鈴と幻

水色鉛筆

第1話 森へ

 竜頭の滝の脇にある長い石段を登ると、橋が掛かっていた。


 はやる気持ちを抑え、それを頂上へと一段一段のぼる。

 こめかみから小粒の汗が滴るのがわかった。川面をなめるように吹いてくる涼風が、身体の奥から発せられる熱気と混ざり合う。

 薄ら寒い、快とも不快とも判らぬ感覚が支配する。


 その橋は階段から続く一本道を横切り、やがて深い緑の中へと吸い込まれていく。随分と幅広な道路だが、私の耳に届くのは、心地よいせせらぎと、ときおり響く気まぐれなさえずりだけだった。


 道路を横断すると、いよいよ眼前には森が迫ってくる。

 その一隅に、小さく、ほとんど獣道のような山道が続いていた。後ろを振り返ると、これまで登ってきた石段が遠く見えた。


 ああ、この橋はきっと、『こちら側』と『あちら側』の境界線なのかもしれない。私はそんな思いを胸に抱きながら、その『あちら側』へと足を踏み入れる。


 獣道の脇には大きな立て看板が置いてあった。

 奥日光の地図と、主要なポイントまでの所要時間。

 そして隣には、ほとんど錆びて読めない字で、


 『熊出没注意』

 とだけ書かれていた。


 背中からうなじにかけて、すっと冷たいものが通り抜けた。

 いやな汗がふき出る。

 深い森なのだ、熊ぐらい生息していて当然だろう。頭ではわかっていても、どうも落ち着かない。今日は平日だ。観光客もほとんどおらず、今こうして山道に足を踏み入れんとしているのは、私だけである。

 しかし、ここで逡巡していても仕方ない。



 私は意を決して、落葉広葉樹の森へと身を飛び込ませた。



 森は薄暗く、しんと静まり返っている。

 規則的で頼りない自分の足音の他に、人間の存在を感じさせるものは何一つない。狭い藪を挟んで、隣には湯川の澄んだ流れが続いている。木々の間を縫うように流れ、ときおり岩肌にぶつかり、泡と砕け、また混じり気のない清流へと変化する。日の光を浴びて群青に透き通る水面は、喩えようもなく美しい。

 それでも私には、自分を取り囲む風景に見惚れている余裕などなかった。


 先ほどの立て看板が、一歩踏み出すごとに、心に重くのしかかってくるのだった。


 奥へ進むにつれ、道が悪くなってきた。

 山道は周りの茂みから二メートル近くも窪んでいる。私が視線を動かしても、土崖のようになった急斜面が目に入るのみである。今この瞬間にも、上の茂みの中から、獣が私を見下ろしているのではないか。そのような妄想もした。


 やがて、鉄製の大きな格子門が、忽然と姿を現した。

 行き止まりかと思い、不安が増す。近づいてみると、鍵はかかっていなかったが、開けるのはなんとなく躊躇われた。振り向くと、膝丈ほどの下草が海のように広がっている。風に揺れるカサカサという音を除けば、そこは、不気味なほどの静けさに包み込まれていた。


 向かいから澄んだ鈴の音が聞こえ、程なくして、登山服を着た男が歩いてきた。温かい湯船のような安心感が、腹の底に広がった。あの門の向こうに、立ち入ってもいいのだ。私はようやくその確信を得、彼とすれ違うように門を潜った。


 再び、自分の視界に私一人という状況に戻った。

 徐々に勾配のきつくなる山道を踏みしめながら、新たな不安が、黒雲のように湧いてくるのがわかった。


 あの男のつけていた鈴は、ほぼ間違いなく熊よけのものだ。熊よけの鈴を持って歩いているということは、やはりあの立て看板は、ただの脅しではないということになる。過去に実際に熊が目撃されているとか、この山道の付近にまで熊の縄張りが肉薄しているとか、そのような仮説が脳裏をよぎる。


 そして私は、あのような鈴をつけてはいなかった。山道を通るということは事前に把握していたのだが、そこまでは気が回らなかったのだ。

 完全に、山を舐めていた。


 孤独は不安を増幅させる。

 もう随分前から、携帯の電波は圏外になっている。

 外部とのつながりを絶たれるとはこういうことなのだ。

 私はそれを、ひしひしと感じていた。


 せめて、鈴ぐらいは持っておくべきだった。後悔先に立たずだが、そう思わずにはいられない。今ここで熊に遭遇したら、私はそれを避ける術も、対抗する手段も、助けを求める方法も、ともに恐怖と絶望を共有する相手すら持たないのだ。私はひたひたと忍び寄る「悪い予感」を打ち払い、ただひたすらに先を急いだ。茂みの狭い獣道を抜ければ、湿原に敷かれた木道に出る。そこまで来れば安心だろう。


 もう何分歩いたか、疲労感が爪先からじわじわと登ってくる。

 最後に立て看板で地図を見てから、もう随分時間が経っている。

 自分が地図上でどこにいるのか、どれくらい歩いたか、皆目検討もつかない。

 左右には木々の天蓋が、まるでこちらを見下ろすかのように枝葉を伸ばしている。こうも疲れてしまっては、もはや危険から走って逃げることすら叶わないだろう。その中を私は、ただがむしゃらに歩いていた。


 私は人生で初めて、本物の恐怖の味を噛み締めていた。

 もちろん、生きていれば怖いことなどいくらでもある。親に怒られるのは怖いし、道を歩いていれば交通事故の危険もある。特に私は、地震が苦手だ。震度四以上の揺れに遭うと、恐怖で正常な判断がつかなくなる。


 しかし、今私が直面している恐怖は、それらとは根本的に異質なものなのだ。


 いかに危険に取り囲まれているとはいえ、私は人間社会の中で生きている。親は私を殺しはしないし、交通事故に遭っても、都会にいれば治療も受けられ、補償も受けられる。地震は恐ろしいが、人に囲まれている限り、お互いに助け合うことができる。

 だが、今の私は、完全に人間社会の外にいるのだ。一人で自然の中に身を置くとは、何一つとしてあてにできないということなのだ。



 ふいに視界が開け、私は目をすがめた。

 目の前には、荒涼とした原野が、果てしなく広がっていた。



 戦場ヶ原。



 かつて男体山の神と、赤城山の神が、それぞれ大蛇と百足に姿を変え、相争ったという湿原。自然も景観も、日本有数の価値を持つというそれはしかし、緑の楽園と呼ぶにはあまりにも無骨で、うつろだった。


 赤茶けた表土は冷たさそうな水で浸され、その上をひなびた下草がどこまでも覆っている。樹木はほとんどなく、ぽつりぽつりと生えているそれも、ごく小さく頼りなげだ。それは古戦場の謂れにふさわしい、来るものを寄せ付けない厳しさを備えていた。


 私は圧倒されていた。

 半径数キロにも届くかという開けた視界の中に、やはり人間は私一人しかいないのだ。

 その事実は、恐怖を域を越え、広漠とした荘厳さでもって私に迫ってくる。空は曇り、目に映るのは原野の薄茶色と、その上の灰色だけである。それを貫くかのように、戦場ヶ原の反対側には、男体山の巨大な山体がそびえる。

 その中にあって私は、大雑把に絵具が載せられたキャンバスに迷い込んだ羽虫のごとく、とるに足りない異物として存在していた。


 目に映る景色はどこまでも冷たく、まるで死んだように、ただそこに横たわっていた。



 あの向こうに、足を踏み入れてみたい。



 そんな衝動が、ふと脳裏をかすめた。

 この展望台の先には、どんな世界が広がっているのだろう。

 真夏の入道雲のように膨れ上がったその思いは、私を原野へと突き動かしていた。


 ふいに背中をつままれ、私は踏み出そうとしていた足を止めた。

 肩越しに振り返り、そして凍りついた。



 板張りの展望台の上、私の目の前には女の子が立っていた。

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