目を覚ますと、見慣れない天井が広がっていた。火災報知機とスプリンクラーが設置されていることから、どこかの施設だろう。考えられるのは病院だ。俺はベッドの上に寝かされているようだ。     

 ――いったい何があった?  

 記憶が混乱している。頭に鈍痛も感じる。手を頭に当てようとしたが、それもできない。右腕はギブスでガチガチに固められている。左腕には点滴の針が刺され、頭上のパックまでチューブが通されていた。耳を澄ませば、精密機械の無機質な鼓動が聞こえてくる。

 どうやら俺はケガをして、病院に担ぎ込まれてようだ。そこまでは理解できたが、なぜケガをしたのかが思い出せない。

 頭を少し右に傾けると、壁にかかった呉服屋のカレンダーが目に入った。たぶん母さんが実家から持ち込んだものだろう。一月一二日以降の日付に、赤いマジックで×印がつけられている。俺が担ぎ込まれてから書き込まれたのだとすれば、今日は一月一八日。成人の日から一週間が経っていた。

 その間、ずっと眠っていたのだと考えると、不思議な感覚になった。まるで未来にタイムスリップしたかのようだ。

 玲奈が見舞いに来たら、この何とも言えない不思議な感覚を、できうる限り大げさに語って、笑わしてやろう……。

 そんな計画が浮かぶくらいに、心に余裕も出てきた。




 しばらくすると、様子を見に来た看護士が俺の覚醒に気づいた。看護士は我が子のことのように、喜んでくれた。

「もう目を覚ますことはないかもしれないって、あなたの親御さん、とてもショックを受けられていましたよ。――でもよかった、すぐに先生を呼んできますね」

 看護士は足早に病室を後にした。

 再び一人になった俺は、頭の中を整理した。なぜ俺はケガをしたのか……。

 記憶が徐々によみがえってきた。

 ――そうだ事故だ。

 あの日、俺は交通事故を、それも単身の事故を起こしたのだ。

 だが、どうしてもわからないことがある。なぜ事故を起こしてしまったのか、皆目見当がつかない。

 思考を巡らせていると、先ほどの看護士が医者を連れて戻ってきた。

「君、ホントに運が良かったねえ。頭を強く打ったのに、この程度で済んで」

 俺は軽いリハビリのつもりで、医者に対して質問を投げかけた。

「運が、悪かったら、どうで、した……?」

 少し舌がもたついたが、言葉を発することができた。白髪交じりの初老の医者は、大きく見開いた目でこっちを見ている。

「驚いた⁉ 君、もうしゃべれるようになったのかい?」

 いい気になった俺は、医者に回復ぶりをアピールし、もっと驚愕させてやろうと、質問を畳み掛ける。

「先生。運が、悪かった、ら?」

「まず、生きてはいられないだろうね、脳死がいい所だよ」

 自分が死の淵を彷徨っていたことを想像すると、悪寒がした。

「でも、もう大丈夫だろう。ご家族がお越しになるまで、安静にしていたまえ」

 一通りの検査を終えると、医者は病室から出ていった。生命維持装置、人工呼吸器も取り払われ、病室には点滴のみが残された。そして静寂が訪れる……はずだった。

 ――耳鳴りがする。

 いや、幻聴と言う方が正しいだろう。目を覚ましてから、時間が経つにつれ、幻聴はだんだん大きくなってくる。 

 ――子供の笑い声、女性の泣き声、男の怒鳴り声、老人の咳払い……。

 気味が悪い。母さんか、もしくは玲奈が来たら、さっさと病室を変えてもらおう。事故の影響で、まさか霊媒体質になっただなんて冗談じゃない。この幻聴も、事故の影響が一時的に出ているだけだろう……。

 そうだ、そうに違いない。

 気を強く持つことにしよう。こんな情けない姿、彼女に見せられない。……そういえば、夢のなかで玲奈に会ったような気がする。あいつ、泣いてたっけ? 俺のピンチを聞きつけて、心配になって見舞にでも来てくれたのだろう。謝らないとなぁ。




 幻聴と戦いながら、玲奈のことを考えていると、病室の戸が開け放たれた。

 革靴が床にこすれる音がする。俺は、見舞客に向けて愛想笑いを浮かべようと試みたが、それはできなかった。入ってきたのは家族でも、玲奈でもなく、見ず知らずの背広の男たちであった。

 俺は再び混乱した。知り合いだろうか? それとも向こうが病室を間違えているのか?

 俺の混乱をよそに、男の一人がポケットから黒塗りの手帳を取り出し、仰々しく俺に見せつけた。

「水辺集一さんですね。我々、こういう者ですが」

 黒塗りの手帳が開かれ、国家権力を示す金色桜の紋章が、俺の目に映りこんだ。間髪いれずに、もう一人の男が続けて口を開く。

「何か言いたいことがあるんじゃないのか?」

「……はっ?」

 男たちの態度は、妙に高圧的だった。病室が、取調室の様相を呈する。

 単身事故だと思っていたが、もしかして巻き添えになった人がいたのか? 自分が何をしたのかわからない分、性質が悪かった。

 それに事故の取り調べにしては、様子がおかしかった。病室に入ってきたのが6人。外には、制服組が更に数人、待機している気配が感じられる。

「まあ、時間はたっぷりあるんだ。根気よくいこうじゃないか」

 リーダー格の中年の男が、ベッド横の丸椅子に腰かけた。残り5人の男たちは、ベッドに寝転ぶ俺を取り囲む。同時に病室の戸が閉められた。密室に男が7人。頭に巻かれた包帯に脂汗がにじんだ。

 ――俺がいったい、何をしたというんだ?

 目を覚ますと、世界中の人間が敵になってしまったようだ。ああ、玲奈に会いたい。彼女ならわかってくれるはずだ。彼女なら俺を助けてくれるはずだ。夢のなかで彼女は泣いていた。謝らなくては……。心配かけて、すまなかったと。それなのに。

「玲奈に……浮場玲奈に、会わせて、ください!」

 俺は力を振り絞って、腹から声を出した。声は思ったほど響かなかったが、狭い病室内では十分なボリュームだった。直後、病室に静寂が訪れた。男たちは黙ったまま、俺の方を見つめている。その誰もが、何か言いたげに顔を引きつっていた。

「しらばっくれるな‼」

 左隣にいた若い男が突如、怒鳴り声をあげた。

「……現実逃避も、そろそろ終わりにしようや」

 椅子に座った中年の男が、低く嗄れた声で、静かに付け加える。

 俺は、男たちが何のことを言っているのか、やはり見当がつかなかった。

「ちょっと! 病室ではお静かにお願いします」

 騒ぎを聞きつけた先ほどの看護士が、病室の戸を突き破るような勢いで入ってきた。話がわかりそうな人物の出現に、俺は勇気づけられた。一縷の望みを、知り合ったばかりの看護士に託すのも変な話だと思ったが、今の俺には、地獄に仏であった。

「玲奈に、会わせて、ください!」

 俺の弱弱しく情けない叫びを聞いた看護士は、驚きの表情で、後退りした。俺を取り囲んでいた男たちは、呆れたとばかりに頭を抱えている。

「……玲奈って、もしかして浮場玲奈さん?」

「そう、です」

 なぜ看護士が玲奈の名字まで知っているのか、特に気にはならなかった。きっと見舞いに来てくれた時にでも、知り合ったのだろう。人見知り皆無な彼女なら十分あり得ることだ。

 しかし、看護士は複雑な表情をしている。俺の質問に、なかなか答えてくれない。取り囲んでいた男たちは、頭をかきむしったり、拳を強く握ったり、歯を食いしばったりしていた。椅子に座っているリーダー格の男も足を揺すりだした。全員が苛立っている様子だった。一触即発の空気が流れる病室は、俺にとって完全にアウェーだ。

「一週間も意識がなかったら、無理もないでしょうねぇ……」

 看護士の目に『哀れみ』が浮かんだ。公的機関の男たちに囲まれている異様な様子から、何かを察したであろうその声は、少し震えていた。

 その時……俺は、自分の目から涙が溢れていることを自覚した。急に悲しみが込み上げてくる。夢で見た情景が脳内にフラッシュバックし、頭がクラクラし始めた。

 夢のなかで、玲奈が何か言っている。なんて言ってるんだ……? 

『集一……ごめんね……わたし、きっと助けてみせるから‼』

 夢のなかで彼女は、俺に謝っていた。迷惑をかけたのは俺なのに、なんで謝るんだよ! それに、助けるってなんだよ?

 彼女の身に、何かが起こった。俺はそれを本能で感じ取った。だからだ。――だから涙が溢れるのだ。

 見てられないとばかりに、男の一人がスマホの電子版を俺に見せつけた。そこには、一週間前、つまり成人式の次の日に発覚した、殺人事件の記事がアップされていた。

 被害に遭ったのは「二十歳の女性」であった。名前は『浮場玲奈』…………。


 ――俺は初めて、彼女が殺されたことを知った。


 夢枕に立った玲奈は、俺に謝っていた。その理由も、間もなく判明した。容疑者は、被害女性の交際相手で、同じ大学に通う同回生の男、と報道されていた……。

 俺はショックのあまり言葉を失った。

 同時にまぶたが重くなり、意識が遠のいていくのが、ぼんやりと感じられた。

「水辺さん……大丈夫ですか? 水辺さん⁉」

 看護士が駆け寄ってくるのも感じられたが、その感覚を最後に俺は再び意識を失った。

 次に目を覚ましたら……全てが夢であったのだと安心できるように、恐ろしい夢を見たと玲奈に打ち明けて、二人で笑い飛ばせるように……。そんな願いを込めて、俺の意識は闇の中に静かに浸っていった。

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