。
善人も悪人も区別なく、男も女も関係なく、老人も赤子も平等に死ぬ。違うのは数だけ。全員死ぬか、大半が死ぬかの違いでしかない。
「……」
ルトから提示された三つの方針。そのどれを選んでも大勢が死ぬ。それでもリーゼロッテは選ばなければならない。領主である以上は選ばなければならない。
「──嫌な立場だよな、為政者ってのは。キミの苦悩を見ていると、逃げ回って正解だったと実感するよ。情けない感想だがな」
ひたすらに熟慮を重ねるリーゼロッテ。そんな幼い領主兼婚約者の姿に、ルトは憐憫の籠った呟きを零す。
そう。目の前の光景こそ、ルトが徹底的に避けた為政者の姿に他ならない。命を数字で捉え続け、時には草むしりの如く命を間引く狂気の椅子。
やってられるかとルトは思う。背負うことになる重圧と比べれば、立場に伴う特権を与えられてもなお割に合わない。
そういう意味では、ルトはとても幸福だ。その身に宿る絶大な力を対価に、本来背負うべき重しを跳ね除けることができたのだから。純粋なる護国の刃となることを許されたのだから。
だがリーゼロッテは。目の前の幼い少女は──
「俺は逃げた身だ。だからこそキミの選択は尊重する。どれを選んでも否定はしないし、全力で魔神の力を振るうと約束する」
重責を担う小さな婚約者に対し、重責から逃げた怠惰な男が誓う。せめてもの誠意と、最大限の敬意を込めて宣言する。
もとよりルトはそれが役目だ。大公として、護国の刃として帝国の有事に力を振るうことが役目だ。だから今更と言えば今更な誓いでもある。
それでもなお、ルトはこうして口にした。それをするだけの意味があると判断した。
「……お気遣い、感謝いたします」
ゆっくりと、リーゼロッテが口を開く。浮かべるのは柔らかい笑み。だが決して明るいものではない。──その笑みは、とても淡く儚かった。
「旦那様。その優しさに少しばかり甘えさせてくださいな。……私の弱音に、少しの間だけお付き合いください」
「ああ。もちろんだ」
その姿をルトは初めて見た。共に過ごした時間は未だに短くとも、濃い付き合いを重ねてきたルトをして、初めてみる姿だった。
領主としての凛々しさでもなく、普段のような貴人に相応しい淑やかさも強かさもない。
目の前にいたのはただの幼い少女。全ての重荷を脇に下ろした、ただの『リーゼロッテ』であった。
「存分に吐き出せばいい。これはそれに見合うだけの難題だ」
「ありがとうございます。──ですが、まずは軽い訂正を一つ。正直なところ、選択自体はそこまで負担ではございませんの」
「……ほう?」
リーゼロッテの言葉を聞き、ルトはわずかに目を見張った。流石に予想外であった。数多の命を殺すことになる選択を、目の前の少女が負担ではないと言い切るなどと。
リーゼロッテの表情には迷いはない。誤魔化しもない。言葉だけを捉えて理解した気になっているわけでもない。
本心なのだ。彼女は全てを呑み込んだ上で、大勢を殺すことを躊躇わないと割り切っている。
「旦那様。私は元とはいえどこの国の姫。天龍帝フリードリヒの娘であり、ハイゼンベルク夫人を筆頭としたお歴々の薫陶を受けた女でございます」
リーゼロッテは皇族だ。超大国である帝国の、最も貴き血を引く者だ。故に幼い頃から叩き込まれているのだ。超大国を運営するに当たって培われた叡智を。至高とも言える帝王学を。
「もちろん、思うところがないとは言いません。ですが、この身は偉大なる皇帝に連なる者。そうあれかしと育てられてきたのです。──ならばなにを臆することがありましょう。千を殺し、万を屠る覚悟など当の昔に済ませております」
「……」
「そしてこれは、私だけではございませんの。私の実兄であるライオネルお兄様に、クラウスお兄様は当然のこと。母を別とする他の兄妹たちも同様に。それが皇帝の子なのですよ、旦那様」
「……くっくっく。つまるところ舐めるなと。侮るなと言いたいわけだ。なるほど、これはこれは失礼した!」
言葉に込められた真意を理解し、ルトは堪えきれぬとばかりに喉を震わせた。
決断の重みを慮り、神妙な表情を浮かべて寄り添おうと考えていたのだが。どうやら余計なお節介であったらしい。
──ルトの婚約者は、この程度で呻くほどにか弱くはなかったようだ。
「してやられたよ。さっきの表情はただの演技か。見事に騙された」
儚げな笑みはこの遠回しな宣言のため。弱さを主張したと油断させ、一転して鋼鉄の覚悟を見せつける。実に貴人らしい振る舞いだ。
「慣れないことはするもんじゃないな。いやはや、小っ恥ずかしいことをしたもんだ」
「そのようなことを仰らないでくださいな。愛しき方に慈しまれて、喜ばぬ女はございませんのよ?」
「独りよがりほど滑稽なものもないだろう。無様ってのは冷水と同じさ。熱狂を醒まし、冷静に現実を直視させちまうもんさ」
「それは女としての程度が低いだけでございます。熱に浮かされる女は三流。途中で正気に戻るのが二流。常に正気のまま、相手に合わせて騙し続けるのが一流の女というものです」
「なら素直に騙されるのが、いい男の条件ってやつかね?」
「否定はいたしませんわ」
女が騙すのならば、男は騙されなければならない。騙されていると分かった上で、男は拒絶せずに受け入れる。そして女は更にそれに合わせての繰り返し。
男女は騙し騙されの形が一番良い。一方的ではなく、お互いに騙し合うことが円満の秘訣なのだろう。それは折り合いをつけるということであり、互いを理解し認め合うということなのだから。
「──ではリーゼロッテ。キミから見て、俺はいい男になれているかい?」
「……ええ。申し分なく。旦那様はとても素敵なお方でございます」
「そうか。なら安心だ。ついでと言ってはなんだが、俺もキミのことはいい女だと思っているよ」
「あら。ついでだなんて酷いですわ。睦言ならば、ちゃんと心を込めてくださない」
そうして互いに笑みを浮かべる。飛び交うのは実に意味深な言葉たち。男女による円満な関係性のための騙し合い。
「訂正はしかと受け止めよう。謝罪しようリーゼロッテ」
「いえいえ。私といたしまして、このような些細な点にお付き合いいただき感謝いたします。──それでは本題に移らせていただきます」
前置きという名の儀式は終わった。そしてリーゼロッテは語り始める。胸の内に溜まった弱音を吐き出し始める。
その直前、ルトに感謝を示すようにリーゼロッテが頭を下げた。わずかに強く握られていた拳は、それだけリーゼロッテの真摯な想いが込もっていた証明だ。
──それが形通りの意味であることを、ルトは疑っていなかった。なにせルトは、リーゼロッテがお墨付きを与えるいい男なのだから。
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