血の降る夜、銀髪の少女 Ⅰ
心の痛みを共感できる人間はたくさんいる。悲劇的な映画の主人公、長い歴史に幕を閉じるデパートで働く人々、保健所にいる動物たち。それらの悲痛な思いに共感し、涙を流す人は少なくない。最近の脳科学の研究によると、他者に共感する際に活性化する脳領域と、自身が痛みを感じている際に活性化する脳領域とはまったく別物であるそうだ。つまり僕たちは、自身の経験とは無関係に、相手の痛みを勝手に想像しているだけなのだ。
この想像上の痛みは、心の痛みでは充分に効果があるわけだが、肉体の痛みに関しては、正直効果が無い、もしくは小さいと言える。例えば体育の授業の時、お腹が痛い、頭が痛いと訴えてもそれに対して心配げに対応する教師は少ない。大抵が「大したこと無いだろう」「大げさなやつだ」といった態度で接してくる。他にも、紙で指先を切った経験がある人なら分かるだろうが、傷口は些細なのだが、痛みはそれなりに大きい。これも他人に見せた所で「その程度でガタガタ騒ぐな」と思われるのがオチだ。
前フリが長くなったが、何をいいたいのかと言うと、いじめにおいて最も辛いことは「無視される」だの「悪口を言われる」だのと言われているが、僕が一番耐え難いものが正に肉体的苦痛、すなわち暴力行為である。これについて賛否両論あるかと思うが、少なくとも僕にとって最も耐え難いものが理不尽な暴力、痛みなのだ。
「どうしたの、その怪我? 本当に大丈夫なの?」
快活そうなポニーテールの少女は、幼馴染の同級生の腫れた顔を心配そうに眺めていた。幼馴染という距離感がなせる業か、その顔は異性に対して近すぎる距離だった。少年は咄嗟に息を止め、鼻呼吸を意識した。
「うん、転んだだけだよ。大丈夫、全然問題ない」
少年は嘘をついた。あまりにも実際の心境からかけ離れたその嘘は、幼馴染である
少年を見つめるあやめ。その眼差しはすべてを見透かしていそうなくらい、淀みのないきれいな瞳だった。少年は思わず目をそらした。
「それならいいけど、ちゃんと保健室に行きなさいよ? それと、なにか悩みがあるならすぐ私に相談すること!
香澄と呼ばれた少年は下を向いたまま頷いた。あやめは釈然としなかったかが、これ以上の追求は香澄に負担になると判断し、その場を去った。
あやめと会話を終えるのを待っていたかのように、ガラの悪い三人の男が香澄の前に現れる。茶髪にピアス。シャツのボタンは胸元まで開けており、首には蛇が巻き付いた十字架のネックレスがぶら下がっていた。香澄が通う高校はそこそこ偏差値の高い高校だったが、不良というものはどこにでもいるものだった。
「香澄ちゃ~ん、いい子だねえ、あやめママにチクらなかったんだ~?」
「僕の問題に彼女を巻き込みたくはないだけだよ、伊藤くん」
三人組のリーダー格、伊藤に精一杯の強がった返事をする香澄。伊藤たちはそれを面白がっていた。ニヤけたその顔を見るだけで香澄は胃の下の辺りが絞られるような感覚になった。
「そうだよね、香澄君。ところでさあ、今夜、一緒に
「夜間は外出禁止令が出ているから駄目だよ」
――二年前に日本で発足された条例「夜間外出禁止令」
突如ヨーロッパで発生した未知のウイルスが引き起こす病『狂神病』。その感染条件が「夜間、月明かりの下でのみ感染」という、にわかには信じ難いものだった。感染条件が特定された時点でヨーロッパは壊滅状態、あらゆる通行手段がシャットアウトされており、ヨーロッパ全土がロックダウン、今も続いているそうだ。日本ではまだ感染報告はないが、その驚異的な感染力から対策として発行された条例が「夜間外出禁止令」である。日本では感染事例がないため、危機意識の低い不良が深夜に出歩き、警察も夜間の外出を禁止されていることから治安も著しく悪化していた。
「何だお前、あんなの嘘に決まってんだろ? 夜間外出禁止令は政府の陰謀なんだよ」
「夜は化け物が徘徊しているって噂もあるぜ。それを隠すために政府がウイルス騒動をでっち上げているんだ」
「最近、黒いロングコートを羽織った二人組が、家の屋根から屋根へと飛んでいる姿が目撃されたみたいだ。きっとそいつらが化け物を退治しているんだよ」
三人組は出所のわからない都市伝説を語りだす。実際、この二年で国民の政府への不信感は非常に高まっており、夜間外出禁止令について、多くの国民が不満に思っていた。そういったことから世の中では怪しげなカルト宗教や陰謀論が進んで語られるようになっていった。
「だからよぉ、俺達がその化け物退治を手伝ってやろうぜ」
「なんか、俺たちアニメの主人公みたいじゃね?」
いじめをするような人間はどうも頭が弱い、香澄はそう思った。
「それなら君たちだけで行けばいいじゃないか。僕なんかが行ったて全くの戦力外だよ」
夜間外出禁止令を破ると、最悪の場合懲役まであり得る。いくら少年法で守られているとはいえ、そんなリスクをを背負ってまで彼らの馬鹿げた案に付き合いたくはない。香澄はどうにか断る口実を考えていた。
「馬鹿かお前、誰が戦力なんか期待した? お前は餌になるんだよ」
「え、餌?」
「そうだよ、まず俺たちがお前をボコる。弱ったお前が街を徘徊して化け物が襲ってくるのを待つ。それを俺たちが助ける。完璧だろぉ?」
なぜボコボコにされなくてはいけないのか。そんな疑問を伊藤たちにふっかけた所でまともな答えは返ってこないことを香澄は重々理解していた。
「そんな、いやだよ。なんで僕がそんな事しなくちゃいけないのさ……」
香澄の返事が予想外だったのか、伊藤は急に口調を荒げた。
「ゴチャゴチャ言ってんなよ。お前が来ないんだったら、あやめママを拉致ってもいいんだぜ?」
青ざめる香澄。怒りと恐怖に喉奥が震え、うまく声を発せられなくなった。
「あ、あやめさんは関係、ないだろっ! 分かった、僕が行くから、あやめさんには、何も、しないでくれ……」
香澄の懇願に気を良くした伊藤は香澄の肩を組むような素振りで首を絞めてきた。
「最初っから素直にしてりゃいいんだよぉ! 夜の九時、湖上公園まで来いよ。チクったら殺す。バックレても殺す。お前の大切なあやめママもなぁ!」
香澄は絞め落とされそうになりながら思った。これは悪夢だ。きっと僕は長い夢を見ているんだ。きっと温かい布団の中で、幸せに眠っているんだ……
「香澄くん、浮かない顔してどうしたの?!」
放課後、香澄は下校しようと靴を履き替えている最中、あやめに声をかけられた。この世の終わりでも目撃したみたいに、香澄の顔からは血の気が引いて真っ青だった。
「うん、転んだだけだよ。大丈夫、全然問題ない」
「問題大有りだよ! それ昼に聞いたセリフ! 今質問しているのは顔の腫れじゃなくて、その青ざめた顔色の方!」
香澄は自身の体が冷たくなっている事に気がついた。冷たい、まるで死体のような生気の無さは、あやめで無くても何か問題を抱えていることがうかがえるだろう。それでも香澄はあやめに今晩の事を悟らせまいと、精一杯冷たく振る舞うのだった。
「少し風邪気味なだけだよ。あやめさん、心配しないで」
「香澄くん、今日、家に泊まっていく?」
あやめの突然の提案にギョッとする香澄。冷え切った体に血が流れる鼓動を感じた。
「な、何言ってるんだよ?! そんな事できるわけ無いだろ! 大体、君の両親だっていきなり来たらビックリするだろうし」
「あ、赤くなった」
あやめの意地の悪い指摘に更に顔を紅潮させる香澄。そんな姿を見てあやめは悪戯な笑顔を向けている。
「香澄くんとは小さい頃からの付き合いだし、親も何も言わないと思うよ! それに、香澄君、家のおじさん達と上手くいってないでしょ?」
香澄の暮らす家に、両親はいない。考古学者である父は母とともに二年前からイギリスに行ったきり、『狂神病』の流行によって帰路を断たれた為に、日本に帰れないのだ。そのため、親戚の叔父が香澄を預かっているのだが、父の財産を勝手に売りに出したり、お世辞にもいい人とは言えなかった。そのため香澄は叔父と距離を置いていた。
今思うと、両親がいなくなったあの日から、悪夢が続いているのかもしれない、と香澄は思った。
「叔父と不仲なのは認めるよ。けど、一応面倒見てくれているんだから僕が叔父を悪く言うことはできない」
「大人だねぇ~。香澄君。私は結構思ったままに行動しちゃうから、そういうとこ、尊敬するなぁ」
こんな僕が大人、か。これが大人だというなら、世の中は悪くなる一方だよ。
「とにかく、心配しないで。僕は大丈夫だから。早く帰ろう、暗くなる前に」
学校を出た二人は特に何かを話すこともなく、とぼとぼと歩いていた。香澄は途中、湖上公園の前を通り過ぎる時に胸が苦しくなった。今晩のことを考えると、あやめに助けを求めたい気持ちでいっぱいだった。公園を眺める香澄をあやめが静かに見守っていた。夕暮れが二人の影を伸ばす。その影は幼い頃と変わらない距離で並んでいた。
それから少し進むときれいなマンションが見えてきた。香澄とあやめは同じマンションの住人だ。ふと、何かの視線を感じた香澄は屋上を見上げた。
「あれ、誰かいる……?」
マンションは五階建てであり、屋上まではそれなりに遠い。それでもはっきりと、香澄の目には人影が見えた。全身真っ黒のコートを羽織った二人組だ。伊藤が話していたことを少し思い出す。ロングコートの人、怪物……
――もし、本当に怪物がいるのなら、僕の悪夢を終わらせてほしい。たとえ、醒めない夢だとしても……
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