第67話 リックの知識
「はぁ……。流石に肩が凝ったな」
コキコキと肩を回しながら、ルトは茜色に染まる廊下を歩いていく。
姉弟との協議は、予想していた通り骨が折れるものであった。書類仕事の類を嫌うルトにとっては、今回の作業はかなり堪えた。
知識の確認、認識の擦り合わせ、制度設定などなど、話し合う内容は多岐に渡る。
当然ながら一日・二日で終わるような量ではなく、しっかりとした形になるにはまだまだ掛かることだろう。
「あとは……」
とはいえ、協議を行ったことで相応の収穫があったのも事実。特にリックの身の上、前世の内容に関しては興味深い点も存在した。
その辺りの情報の共有はしておくべき。ついでに製作途中の資料も渡しておくべきかと考え、ルトはリーゼロッテの執務室に向かっていた。
「時間的には、まだやっているとは思うんだが……」
時刻は夕方。普段なら仕事を終えていてもおかしくない時間帯であるが、現在は神兵関連で政務がゴタついている。
つい先日も、事実上の文官となっているハインリヒが、休暇中のルトに嫌味を言ったほどなのだ。
貸り受けている人材ですらそれだけ忙しいのだから、領主であるリーゼロッテがまだまだ作業していても不思議ではない。……まあ、執務室にいなければ私室を訪ねるだけなのだが。
「リーゼロッテ。いるか?」
『──はい。お入りください、旦那様』
幸いなことに、ノックに対する返事はあった。やはりというか、未だに政務の途中のようだ。
まだ幼い身でありながらご苦労なことだと、領主の肩書きを持つ婚約者に若干同情しながらも、ルトは執務室の中に入っていく。
「随分と頑張っているじゃないか。この時間まで書類仕事とは恐れ入る」
「頑張る、と言うほどのことではございませんわ。これは領主として、当然の責務ですもの」
「当然の責務ねぇ……。ま、ここでとやかく言うのは野暮か。お疲れ様、とだけ言っておくよ」
「ふふっ。お気遣い感謝いたします。それでいらっしゃった理由をお聞かせいただけますか?」
「ああ」
前置きの雑談は軽く。時間も時間なので、手早くルトは本題を切り出した。
「仕事を増やすようで悪いんだがな。とりあえず二点。今日、リックたちと発明関係の決め事を詰めてきた。まだまだ未完成ではあるが、方針ぐらいは掴めるだろうってことでな。とりあえず渡しておく」
「なるほど。では後ほど、拝見させていただきます」
「ああ。控えは作ってあるから、そこまで急ぐ必要はない。読み終わったらハインリヒかアズールに渡しておいてくれ」
「かしこまりました」
了承の言葉ともにリーゼロッテは書類を受け取り、机の脇の方に置く。急ぐ必要はないとは伝えたのだが、どうやらこの後にでも確認するつもりらしい。
「では、二つ目の御用件をお訊ねいたします」
「その資料を作成するにあたって、リックの知識の詳細やら、前世の身の上やらも確認できたからな。その辺を軽く報告したいんだが、構わないか?」
「もちろんでございます。旦那様の知識、前世のようなものにも拘わることですので、職務を抜きにしてもお聞きしたいぐらいですわ」
「俺の頭の中にあるのは、つまらない男の物語だよ。知識を除けば大した内容ではないさ」
そう言ってリーゼロッテに苦笑を返しながらも、ルトはリックから得た情報を報告していく。
「まずリックの前世の立場から。国名やら人名やら、そういった固有名詞の類は無意味だから省くが……。どうやらアイツは大学院生、研究者と学生の間の子のような立場にいたらしい」
「間の子……学者の弟子兼助手のような認識でよろしいでしょうか?」
「そんなもんで大丈夫だろう」
詳細に分類すれば恐らく違うのかもしれないが、ここで必要な認識は『通常より専門的な学徒』であったということだけ。
それがイメージできれば十分であり、それ以上は余分な情報なので切り捨てる。
「で、前世のアイツが学んでいたのは、当然ながら科学なんだが、その中でも生物関係が専門だったそうだ」
「なるほど」
理系、生物学専攻。リック本人はもう少し詳細に専攻分野を語っていたが、ルトですら何が違うのかが理解できなかったりする。
ただまあ、特定の生物を研究していたようなので、よほどピンポイントで問題が起きない限りは、その辺りの知識が求められることはないだろう。
重要なのは、リックの専門ではなく科学知識全般なのだから。
「……あら? お待ちください旦那様。生物を中心に学んでいたという割には、彼の発明品が鉱石関係に集中していたような気がするのですが。家業を踏まえてなお、その分野の知識が豊富な印象を受けました」
「あー、そりゃアレだ。単純に知識と教育の差だ。発展した科学を基準にして構築された『基礎教育』。それは基礎でありながら、この世界のそれよりも専門的な内容だったりするんだよ」
分子論やら熱力学など、こちらの世界よりも遥かに発展している分野は、挙げていてはキリがないほどに存在する。
そうした進んだアレコレの中でも、特に重要なものを抜き出し、集め、概要をまとめたものを『基礎』として別世界では、特にリックがいた国では叩き込まれるのだ。
「知識の土台が違うし、それでいて学問ってのは意外と根っこのところでは繋がってたりするからな。その辺の応用でもなんとかなったらしい」
「……基礎知識の流用で、あれだけの物を生み出せると。まさに『賢者の書』。旦那様が劇薬と過敏になるのも納得です」
姉弟が仕えるにあたって、回収された発明品の数々。それを思い出しながら、リーゼロッテは戦慄と呆れの混ざった溜息を吐いた。
未知の知識を基に製造された、明らかなオーパーツ。それが基礎知識、その応用でしかないと知った衝撃は計り知れない。
文明レベルの差。それがどれだけ恐ろしいものであるかというのを、改めて実感させられた気分であった。
「ま、あとは環境の差も重要な要因だろう。あの世界は調べようとすれば、大抵の分野は調べることができたからな。その先にも容易に進めるからこそ、リックも専門外の分野でも相応の知識を蓄えられたんだろう」
「それはそれで恐ろしいですね」
「まったくだ」
こちらの世界に生きる者としては、リックの、そして脳内の男が生きた『世界』は凄まじいの一言に尽きる。
数多の情報で溢れかえり、興味が湧けば容易くそれらを獲得できる社会。
情報社会という言葉はあまりにも的確で、この世界とは人生の密度が違いすぎる世界。
リックが専門外の知識と、その応用品を製造できたのもそうだ。当時流行っていた娯楽から興味を持ち、そこから色々と調べたのだという。
それらと元々の科学知識が結びついたことで、その場限りの知識とならずに、リックの中で確かな血肉となっているのだ。
「ともかくだ。アイツの知識がかなり幅広いものであったと、改めて報告させてもらう。科学知識はもちろんだが、政治や思想の分野でも色々と面倒な火種を抱えているだろうな。さっき説明したように、根本の土台が違う」
「政治や思想というと?」
「政治関係だと、民が話し合いで政治を行う『民主主義』が世界的に採用されてる。思想関係だと、人間は生まれながらにして自由であり、尊厳と権利とについて平等だとする『人権』、そこから派生した平等思想が尊ばれてたかな?」
「……碌でもない内容であることは理解しましたわ。理想論、綺麗事の類が随分と幅を効かせた世界のようですわね」
ルトが挙げた例に対し、リーゼロッテは呆れと不快感の混ざった表情を浮かべた。
色々と前提の違う別世界のことであり、それで滅びることなく世界が回っているのならば、致命的な問題は恐らくないのであろう。
だが少なくともこの世界、今の社会には不都合もいいところ。民主主義とやらに関しては、遥か昔に似たような事例があったと耳にした記憶があるが、主流になっていないというのはそういうことだ。
今ルトが挙げた政治形態、思想が広まりでもしたら、かなり面倒なことになるのは明らか。第一印象では耳触りのよい正論に聞こえる分、賛同者が多発しそうなのも問題だ。
「領主としての立場から申しますと、技術よりも思想関係の方が面倒な気がします」
「その辺もしっかり釘は刺してあるさ。余計な知識は蓋をして、流出を防ぐに限る」
土地が違うだけで人類は異なる文化を構築し、交わった時に摩擦を起こし、争いにまで発展させる度し難い生物だ。
時代も異なり、世界も違う文化。下手に扱えばどうなるか分かったものではない。
だからこそ、こうしてルトと神経を尖らせているのである。
「文化等も含めた総合的な知識を基に、ざっくり予想してみたが……。個人的な見立てだと、専門的だが役に立たなさそうなのが三割、専門外だが役立ちそうな知識が二割、禁忌指定するような知識が四割、役立つか微妙なその他が一割ってところか」
「禁忌の知識は、完全に流出を防ぐ形にするおつもりで?」
「状況によるとしか言えん。あくまで現状では、影響がありすぎると判断しているもの多い。将来的に手をつけるかどうかは、要検討ってところだろう」
物事は常に流動する。禁忌が禁忌でなくなる時は必ずくるし、知識が錆び付き価値がなくなる時もくる。
わざわざ抱え込んだのだから、利益を獲得しなければ意味がない。その辺りの塩梅を、常に見極めていく必要がある。
「畏まりました。ではその方針で進めてください。御報告感謝いたしますわ」
「情報の共有をしておこうと思ったまでだ。感謝されるようなことじゃないさ」
これにて一通りの報告は終了。そう判断し、ルトは踵を返す。
まだリーゼロッテは仕事中だ。やることを終えたのならば、早々に退散するべきだろう。
「邪魔したな」
「いえいえ。邪魔などとは──あ、お待ちください旦那様。私の方からも、一点お伝えするべきことがあったことを思い出しましたわ」
「ん? 何かあったのか? 今思い出したようだし、神兵関連ではなさそうだが……」
重要度の高い内容ならば、開幕の方でリーゼロッテも伝えていたことだろう。
退室直前になって、こうして引き止めた。ならば、そこまで重要な報告ではないだろうとルトは予想する。
そして、それは事実であった。
「ええ。お恥ずかしながら、すでに必要性も低くなっていたので……。リックの前世の身の上と聞いて、思い出しましたの。以前、旦那様に頼まれていたあの姉弟の──」
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