拾壱

 主文は、当然のごとく後回しにされた。

 

 俺に残された進路は三択。

 一つは、ここまで来てないとは思うが、無罪。

 もう一つは無期懲役。最期の一つは……言うまでもないだろう。

 

 俺もいろいろ勉強したが、主文後回しは、被告人に罪状を噛み締めさせるためにあるという。何故、なのか? それは、極刑を宣告され動揺した被告人が、判決理由に聞く耳を持たないことを防ぐためであるらしい。主文後回し=極刑ならば、そんな配慮も必要ないのではないか? 

 裁判官は、身に覚えのない判決理由をブツブツと語っている。

 ――そもそも意味がないのではないか? 

 俺にとってこの裁きは、何か意味を成すものなのか⁇ 罪に有無や意味など存在しないのではないか……?

 哲学的な考えが頭をよぎったが、何の打開策も浮かばなかった。俺ができることはただ一つ。笑顔で冤罪と戦うことだ。

 『悪法も又法なり』と古代の哲学者の言葉を思い出した。悪法以前に、この法廷では浮世の法律さえ無視されている。今なら、ソクラテスに匹敵する哲学書が、カフカと肩を並べるほどの絶望小説が書ける気がした。

「――――で、あるからして、被告人は事件当夜、交際中だった被害女性と心中を図ろうとし、被害者宅に侵入。台所にあった包丁を持ち出し――――」

 裁判は粛々と進行している。もうすぐ主文が読み上げられるだろう……。

「――――という非常に身勝手且つ残虐な犯行であり、また、一貫して容疑を否認していることから更生及び情状酌量の余地もなしと判断される。よって――」


 ――終戦だ…………。


「主文、被告人を――」

「意義あり‼」

 俺は背後からの叫び声に、たじろいだ。




 聞き覚えのある声だ……。鶴屋……?

 傍聴席の方へ振りかえった俺は、とんでもない光景を目にする。鶴屋が、あの理系で計算高い鶴屋幸夫が、傍聴席から身を乗り出して意義を主張している!

 すぐさま二人の警備員が、鶴屋を取り押さえようと掴み掛かった。そこで俺はもっと、とんでもない光景を目にする。二人の警備員は、鶴屋に触れた途端、法廷の両端に吹き飛ばされてしまった‼ 

 ――何が起こったんだ⁉

「ぼっ……傍聴人は、せっ……静粛にぃ」

 先ほどまで堂々と判決文を読んでいた裁判官も、声を震わせている。

「裁判長は先ほど被告人を、交際中の女性と心中をはかろうとして犯行に及んだと仰いましたが⁉」

「……はっ、はい。言いましたが?」

「それは間違いです‼ 今、どこぞの泥棒猫と死刑心中をはかろうとしている被告人、改め、集一は、私の彼氏です‼ 他の女と心中なんて、ゼッタイありえません‼」

 法廷に鶴屋の甲高い声が響いた。この声は本当に鶴屋の声なのかだろうか……?


 ――そ・れ・よ・り・も! あいつ、今、なんて言ったんだ⁉


 法廷にどよめき始める。鶴屋は傍聴席から身を乗り出したまま、俺を見つめ続けている。あいつ、急にどうしたんだ⁉ この状況で錯乱するなら、お前じゃなくて、俺だろ‼

 隣にいる小泉は席に座ったまま、両手を合わせて、何か拝んでいる。刑事の別所は、無表情で両手両足を組んだまま、ピクリともしない。その後ろに座っていた男は、驚きのあまりズッコケていた。

「……ええっと、傍聴人は被告人の、何だと言いましたか……?」

「集一は私の恋人です‼」

「もういい! もういいからやめてくれ、鶴屋‼」

 俺は鶴屋の意図をくみ取ったつもりになった。自らを男色家だと偽って、俺を死の淵から救おうとしてくれている……なんていい友達なんだ!

「俺は恵まれていた! 霊を引き寄せる体質も、鈍感な性格も全部関係なかったんだ! 俺には最愛の恋人と、最高の友人がいたんだ。それだけで、もう、十分だ。俺のためにそこまでしてくれる必要はない。鶴屋、お前だけでも、俺の分まで幸せになってくれ‼」

 俺が法廷で、これだけ思いのたけを打ち明けたのは、裁判が始まって以来、初めてだろう。

 もう、悔いはない。そう思った。

 自然と涙が溢れる。

 極刑への恐怖と熱い友情とが、俺の涙腺を猛烈に刺激した。傍から見れば下手な昼ドラ以上にドロドロとした前代未聞の異常発言に、法廷は騒然としている。

「せっ、静粛に! 静粛にっ‼ 傍聴人は席に戻ってください。被告人は勝手な発言を控えてください‼」

 体勢を立て直した警備員が、再び鶴屋を取り押さえにかかった。だが、鶴屋は黙らなかった。それどころか、二人の警備員を先ほどと同じ、謎の力で吹き飛ばした。


「……集一……私だよ……約束、守ってくれたんだよね」


 ――鶴屋……いったいどうしてそこまで……約束? 

「そうか! 約束か‼」

 俺の中で、すべての辻褄が合った。そして、その時、俺は確かに見た。裁判官、検事、弁護士、傍聴席の記者たちに取り憑いていた黒い靄の塊が、それぞれの体内から姿を現したのを。

「……辛いことがあっても、お互い笑って乗り切ろう……か。ふふふっ、はっはっはっはっはっはっはっ‼」

 俺は思いっきり笑った。そして、心がみるみる軽くなるのを感じた。

 すると、どうだろう、法廷にいた人間の大半が苦しみだした。苦しみながら、黒い靄の塊を吐き出している。ある者は口から。あるものは鼻から。両方の者もいる。

 この法廷内で黒い靄の塊を吐き出さなかったのは、鶴屋と小泉、別所とその後ろの席に座る男などの、数人に限られた。

 黒い靄の塊は一点に集まっていく。それは、バラバラになったスライムが再び一か所に集まり融合するかのようだった。そして形を成していく。数十秒の内に、黒い靄の塊改め、どす黒い悪霊の塊は、髪の長い女性のシルエットを作り出した。それは、法廷の天井に届くほどの、巨大なシルエットだった。

 俺の脳内に、これまでとは比べ物にならないくらい、邪悪で、不快、尚且つ甘美なささやきが、染み込んでくる。


『墜チヨウヨ! 一緒ニ、地獄ヘ墜チヨウヨ‼』


 俺の中に、この誘いに打ち勝つだけの力は、残っていなかった。

 ――誰か、誰か助けてくれ‼ 

 次の瞬間、どす黒い女性の形をした悪霊の塊に、俺は飲み込まれた。

 ――息ができない‼ こんなゴリ押しで、殺されるなんて…………。

 朦朧とする意識の中で、俺は、希望を失いかけていた。

 ここまで来るのに、どれだけ諦めそうになっただろう。だが今回ばかりはもうダメだ。俺は地獄に墜ちるしかないのか……これで、やっと楽になれるのか……。

 俺がすべてを諦めようとしたとき、突如視界が明るくなった。今度は何だ?

 俺の目の前に見たこともない女の人が立っている。この女が悪霊の正体なのだろうか? それにしても……きれいなヒトだなぁ……。

 女のヒトはひどく怒っているようだった。口を尖らせて、目を大きく見開いて、何か言っている? 

 ――なんて言ってるんだ⁇

「サイテー男‼ あんたが先に諦めてどうするの‼ あんたにはまだ希望があるでしょ! 早く彼女を呼びなさい! 唐変木っ‼」

 色白の女の人は、まもなく、暗闇に呑まれ、視界から消えていった。

 ヒドイ言われようだ。無力な俺が、これだけ戦ったのに、どうして責められないといけないんだ! 


 ――呼ぶ? 誰を? 彼女……? 


「……タスケテ……玲奈っ」


 俺は最期の力を振り絞って、玲奈に助けを求めた。さっき確かに、鶴屋の中に玲奈がいるように感じた。もし、本当に、玲奈がそばにいるなら……もう一度、彼女に会いたい。

 彼女に謝りたい。彼女の笑顔を見たい!

 果たして、俺の声は、玲奈に届いただろうか。届いたとしても、こんな俺を助けてくれるのだろうか? 

 ――いや、考えるまでもない。


 ――約束か……。


 次の瞬間、悪意に満ちた暗闇の中で、再び、何かが光った。

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