第3話 泉門池
原野を縦貫する通路を抜け、私たちは再び森の中にいた。
戦場ヶ原に出る前の獣道とは違い、今度は同じ森林の中でも、きっちりと木道が敷かれていた。道幅も広く、視界もだいぶいい。
歩きやすく明快な順路に歩調は早まり、程なくして、
『泉門池 0・3キロ先』
の看板が目に飛び込んできた。
私よりだいぶ遅れて、女の子もその看板を発見した。
小さく白茶けた看板は、折り重なる枝葉に完全に擬態していた。「見せる」気があるのか、それすらも疑わしい。
「もう少しだよ」
私は背後を歩く彼女に、励ますように言った。女の子は元気に返事をしただけで、まったくペースを落とさずに歩き続けている。勾配のきつい登り坂に差し掛かって十分以上が経過すると言うのに、彼女は一向に疲れる気配を見せない。むしろ私の方が、後ろから尻を叩かれないよう精一杯に急いでいた。
またしばらく経った頃、女の子が声をあげた。
「水の匂いがする!」
私はぽかんとして彼女を振り返った。
女の子はくりっとした瞳で、こちらを不思議そうに見つめ返している。何かおかしいことを言ったのかと、問いかけるような視線で。
「水の……匂い。水の」
気まずくなって、適当にお茶を濁す。水の匂いというものが存在するのか、私にはわからなかった。ただ、冷たい水の流れる川特有の、清涼感を纏った空気のことを指しているのかも知れなかった。
私たちはしばらく黙ったまま、細い峠道を歩いた。
やがて、森の中にぽっかりと開けた空間が待ち受けていた。空間の一部は小さな土崖になっていて、その麓には、水鳥の遊ぶ清らかな泉があった。澄んだ薄青い水中には
「ここが、泉門池」
私はタオルで汗を拭いながら、丸太をくり抜いたベンチに腰を下ろした。女の子に隣に座るよう促すと、鞄をゆっくりと地面に下ろした。そして、大きく伸びをした。
凝り固まった筋肉が弛緩するのを全身で感じながら、ここまでの道程に思いを馳せる。すでに疲労は限界に達していた。だからこそ、肺一杯に吸い込んだ空気は、どんな絶品の料理よりも美味しく感じられるのだった。今なら、女の子の言うところの「水の匂い」を理解できるような気すらした。
「さてと」
鞄を開け、中身をごそごそとほじくり返した。荷物を全て背負っていたため、肩が痛む。
「お兄さん、何してるの? 探しもの?」
興味津々で覗き込む女の子に、私は言った。
「何言ってる、飯にするぞ。腹が減って仕方がないんだろ?」
季節外れの向日葵が、奥日光の山の中に咲いた。
心なしか、太陽が少しだけ明るくなり、目に映るものが一段階、色鮮やかになったように思えた。
宝石のような双眼を爛々と閃かせ、女の子は身を乗り出した。
「うん! 食べる! お腹すいて死にそうなの!」
彼女はそう言うや否や、ショートパンツのポケットに手を突っ込んだ。中を散々まさぐった挙句、そこから引っこ抜いた手には、小さく光るものが二つ握られていた。
「これ、お礼。案内してくれたぶんと、ご飯のぶん。ほんとに、ありがとうございました」
女の子は礼儀正しく、ぺこりとお辞儀をした。
手に取ってみると、それは熊よけの鈴だった。
「これを……僕に?」
本体の部分は鉄でできており、小ぶりながら重厚感がある。紐の部分はくすんだ赤褐色、ほつれた糸は、紐に織り込まれた膨大な時間の流れを物語っている。錆びかけた鈴は、指の腹に鉄っぽい匂いを移した。
「ありがとう。大事にするよ」
私はそんなことを言って、熊よけの鈴をポケットに仕舞い込んだ。思いがけぬ形で、切望していた品が手に入ったのだ。
人助けはするものだ、私は身にしみてそう感じた。
「ちょっと待ってろ。今、飯を——」
再び鞄に視線を戻す。衣服や充電器のコードをかき分けながら鞄の中を捜索するが、持ってきたコンビニのおにぎりは一向に見つからない。雑多に詰め込んだ荷物が、邪魔で仕方ない。
「……えいやっ」
もはややけくそだった。私は鞄をひっくり返した。下草の上に中身が散乱するのを見てせいせいした。女の子は焦ったように荷物をかき集め始めた。その様子がおかしくて、思わず笑みをこぼした。拾わなくていい、そう言い聞かせて初めて、彼女はベンチに戻った。
荷物の山の中に、ようやく目当てのものは見つかった。
「ほら、好きなのを食べな」
おにぎりを四つ、女の子の目の前に差し出す。彼女はうーん、と唸ると、猟犬さながらの眼光でおにぎりを物色しはじめた。その表情が滑稽で、私は一度ならず二度も笑ってしまった。
「わたし、シャケがいい!」
長いこと逡巡した挙句、彼女が導き出した答えはそれだった。私はそれを手渡すと、自分は昆布の具のものを開けた。二人並んでベンチに座ると、私たちは思い思いに手を合わせた。
「いただきます」
前歯が海苔に当たり、パリッと小気味良い音を奏でた、その瞬間だった。
何の前触れもなく、目の前の世界がぐらり、と傾いた。
私はおにぎりを手に持ったまま、上体が前に倒れていくのを辛うじて感じ取った。
続けて、途方もない疲労感と睡魔が、津波のように押し寄せた。それに抗う猶予すらなく、意識はどんどん睡魔に呑みこまれてゆく。
山道を数時間ぶっ通しで歩き続けたことによる、心身両面での疲労。椅子に座り、ものを食べ、緊張の糸が切れたことで、それらが一気に噴出してきたのだろう。
だが私には、そんなことはどうでもよかった。
ぼやけた視界に地面が迫ってくる。
鈍い衝撃とともに、視界が暗転した。
誰かの叫び声が遠くで聞こえ、あとは何もわからなくなった。
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