31. Confession
次の朝、早くに僕は家を出た。
既に起きて台所に立っていた母に気付かれぬよう、しずしずと階段を降り、物音が立たないように玄関の扉を閉めて、拓郎のバイクに跨った。
どこか、急せいている気持ちがあった。とにかく、ジーパンのポケットに捻じ込んでいた父の遺骨を、早く彼女に渡してしまいたかった。
拓郎のバイクで、街道を北へと向かう。
薄く靄のかかった街道には、潮と新緑の入り混じった匂いがゆらゆらと漂っていて、それをヘルメット越しに大きく吸い込むと、昨日の夜から淀んでしまっていた胸の奥が、ほんの少しだけ、宥められた気がした。
昨日は、殆ど眠れなかった。
過去にも、眠れない夜はあったけれど、どこか違う感触がした。
深夜の台所で母の震える背を目の当たりにして、初めて父を憎むようなったあの夜も、やはり僕は眠れなかった。でも、そのときは何かが少し、違った。
興奮も無く、ささくれ立った感情も無かった。ただただ、鈍く重い鉛のような異物感が、胸の中に横たわっていて、僕を熟睡させてくれなかった。
拓郎の家の前へ続く路地へ入ったところで、家の前に二つ、人影が見えた。うちひとつは、バイクに跨っている。はっきりと認識できる距離まで近寄る以前に、それが拓郎と啓太であることがわかった。
二人の傍まで寄って、バイクを停める。
「どうしたんだよ、朝っぱらから」
無理をして、垢抜けた声を出しながらヘルメットを脱いだ時、初めて、もう一人、小さな子供が拓郎の傍らにいることに気付いた。小学生の、高学年には少し足りないくらいに見えるその男の子は、僕と目が合うとすっと視線を脇へ逸らし、拓郎の陰に隠れるように身を引いた。
「どうしたの?その子」
僕が聞くと、拓郎は何故か、ぎこちない笑みを返す。
「知り合いの子。ちょっと今日な、預かることになって」
「なんだよ、お前の子供とかじゃないのか?本当は」
「違うよ、バカ」
言ったのは、啓太だった。おどける僕とは反対の、どこか棘のある啓太の声に、僕は思わず萎縮してしまった。
「じゃあ、そういう事で、そっちは頼むな」
啓太は拓郎に向かって言うと、バイクのエンジンをかけた。
「お前、夜、漁で寝てないんだろ?大丈夫かよ」
排気音にかき消されないように、張った声で拓郎が言う。
「今夜は休むから、大丈夫」
ヘルメットを被りながら、くぐもった声で拓郎にそう返すと、啓太は小さくタイヤを鳴らして、まるで逃げるように走り去った。どこか、そっけなさを感じさせる去り方だった。
「何かあったのか?」
啓太の姿が見えなくなってから、拓郎に尋ねた。拓郎はやはり、頬を引き攣らせた不自然な笑みを向けて、「ちょっとな」と曖昧に返すだけだった。
二人の漂わせていた違和感を、その時の僕は、全く気にかけていなかった。そんなことより、早く彼女に父の遺骨を手渡したい、急いた気持ちでいっぱいだった。
「彼女、居るのか?」
男の子の手を取って玄関に向かった拓郎の背に尋ねた。拓郎は振り向かずに、ビーチのある方角を指差した。
「また海に行ってるよ。よっぽど好きなんだな」
「判った」
僕は踵を返し、ビーチへと向かった。ビーチの方向へ振り向いたその時、背中に妙なざわつきを覚えたけれど、無視して、そのまま駆け出した。
彼女は、ビーチを囲う防波堤の先端にいた。脚を外洋に投げ出して腰を下ろし、朝陽をきらきらと反射させる海にまなざしを向けていた。昨日とは対照的な白いワンピースが、眩しい海と空の青に溶けそうな程に淡かった。僕に気付くと彼女は、おどけたように敬礼のポーズを取って、笑みを投げた。
今時それはないだろう、と思う。
レトロで使い古された、そんなしぐさが自分のことのように気恥ずかしく感じる。でも、水面に反射した朝陽を受けて妙に輝いて見える彼女の笑顔は、恥ずかしさも何もかも、すぐに帳消しにしてしまう。本当に、不思議な人だ。
「もしかして、もう持ってきてくれたの?」
再び水面にまなざしを戻し、彼女が言った。
頷きかけて、思い留まる。
納得しきれない思いが、僕を制した。
この、父の遺骨を渡して、本当に彼女は救われるのだろうか。
不意にそんな疑問が沸いた。
何故ここまでして彼女は、これを欲しがるのか。兄や母に疎まれてまで。この島に、足を運んでまで。
判らない。きっと彼女にしか、本当のことは。
だから、尋ねた。
「君は何でそんなに、親父の骨を欲しがるんだ。こんなもの、君にとって何の意味があるんだ。どうやったって、親父は帰ってこないし、君はまだ若いし、こんなもの持ってたって、未練が残るだけじゃないか」
何故か、まくし立てるような口調になってしまって、途中で、自分で自分がわからなくなった。何でこんなに僕は、何にこんなに僕は、必死になっているんだ?それも、唐突に。
自分の今の感情の意図や向かっている方向が、自分でも、理解できなかった。
彼女はそんな僕に対して、何もかもを見透かしたようにも、気にもかけていないようにもとれる一瞥を投げて、でもすぐに海へと視線を戻し、唇の端を緩ませたまま、言った。
「いつか、あなたのお母さんが死んでしまったら、あなたのお母さんはあの人と同じお墓に入るでしょう?」
唐突に、縁起でもないことをさらりと彼女は口にした。僕は急に現実に引き戻されたような気分になって、我に帰ると同時に少しいらだって、少し怒気を篭めた視線を、彼女に向ける。
「当たり前だろう」
「何で?」すかさず、彼女は返す。
「何でって、夫婦だから」
「夫婦って、何?」
思わず、言葉に詰まる。
「紙切れで契約を交わしたから、夫婦?」
「それだけじゃない」引き攣る口調で、何とかそれだけを返す。
「じゃあ他に何があるの?」彼女はひるまない。
そして、堤防が砕けて水が溢れ出すように、僕は、言った。
「家族だよ。俺がいて、兄貴がいて、親父と母さんだけじゃない。家族がいるから、例えば君と親父の間だけの話じゃなくて、俺たちがいるから、だから、夫婦なんだよ。家族なんだ。血のつながりのないもの同士が、新たに生まれた血で、血を繋がれる。そういうものだと、思う」
出だしは、尖った声色になった。むきになった。むきになって、今まで自分が胸のうちで否定していたことを、勢いで認めてしまった。言いながらそれに気付いて、思わず、自爆したみたいに、勝手に興奮して、勝手に、意気消沈していった。みっともなかった。
「じゃあ、子供がいなければ、ニセモノなのかな?」
それでも彼女は、笑みながらも、容赦してくれない。
「それは―――違う」
彼女の境遇を思う前に、不意に、優希の顔が、脳裏に浮かんだ。浮かべながら、続けた。
「子供がいないとか、出来なかったとか、そういう負い目みたいなものが、なおさら強固な絆を作ることも、たぶん、あるんだ」
あの砂浜での、優希に対して抱いた衝動を思い返した。
僕の罪悪感と弱さが、抑え込んだあの衝動。
本当に身勝手で、最低な想いかもしれない。でも、どうやったって、僕は僕の気持ちを、否定できない。
あの時僕は、優希に、確かに、目に見えない絆を感じていた。
弱さと臆病さの向こうで、愛おしさを、感じていた。
今、気づいた。気づく事ができた。
許されることではないと分かっている。でも、願わくば、優希もそんな想いを抱いていて欲しい。そう強く求める、自分がいた。
そんな自儘な僕の言葉を、胸に秘めた想いを、意外にも彼女は、笑みを深くして、受け止めた。受け止めて、くれた。
「うん、そうだね」
そう、返す。
穏やかで、やさしい口調だった。そして僕をを見て、笑んで、続けた。
「そういう絆って、ぜったい、あると思う。だから、私はその当たり前のことを、死んじゃった私のママにも、あたしと同じようにあの人を愛して、あたしを産んだママにも、してあげたいだけなの」
目を見開いた。
見開いて、彼女を見た。
そして、後の句を継げない。
継げないまま、口に湧いて出た、唾液を飲み込んだ。
喉が、ごくりと鳴った。
彼女の発した言葉の意味を、最初は、理解できないのだと思った。でも、違う。違った。理解できないんじゃない。理解しようとしていない。いや、理解できていることを、必死に、理解できていないことに仕立てようとしている。誤魔化そうとしている。
混乱した。
その混乱を更に際立たせようとしたのか、納めようとしたのか、続けて、彼女は言った。今度は、一語一語をかみ締めるように。
「あたしには、どっちもあるんだ。血のつながりも、目に見えない絆も。だから私も、そして私のママも家族で、それなら、いいでしょう?ほんのひとかけら、死んじゃったママの骨の傍らに、あたしの骨の傍に、あの人の骨が添えられても。ねえ、いいよね?」
いつのまにか彼女の目は、赤く充血して、潤んでいた。
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