39. Hands To Heaven

 陽の光を反射して、青く輝く公園の芝生の上を、あの男の子が駆けていた。

 その先に、見覚えのある人影が見える。

 小柄な女性。

 屈み込んで男の子に目線を合わせ、陽光の中に溶けてしまうそうな笑みを浮かべて、男の子を迎え入れようとしている。

 「ママ!」

 男の子が女性に向けてそう呼びかけた時、僕は、全てを悟った。

 嘘。

 それは、その人なりの、優しさだったのだろう。

 頑なに故郷に背を向けてふらついていた僕を、身軽にさせたかったんだろう。

 そんなことにはこれっぽっちも気付かずに、僕はその人を打ちのめしたのだ。かつて父が、僕や母や兄にそうしたように。

 隠れていた真実が、胸に刺さる。

 啓太や拓郎や美咲、そしてその人が、覆い隠していた真実。

 全ては、僕のために。

 僕の傲慢さを許してくれた、彼らの、想い。

 胸の奥から何かがこみ上げてくる。僕は奥歯を力ませ、必死にそれをこらえた。こらえると同時に、彼らの想いに報いるべきこれからの未来を、覚悟した。

 ―――臆病。

 また、妹の声がする。

 今は否定することのできない妹の叱咤に、いずれ違うと胸を張って言い返せる時が、くるのだろうか。

 いや、言い返さなくてはならない。

 いつか、きっと。

 僕に気付いたその人が、驚いた表情を浮かべている。そして、何かに観念したように、恐る恐る、男の子の手を引いて、こちらへ歩み寄ってくる。

 「サキちゃんに聞いたの?」

 男の子を自分の傍にぐっと引き寄せて、優希が、僕に訊ねた。

 「本当は、黙ってるつもりだったの。あの3人にも、黙っててもらうはずだったの」

 「もう、いいんだ」

 いたずらの見つかった子供のように、すがるような目を向ける優希の言葉を、僕は制した。それでも、優希は続ける。 

 「あの、みんなで潮騒に行った次の日にさ、偶然彼女に会ったの。この子を彼女が見て、坂巻の人かって、言うの。私も彼女の面影が、淳と重なって、あなたもそうなのかって。彼女頷いて、腹違いの妹だって。この子と一緒に、お兄ちゃんの元へ戻ってあげて欲しいって。そう言うの。私そのあと、ちょっと取り乱しちゃって、サキちゃんはこうなったら淳に全部話すって聞かなくて、啓太くんと拓郎くんは止めてくれて、私も、今は淳も大変そうだからやめてって、頼んでたんだけど・・・」

 抱きしめた。

 うろたえて、口早に、支離滅裂に言葉を並べる優希を、ただ、抱きしめた。

 ―――生きていてあげてください。

 その意味が、今、わかる。

 彼女の残した『あげて』が、誰を指したものなのか、僕が、誰に向けるべきだったのか、今、わかる。

 途端に、いろんなものが僕の中になだれ込んできた。腕に感じる確かな優希のぬくもりから、いろいろなものが、次々と。

 僕の子を生み、僕を束縛させないが為に、独りでこの子をここまで育てた優希の、抱えてきたであろう孤独が、僕の胸に染みてくる。

 自分の愚かさが憎かった。

 悔しくて、胸が震えて、いつのまにか、頬がぬれていた。

 「ごめん」

 震えそうになる声を必死に抑えて、絞り出すように、言った。

 「ごめんな」

 もう一度、繰り返す。

 今度は、語尾が震えで歪んだ。

 途端に、優希が嗚咽を漏らした。

 「我慢できると思ったんだけどな。でも、駄目だね。淳の顔見たら、もう、なんだか・・・」

 「ごめん、でも、もうだいじょうぶ。だいじょうぶだ」

 優希を抱きしめる手に、力を込める。

 僕の背に回された優希の腕も、更に僕を強く引き寄せるのがわかった。

 ふと、腿の辺りを叩かれる。

 涙でぼやけた視界の向こう側で、男の子が僕の脚をしきりに叩いている。きっと、母親を泣かせている悪い男ように見えるのだろう。

 その通りだ、今までは。

 でも、これからは違う。

 孤独で刻まれた優希やこの子の傷を癒せるのに、どのくらい時間が掛かるかはわからない。でも、いつか、きっと。

 少し屈んで、男の子ごと、二人を抱いた。僕の腕の中で必死にもがく男の子を、宥めるように、それでも、力強く。

 潮のにおいがする。

 穏やかな海風に乗って、故郷の匂いが、僕らを包む。

 『そういうカタチも、ありなのかもね』

 遠くで砕ける波の音に、妹の声が重なる。

 君の選んだカタチも、ありなんだろうな、と胸の中で答える。

 悲しくて、痛くて、でも、純粋だった。

 かたくなで、でも、いや、だから、眩しかった。

 目を開けていられないほどに、君は、本当に、眩しかったんだ。

 ふと思う。

 美咲の店を通り過ぎた時に蘇った、妹の言葉。

 臆病。

 彼女が、僕を引き寄せてくれたのだ。

 優希と、僕の子の元へ。

 きっと、彼女が。

 片手を、空へかざした。

 妹も一緒に、抱き寄せられるような気がした。

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