第2話 迷い子
戦場ヶ原へと辿り着いた私を、待ち受けていたのは女の子だった。
私の胸ほどの背丈しかなく、黒いセーターを纏ったその子は、目が合うなりニィッ、と笑った。ピンク色の上唇から、にょきっと突き出した八重歯が覗く。
「……どうも」
蚊の鳴くような声が出た。
私は彼女を訝しげに見つめた。いつからそこにいたのかは知る由もないが、人の気配など全く感じていなかったのだ。目も心も、景色にすっかり奪われていたとはいえ、至近距離でこちらを見つめる子供に気がつかない、なんてことはあり得ない。
「お兄さん、ひとり?」
その子は見透かすような眼差しでこちらを見上げ、言った。少女と呼ぶにはまだ未熟なつぶらな瞳だが、その奥には強い光を湛えている。
私は気圧されたように、小さく頷いた。
「どうしたんだい? ……君こそ、家族は?」
身長や顔つきは、おおよそ小学校の高学年から中学生ぐらいに見える。地元に住んでいるならともかく、こんな所に一人で来るような年齢ではない。
彼女は人差し指で頬をかくという、いかにもなポーズをとった。ばつの悪い笑みを浮かべ、その子は答えた。
「それが……はぐれちゃって」
私は安堵と呆れから、特大のため息をついた。
「迷子か」
「迷子じゃない。はぐれちゃっただけ」
「そういうのを迷子って言うんだよ」
「ちがうの。わかってないなぁ〜、お兄さんは」
「わかったわかった。迷子じゃないなら、大丈夫なんだな」
妙なこだわりを見せる女の子に、私は背を向けようとした。
「あ、ちょっと! 待ってよ! 待てコラ!」
「うおっ!?」
信じられないほど強く袖を引っ張られ、思わず転びそうになった。
なんて力だ。
彼女は文句ありげに頬を膨らませていた。
「女の子が一人で困ってるのに、お兄さんたら、知らんぷりするわけ?」
ものは言いようだな——その言葉が喉まで出かかった。が、なんとか耐えた。
手加減知らずのおてんば娘に張り倒されでもしては、たまったものではない。
遮るもののない湿原を、風が侘しげに通り過ぎる。
彼女の焦げ茶色の髪が、いく筋ものおくれ毛となって踊る。
どうして欲しいんだい? そう尋ねる私に、その女の子は鼻を鳴らした。
「お母さんのところまで連れてって」
私は腰に手を当てた。もちろんそうしてやるつもりだったが、その前に少しぐらい、彼女をからかってもいいような気がした。
「じゃあ、認めるんだな。『私は迷子です』って」
「うっ……」
女の子は狼狽えたように顎を引いた。先ほどまでの威勢はどこへやら、困ったようにおどおどしている。
「どうしたの? 迷子じゃないなら、連れてかないよ?」
追い詰められた女の子は、しんなりと背を丸めた。そして、心底恥ずかしそうに告げた。
「……助けてください。迷子に……なっちゃいました」
しおらしく頭を下げる彼女の肩を、ポンと叩いた。なかなかどうして、愛嬌のあるやつだ。
私は展望台に設置されていた黒い看板に向かい、女の子に手招きした。
「お母さんは、どこらへんにいるんだい?」
看板には、戦場ヶ原一帯の地図が記されている。現在地が赤くしめされているので、大体の道筋はわかるだろう。
背後から、ぱたぱたとせわしない足音が聞こえてきた。
女の子はしばしの間、眉根を寄せて考え込んだ。
「う〜んとね……たぶん……ここ、かな」
彼女の白い小さな指が、地図の中央を流れる湯川のほとりをさした。
「
私がそう言うと、彼女の顔がぱあっと輝いた。目の底に、嬉しそうな光が宿った。
雲が薄くなり、やがて、その切れ間からは一条の光が差し込んだ。
森が顔をほころばせた。
木々も湿原も白露に光り、小さな星のような煌めきが川面にちらちらと揺れる。鳥の鳴き声に混じり、女の子の楽しげな声が後ろから聞こえてくる。
「……それでね、朝からこうやって他の人にも声をかけてたんだけど、ひどいんだよ。みんなわたしのことなんか無視して、知らん顔しちゃってさ」
どうやら彼女は、他の登山者にも手当たり次第に声をかけていたようだ。そして、それら全てが空振りに終わったことに、ことのほかご立腹のようである。
「でも、良かった。お兄さんだけだよ、振り向いてくれたの」
そう言うと女の子は、ありがと、と声を弾ませる。脇腹がくすぐったいような、奇妙な面映さを覚えた。たまたまその場に居合わせただけだというのに、何かすごくいいことをしている気分だった。
「他の人は、みんなすたこら逃げちゃうんだよ。かと言って、遊んでもくれないしさ」
さもありなんと思った。
この時世、ひとりぼっちの子供——しかも女だ——を連れて歩くなど、見られた相手によっては警察沙汰だ。私とて、だんまりを決め込んだままその場から退散したくなる気持ちは痛いほどにわかる。実際に、そうしかけたのだから。
それでも。
迷子は放置しない。こんな些細なことをやってやるぐらいの善意は、人間誰しも持っていいはずだ。
ここは都会ではないのだ、年端もいかない女の子が一人、山中で親の助けを待つなど危険極まりない。
私のような弱い人間はきっと、見殺しにする罪悪感が勝ってしまうだろう。
ありがとうと言った笑顔が、ぼやけた肖像のように頭に染み付いていた。
「朝からずっと、か……。じゃあ、何も食べてないのか?」
私の言葉に、女の子はこくりと頷いた。
「うん。お腹すいちゃったよ」
それに呼応するかのように、空腹を告げる鐘の音が響く。
「なるほど、よくわかった」
「……今のは忘れて。本当に忘れて」
彼女の狼狽えた声は甚だ滑稽で、とても愛らしかった。
私は笑いを噛み殺しながら、再び鬱蒼と森がおい茂る林道へと入った。
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