第15話 木葉英奈Ⅳ


 大倉庫の中には、大柄な男が一人、小型コンテナの上に座っていた。

 他に人の気配はない。外のメンバーで終わればよし、もし突破されても一人で十分だという余裕の表れか。だがそんなことどうでもいい。

 詠真は赤と緑に輝く瞳で、その大柄な男を睨み付けた。


「派手にやってくれたな、クソガキ」

「戯言を交わす気はない。お前、木葉英奈って名前に心当たりはあるか」


 すると大柄な男は吹き出したように豪快な笑い声を響かせた。


「くはっ、かははははははは! そりゃテメェ、つい昨日俺が誘拐したクソガキの名前だからなァ。心当たりありまくりだぜ。……つーかよ、テメェは何だ?」


 大柄な男は転がるようにしてコンテナの後ろに身体を滑らせ、唐突に放たれたうねる竜巻による叩き潰しを躱す。


「お前が……英奈をッ!」


 感情的になりながらも、詠真は大倉庫内を見渡す。無数に置かれたコンテナに、積み上げられた鉄骨、後付けされたのか天井から中型の電灯がいくつも吊られていた。

 風の使用は控えるべきだろう。例え鉄骨なコンテナを風で吹き飛ばそうと、おそらくあの男は『物質透過能力』の持ち主だ、当たることはないだろう。

 先刻の竜巻を躱したところから推測するに『風』は有効と思われるが、これだけの障害物が相手には無効で、下手すれば自分に被害が及んでしまうこともあり得る状況。今は他の手段での有効打を講じるべきだろう。自滅を強く孕む手段は最後の手として取っておこうと詠真は考え、であれば、選択するのは『水』と『火』。瞳の色が青と赤に変わる。


「もう一度聞くぞ~……テメェは何だ?」


 ぬるりと、大柄な男は詠真のすぐ背後に現れた。振り返る間もなく強烈な拳が詠真の後頭部を殴打し、顔からコンクリート製の床に叩きつけられた。

 即座に身を反転させて展開した水球から高速で水を射出する。鉄すら貫く水の弾丸は、果たして大柄な男の身体を嘘のようにすり抜け奥のコンテナを貫いた。

 ガッっと大きな手が詠真の首を鷲掴み、上にのしかかられた。


「テメェは、何だ?」

「木葉……英奈の……兄だッ!」


 水が通じない以上発動させておく必要はない。

 風に切り替え、大柄な男すら吹き飛ばせる強風を放──、


「グガッ……!」


 放つより前に顔面に拳が叩きつけられ、能力発動に必要な集中力が維持できない。

 更に二発、三発と殴られる詠真の耳には男の声が鮮明に届いていた。


「兄? かはは、そりゃまた。テメェの妹もよォ、抵抗してくるもんだからついイラッときちまって腹に一発ぶち込んじまったなァ。あの白目を剥く顔ときたら、ぶっさいくでぶっさいくで仕方なかったぜ、おい!」


 首を絞める力が強くなり呼吸が出来なくなる。その上殴打は止まらず、


「首絞めた時もぶっさいくだったなァ。だァがそれがいい。下着姿といい、思い出すだけでぞわぞわしてくるぜ、お兄さんよォ」

「……ッ…………」

「あ? もう限界か? もうちっと耐えろや」

「……ざけんな……」

「あァ?」

「ざけんな……誰が、限界……だよッ!」


 チリチリと火の粉が舞い、刹那、詠真の身体が激しく赤々しく燃え上がった。

 大柄な男は既に後方に飛び退いていたが、拘束が外れただけでも幸いだ。

 すぐさま無理やりにでも呼吸を整え、顔面の痛みは無視する。


「ほんとは火ィ使いたくなかったんだよ。焼き殺してしまうから」

「言うねェ、クソガキ。確かに俺は物質透過が可能だが、能力制御率が高くないせいで固体と液体しか透過できねェ。テメェがお得意だろう風は当然に、火も有効だろうなァ」

「随分と余裕面だな。まだ何か奥の手があるのか」

「ないさ? ないない。俺はマジで気体を透過できない。だァが、問題があるとすればテメェの方なんじゃねェか? かはは、知らんけど」

「そんなもの、試してみれば分かるだろ」


 詠真は躊躇なく、大柄な男へ掌から火炎放射を繰り出した。

 大火傷程度で済ませよう、そう思ったが手加減などは一切していない。


「!?」


 ──だが。赤く燃える火炎は大柄な男の身体にダメージを与えることは出来なかった。


「な、にッ!?」


 なぜ、なぜ気体であるはずの火が通用しないのだ。

 詠真の中で芽生えていた勝機の可能性が揺らぎ、枯れて、消え落ちそうになる。


「だから問題があるのはテメェだろ。んだそのチンケな火は! まだガスコンロの火の方が熱いぞ。テメェはガスコンロより弱ェのか? かはは」

「俺に、問題が……!?」


 考えろ。考えろ木葉詠真。通じない理由を考えろ!

 気体であるはずの火が通じなかった。それは木葉詠真自身に問題があるからだ。ならそれは何なんだ。動揺? 精神的な問題? 普段の力を発揮できていない?


「……俺は、乱れているのか……?」


 瞳が両方共に赤く染まる。風前の灯火のように、頼りない火の赤だった、

 英奈を守れると信じていた自分の力に対し、本当に守れるのかと疑心を抱いてしまった詠真は、二つ同時発動はおろか、力の切り替えもできなくなっていたのだ。

 それからは、もはや鬼ごっこだった。

 あらゆる場所から透過によって姿を現す鬼から必死に逃げる翼を捥がれた鳥。

 どん詰まりだった。このまま何もできず終わる。思考力が狭まり、自分の抱える問題点にすら気付けない名ばかりの序列取得者。堕ちた精霊の王。

 滑稽な姿だった。誰が見ても、滑稽でしかなかった。

 ……そんなんばかりだ、俺。

 交流試合も、英奈を守れなかった時も、こうして逃げ回ってる今も。

 精神状態が極限なのか、どうでいいことばかり想起してしまう。

 ゲイガンによって空で弄ばれたあの映像、公開されなくてよかった。舞川にもあれは滑稽だって笑われたしな。しかも、決め手になる下水道にしたって、ゲイガンが放った言葉が気付かせてくれたんだったな。その時から俺、自分で何も気付けてないじゃん。

 英奈のことだって、もっと早く気付けて…………──待て。

 詠真は意識の隅に引っかかるモノを感じた。

 俺、今なんて言った?

 ──ゲイガンの言葉に気付かされた?


「おらおら、いつまで逃げてんだよ! 兄なら兄らしく、妹の為にカッコいいとこ見せてくれよ、なァ! おい! テメェじゃ火も沸かせねェ! ガスコンロ以下の火使いは存在価値あるんですかねェ!?」


 詠真は、突如ピタリと足を止めた。目の前にはコンテナ。背後には大柄な男。火しか発動できていない詠真に逃げ道はない。……ない、のだが。


「ガス、コンロ……」


 詠真は自宅のガスコンロを思い出す。カチリとスイッチを入れれば、青い炎がフライパンや鍋を熱して、毎日を潤す料理が出来上がる。

 ……なんだ、そういうことか。


「おお、ついに自覚したかァ? かはは、滑稽だねェお兄さんよォ!」


 男の手が伸ばされた。首を掴まれた。持ち上げられた。

 ──だがそこに、起死回生の笑みが、確かあった。


「……いつも、気付かされてばかりだな」


 練り上げる、火を。大きく燃え上がるように、ではない。

 細く鋭く突き出すように、更に熱く燃やし切るように、どこまでも洗練させる。

 撃ち出せ──バーナーのように、本当の炎を撃ち出せ。

 詠真の脳内で、何かがカチリと音を立てた。


「かはは、次は幻でも見てますかァ? じゃあ幻の中で……──あ?」

「はは……スイッチ入ったわ」


 首を掴みあげる男の腕には『青い炎』が灯っていた。

 透過の念を送っても青い炎は透過しない。着実に腕を焼き焦がしていく。


「テメェ……何をした」

「お前に火が通じなかった。驚いたさ。でも考え方を変えたんだよ」

「……何が、言いたい」

「通じなかったのは『赤い炎』。ならなぜ赤い炎は通じないかを考えた。知ってるだろ? 火が赤いのは不完全燃焼だからだ。俺はそれが通じない理由だと思ったわけだ」


 木葉詠真の問題点。それは火を発動させる際に『完全燃焼か不完全燃焼か』を考慮していなかったことだった。火は赤い。そういった先入観から無意識に『不完全燃焼』の火を発動していた詠真は、男の言葉でそれに気付かされた。


「のしかかるお前に火を放った時、避けられただけかと思ったが、そこで俺の火を透過できることにお前は気付いたんだろ? だから余裕だった」

「かはは、つーことは……テメェ、戦闘の中で進化したってことか」

「進化? そんな大層なもんじゃねェよ。使い方が分かっただけだ。こりゃ細かい話なんだが、完全燃焼の『青い炎』は気体かプラズマに分類されるんだわ。とすれば『赤い火』は気体に分類されねェのか? 超能力ってのはよくわかんねえや。まあ今はどうでもいい」


 適当に吐き捨てた言葉は羽毛のように軽く、


「はは、ありがとな。お前がガスコンロガスコンロ言ってくれなきゃ気付けなかった」


 詠真は勝利を確信して口角を吊り上げた。


「ほら、ガスコンロの火って──青いだろ?」

「……かはは、皮肉まで用意するたァ大したガキだ」

「このまま焼き殺すのは惜しい。どうせなら最後に全部吐けよ」

「……アイツにやらせりゃ犯行がバレずに済んだのかもなァ」


 プライドなのか燃え続ける腕は詠真の首を離さなかった。完全燃焼が齎す熱は想像を絶する激痛だろうに、それを耐える精神力は常軌を逸していると言える。もしかしたら薬物によって痛覚が麻痺しているのかもしれない。だが力は確実に弱まっていた。

 詠真はその腕を振り払って、息を吸い込む。


「……オイ、アイツって誰だ」

「誘拐の時、いちいち俺に命令してきたやつだ。いちおうディアプトラのリーダーだったんだがな、イラッときちまってぶっ殺した」

「ならそいつはどうでもいい。お前たちのバックに居る奴らを教えろ」


 大柄な男は燃え続ける腕など気にもせず、その場に胡坐を掻いて座り込み、


「詳しいことは俺も知らねェよ。知ってるやつは殺したからな。あー、でも……依頼主はよく分からん奴と太った研究者だ」

「……それだけ、なのか?」

「第九区。マンション柳最上階左奥。俺はそこにテメェの妹を運んだ。それで終わりだ」


 どうやら本当にこれ以上の情報は持っていないようで、大柄な男は燃え広がる青い炎に身をゆだね始めた。このまま焼死するつもりなのだろう。

 詠真は奥歯を噛み、唇を噛み千切り──青い炎を掻き消した。


「おいおい、なんのつもりだクソガキ」

「俺は人を殺さない。お前は大人しく牢にぶち込まれろ」

「牢は出れちまうからなァ。仕方ねェ、そろそろ出れねえとこに行くか」


 ぬるりと、男の身体は床に沈み始めた。逃げる気かと詠真は身構えたが、どうも男の目からはそう感じられない。むしろ、死を覚悟した目だった。


「お前にどんな事情や抱えた悩みがあったのか知らないし、死ぬ気なら止めない。お前は英奈を奪った奴だからな、死にたきゃ勝手に死ね。俺は知らん」

「かはは……どの道、喋った俺は殺されるしなァ。……じゃあなクソガキ」


 そう言い残して、名も知らぬ大柄の男は中指を立てた丸焦げの右腕だけを突き出し、コンクリート製の地面の中で能力を解いて二度と出られぬ牢獄へ自ら埋没した。


「後味悪ィな……ったく」 


    7

 

 鈴奈に手を貸すため外へ飛び出した詠真は、肌を刺す外気に身を震わせた。

 地面は薄く氷結し、気を抜けば滑って転倒してしまいそうだ。

 その空間に立っていたのは一人の少女だけ。それ以外の武装集団は白目を剥き、全身の肌から血を滲ませてピクリとも動く気配がない。

 死んでいるようにも見えたが。僅かに呻く声が聞こえることから命はあるのだろう。


「随分と盛大にやったんだな、舞川」

「あら、そっちも終わったのね」


 言って振り向いた鈴奈も肌の至る所が裂けて血が滲み出ていた。そんな姿でも笑顔を浮かべられる彼女の精神力には感服するところがあるが、相当無茶な力の使い方をしたことは一目瞭然だった。


「悪い、しんどい方を全部任せて……綺麗な肌に傷負わせちまったな……」

「気にしないで。木葉クンも結構酷い顔よ? 殴られた?」

「ははは……ちょっと苦戦した。でも情報は吐かせたし問題ない」


 次なる目的地は定まった。しかし、


「舞川は病院行った方がいい。後は俺だけで」

「ここまで来てハブられるのは不本意だわ。病院は貴方も同じよ」

「いやどう見ても舞川のが重傷だろ……」

「傷が浅いか深いかは関係ないの。動けるか動けないかよ」

「しかしだな……」


 渋る詠真を見つめる鈴奈の目には断固として引かない意思が宿っている。

 これ以上説得しても無駄だと諦めた詠真は首肯すると、倒した男から入手した情報を共有しつつ、再び大倉庫内に戻って他の手掛かりを探し始めた。

 しかし誘拐に関連する証拠品などは一切残されておらず、バックにいる主犯と最も関わりがあり情報を持っていた前任のリーダーが証拠隠滅を図ったのだろう。

 判明しているのは、英奈は誘拐後、第九区にある『マンション柳』の最上階左奥の部屋に連れていかれたこと。主犯格には、よく分からない男と太った研究者がいること。

 これ以上の情報を得るには、第九区に向かう必要がある。第九区と言えば高級住宅が割合を占める富裕層をターゲットに据えた居住区で、マンション一つ入るにしても正面からセキュリティを突破することは難しい。何より、二人とも端から見てもボロボロの姿で交通を利用することからして困難だ。特に鈴奈。彼女は血塗れである。

 だが、交通を利用せずとも時間をかけず移動する手段はある。加え、わざわざ正面からセキュリティの相手をする必要もない。磯島からは目立つ行動は控えろと言われたが、彼らは既に犯罪グループ一つを壊滅させたのだ。

 それに比べれば、これから取る手段など可愛いものである。


「舞川、ちょっとこっち来て」

「?」


 詠真は手が届く距離まで鈴奈を近寄らせると、行くぞと一声かけてから、


「っいしょ」


 そのまま彼女をお姫様抱っこの要領で抱き上げた。


「わっ」


 反射的に詠真の首に手を回した鈴奈は、顔に強い風を感じる。

 詠真の背中に竜巻が生じていた。それが四本。竜巻は翼のようにうねり、下の二本が地面を叩きつける。空へ跳ね上がった詠真は抱えた鈴奈を落とさないよう気を付け、彼女もまた振り落とされないようしっかりと彼の首に腕を回して身体を固定した。

 上空約二◯◯メートルの飛行。これが交通機関を利用せず移動する手段であり、マンションを正面からではなくベランダから直接侵入する手段である。


「空を飛ぶって気持ちいいのねぇ」

「こんな状況じゃなきゃ気楽に飛べたんだけどな」


 無許可での長時間飛行は超能力であれ違法にあたる上、不法侵入の予定もある。

 後々面倒ではあるが、そんなもの後々でいい。今やれることをせずに後から後悔しても失ったものは戻ってこないのだから。


「空から島を見下ろしたのは初めてだわ。こんな感じなのね」

「うん? あぁ、形のことか」


 五つの浮島からなる天宮島は、ひし形の陣形で洋上に存在している。現在飛行している四基を頂点とするなら、右手に三基、左手に二基、前方奥に五基を視認することができ、これらはゲートと呼ばれる長い橋で連結されていた。そしてそのひし形の中央に他四基の何れとも連結していない孤立した状態で浮上しているのが、白塔の一基である。

 詠真はこの高度で飛行することが人より多い為見慣れていたが、島全体を俯瞰する機会はあまり訪れるものじゃない。鈴奈が驚くのも無理はない。


「あの一基って何なのかしら?」

「さあ? 白い塔と花畑があるだけでそれ以外は。都市伝説みたいのを幾つか耳にしたことはあるけど、何とも言えないな」

「へえ、それまた今度聞かせてよ」

「詳しいのは英奈だからアイツの口からな。速度を上げるぞ」


 竜巻がターボエンジンのように膨張し、一気にエネルギーを吐き出す。身体が耐えられる余力を残しつつ猛スピードで空を駆ける二人は、第九区へ辿り着くと端末のマップアプリで『マンション柳』を探し出し、最上階左奥──二◯◯九号室のベランダに降り立った。

 内側からかけられたカーテンで中は確認できない。詠真は大きな音を出さないようガラスドアを火で溶解し、その中へ足を踏み入れた。


「…………なにも、ない」

「逃げられた? いや……」


 部屋の中は、家具一つすらない空っぽの状態だった。昨日から一晩で片付けたにして綺麗すぎる上、人が住まれていた痕跡が一切として見当たらない。

 下手すれば数年間住居人が居ない部屋とも見受けられる。高級マンションともなれば空いている部屋の掃除が頻繁に行われていても可笑しい話じゃない。

 あるいはあの男が嘘を言ったのかもしれない。だが、それを確かめる術もこれから向かうべき標も──手掛かりという手掛かりは、この瞬間に尽きてしまったのだ。


「……クソッ!」


 詠真は玄関の扉を蹴り開けると、ちょうど家に入ろうとしていた住居人の女を捕まえ、扉に叩きつけて感情のまま声を荒げる。


「なああんた、二◯◯九号室にはいつから人が住んでないんだ!」

「な、なによちょっと!? 不審者!? どこから入ってきたの!?」

「いいから答えろ! 早くッ!」

「ひっ!? に、二◯◯九号室よね!? 二年前から誰もす、住んでないわ!」

「昨日怪しい人物を見かけなかったか!?」

「見なかったわ! 本当よ!」


 そこに笑顔を浮かべた血塗れの少女が顔を出した。


「本当に?」

「ち、血塗れ!? 何なんなの!? 誰も見なかったわよ!?」


 鈴奈は喚く女の目をじっと見つめる。まるで更に奥を見透かすように。


「……嘘じゃないわね。木葉クン、どうせなら下の管理室に聞きにいけば? 事情を話せば監視カメラの映像とか見せてくれるかも」

「分かった!」


 言って詠真はエレベーターに乗り込む。それを見送った鈴奈は、恐怖のあまりへたり込んだ女の額に、とんっと指を押し当てた。


「……ま、何も映っていないでしょうけど。そうかそうか、まさか『ウチ』が関わってるとは思わなかったなぁ。例のレブルスってそいつかしら?」

「な、ななに言ってるのアナタ……」

「ふふ、個人的な話よ。突然なんだけど、『私達』って直近一◯分程度の記憶なら消去することは容易いのよね。──貴女が昨日そうされたようにね」

「き、記憶を消去するですって!? そんな魔法みたいなこと簡単に──」

「ふふ、だって──魔法ですもの」


 押し当てた指を強く押し込む。ふわりと薄青い光が舞い、女はその場に倒れ込んだ。


「さて、全容は見えたけど……ここは最後まで任せてみましょうか」


 鈴奈がエレベーターに乗り込んで数秒、目を覚ました女は何事もなかったように立ち上がり、自宅の中へ消えていった。


    8


 マンション柳の昨日の監視カメラ映像に、英奈を誘拐し詠真と戦った大柄な男の姿はどこにも映っていなかった。二◯◯九号室も本当に二年前から誰も住んでおらず、詠真に残されたのは『よくわからない男と太った研究者』という情報のみ。

 つまり、英奈への足取りは完全に途絶えてしまったのだ。

 その後、今日一日で起こした問題行動の数々を警察から咎められた二人は、家族を誘拐されたという事情と犯罪グループの壊滅の功績、後見人である磯島が多額の罰金を即金で払ったことから、今回だけの情状酌量として自宅に帰されることになった。

 そこまでの問題を起こし、なおかつ足取りを失った詠真は、もう動きようがなかった。


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