第2話 無能の仮面
絶望的な状況を前にして、ルトの本気の叫びが周囲に木霊する。
「だからあのハゲはさっさとどうにかするべきだったんだ! 元はギルセと言えど併呑された以上はあそこは帝国だ! それなのに感情で喧嘩吹っかけるとか馬鹿にも程がある! 物の道理を理解してるレイン男爵とかと交換しとけば良かったんだ!」
「……ライズ辺境伯家は建国にも貢献した名門貴族ですぞ」
「建国から亡国まで立ち会ってちゃそりゃ名門だわな!」
「……ですなぁ」
ルトの盛大な皮肉には、流石のハインリヒも遠い目を浮かべるしかなかった。
この戦争の原因は、冷静な人間からすれば笑うしかなく、ルトたちのような当事者たちからすれば泣きたくなる程にどうしようもないものであるからして。
かつて、ランド王国とフロイセル帝国の間には、【ギルセ公国】という小国があった。
このギルセ公国であるが、元を辿るとギルセ大公家とその一派が治めるランド王国の領土であった。
それが圧政からの内乱の末に独立して誕生したのがギルセ公国。
ランド王国からすれば、かつては中規模国家と言える程度に存在した国土が大幅に削られ、小国にまで転落した元凶。
ギルセ公国からすれば、自らを独立させるまでに追い込んだ憎き旧主が治める国。
当然ながら両国の関係は最悪であり、日夜流動する国際状況の関係で大規模衝突こそ起きなかったが、小競り合い自体は毎年の如く起こっていた。
が、そんな恒例行事となった小競り合いは、今年は発生していなかった。
理由はギルセ公国が積極的な拡大政策を取っている帝国に併呑されたからである。
そこにどのような経緯が存在したかはルトは知りえないことであるが、ここで重要なのはランド王国の怨敵であったギルセ公国がフロイセル帝国のギルセ地方に変化したことである。
元々ギルセ公国は帝国の属国の立場であったが、正式な併呑となれば状況は一気に変わる。
当然ながら、地域住民の感情は兎も角、フロイセル帝国にはランド王国と小競り合いをする一切理由はない。
国家そのものが変わった以上は武力衝突を起こす大義が無く、ランド王国程度の小国相手に小競り合いするなど戦費の無駄でしかないからだ。
やるなら然るべき大義名分と戦力を用意し、一気にランドを呑みに掛かるだろう。
故にこそ、ここでランド王国、更に言えば国境に隣接するライズ辺境伯が取るべき選択肢は、全力で帝国の拡大政策に抗うこと。
武力衝突では万が一の勝ち目がない以上、進行に必要な大義名分を与えないことに全力を尽くすべきであった。
……が、残念なことにルト曰くハゲことライズ辺境伯はそのことを一切理解しておらず、己と住民感情を優先しまさかの恒例行事を敢行したのである。
「……一応、辺境伯からは耐え難い侮辱をギルセ側から受けた為という釈明が届いてはいましたが」
「それは公の場でのことか? それとも書面に残っていることか? 公的な証拠が存在しない以上、国際社会においては帝国に報復という大義名分が与えられる。お陰で我が国は歴史に残るぞ? 一切勝ち目がないにも関わらず大国に喧嘩を売って滅んだ愚かな小国としてな!」
そもそもルトからすれば、その手の挑発行為などされて当たり前であり、本来ならばもっと悪辣な手段や、選択肢そのものが制限された策謀が用意されていた筈なのだ。
今回の挑発など、帝国側としても引っかかるとすら思われていない挨拶のような認識でもおかしくない。
それに釣られたライズ辺境伯こそが愚かであり、ひいてはそんな大馬鹿者を辺境伯に封じていたランド王国そのものが愚かという結論に至る訳だ。
「せめてことが発覚した時点でライズ辺境伯家の一族郎党全ての首を落として、辺境伯領と一緒に帝国に詫びとして献上すればまだ救いはあったろうに。その後に属国か併呑を提案すればもっと良かったが」
しかし、残念なことに現実は真逆。うだうだと会議を繰り返し結論を出さないランド王国に対して、帝国は早々に報復の布告を発して侵攻を開始。
瞬く間にライズ辺境伯領を陥落さて、その勢いのまま王都に向けて前進。
ランド王国も急いで軍を動員したが、動員数、練度、装備の圧倒的な差の前に一瞬で敗走し、現在はルトたちを道中の砦に殿という名の捨て石にして王都まで敗走中という、度し難い結果となっている。
「……殿下、流石にそれはお言葉が過ぎるかと……」
「ハインリヒ。状況を見ろ。無能と呼ばれる俺とて国家の面子の重要さは理解している。国が舐められたら終わりだと言うこともな。だがな、面子というのは同格か近しい相手にしか意味をなさない。圧倒的な格上である帝国を相手にした場合、面子よりも守るべきものは国家の存続そのものだ。そもそも最初のやらかしの時点で面子すらとっくに潰れている」
因縁のあるギルセ公国が相手なら兎も角、因縁らしい因縁のないフロイセル帝国に喧嘩を吹っかけた時点で国際社会におけるランド王国の信用は地に落ちた。
その状態で対応を迷い、帝国の侵攻を許した上、亡国の危機に瀕しているのだ。救いようのないことは誰が見ても明らかだろう。
「はぁ……。今さら言ってもしょうがないが、ここまで我が国が酷いとは思ってもみなかったぞ」
「ですから私は、再三殿下には上を目指して欲しいと申していたではありませんか」
状況の悪さに頭を抱えるルトに対して、ハインリヒはしみじみと返した。
無能と蔑まれるルトであるが、付き合いの長いハインリヒはその実態を知っていた。
いや、そうでなくとも先程までの会話を聞けば、誰しもが理解するであろう。
無能と言われるルト殿下は、確かな政治的視野を持っていると。ただ本人にその気がないだけで、実際は極めて合理的な思考をする統治者の才を持っていると。
「何度も言うが、俺は人の上に立つような人間ではない。器も無いし柄でもない。日々仕事をしないでぐうたらしてたいと本気で語る社会不適合者だ」
「しかしながら、殿下には人の上に立つ才がございます。無能を演じ怠惰に過ごしていて尚、私を始めとした五十強ものを兵士を魅了してみせたのです。殿下には確たる器が備わっている証拠でございましょう」
「単にお前たちが物好きなだけだろう……」
自虐混じりの否定に確かな畏敬の念を返されたことで、ルトは釈然としない表情を浮かべた。
だが純然たる事実として、ルトが率いる殿部隊はその全員が自ら志願して結成されたものだ。
ハインリヒのように平時からルトと交流のあった者は勿論、今回の戦争において一時的に部下となった者たちですら、ルトの指揮下で命を捨てることを選んだのだ。
王族であることを忘れそうになるほどの気安さ、明らかに無能という前評判が嘘であることが分かる聡明さ、冷徹なまでに物事を正確に俯瞰してみせる視野の広さ、なにより時折覗く指導者としてのカリスマが、命じられただけの単なる部下であった彼らをルトの忠臣へと変貌させたのである。
人数としては僅か五十強。しかしながら、それはルトが無能の仮面を進んで被り、尚且つ積極的に他者との交流をしなかった上での数字だ。
もしルトがもっと積極的だったなら、それこそ王位を望んでいたのなら、現王太子を筆頭とした継承権上位の者たちから脅威と見なされる勢力となったのは確実であった。
「ハッハッハッ。物好きなのは否定しませんな。なにせ我ら、殿下の命であれば帝国へと突撃し散ることも、降伏し捕虜の身に落ちることも厭いませぬ故」
「変な圧を掛けるな馬鹿野郎! 怠け者に余計な責任を背負わそうとするんじゃない!」
そこにあったのは、臣下に追い詰められる王子という世にも奇妙な光景。
しかしながら、その光景には何処か暖かさと寂しさを感じた。ハインリヒの瞳に宿る光が、今際の際に孫と戯れる祖父を連想させたからかもしれない。
「……さて。じゃれ合いはこれぐらいにしておきましょうか。時間も限られております故に。さあ殿下、ご決断を」
「それは無謀の突撃を行い、全員で華々しく散ってみせろということか?」
「構いませぬ」
「それとも命惜しさに降伏し捕虜の身に堕ち、祖国が滅ぶ一手を自ら打てということか?」
「構いませぬ」
ルトの挙げるあまりにも悲観的な二択に対しても、ハインリヒは決して心を揺るがすことはなかった。
その身に宿る覚悟は、正しく主に付き従う忠臣のそれだった。
「殿下。このような非常時ですので、我が本心をここに明かしましょう。私はランド王国に忠誠を誓い、祖国を守るという誓いを胸に軍へと入りました。……しかしながら、今は違います。殿下の護衛に任じられ、傍に控え続けて今。私の忠誠はランド王国ではなく、殿下のもとにございます」
それは本来軍人が放っていけない言葉である。
国家の武力たる軍人が、国でも王でもなくただの末端の王子に忠誠を誓ったのだ。聞く者が聞けば、反逆者として捕えられてもおかしくないものである。
しかしながら、ハインリヒは臆することなく、寧ろ誇らしげに宣言を続ける。
「これは私だけでなく、殿下のもとに残った全ての部下に言えること! 我らが意思は殿下と共に! 故にこそ、殿下の御心がままに決断なさいませ。我らは散ることも汚名を被ることも惜しくはありませぬ。結果として祖国が滅ぶことも受け入れましょう。……ですので殿下。どうか、どうか後悔の無き決断をなさってくださいませ」
「……ハインリヒ」
その宣言は、無能と呼ばれることを良しとしてきたルトをして、心を揺さぶられるものであった。
ルトは怠惰を良しとする俗物であると自称するが、その本質は決して善性を捨て去った畜生の類ではない。
如何に部下たちを物好きと呆れながら断じていても、ここまでの忠義を示されては報いぬ訳にはいかないかと、ルトはため息混じりに腹を括る。
「その覚悟、受け取った。皆を集めろ。方針を伝える」
「ハッ。……して、どのような選択を?」
「ジジイが抜け駆けなんてするな。伝えるなら物好きな馬鹿共全員一緒にだ。……ただ安心しろよ。悪い結果にはしない。多少の汚名で最高の結果を掴み取ってやるさ。第三の選択肢って奴だ」
「……御意に」
そうして不敵に笑うルトは、幼いながら確かな【王】としての覇気を纏っていた。
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