16. A Drawing
その部屋の壁に立てかけられた絵を見たとき、背後で気配を感じて思わず振り向いた。
誰もいない。
再び視線を絵に戻す。
間違いない。
―――父の絵だった。
テラスで倒れていた彼女は、もう一人の宿泊者だと拓郎が言った。
テラスにある木製のテーブルの上に転がっていた、3本の空のワインボトルが物語るように、彼女は飲みすぎて、酔い潰れ、寝てしまっているようだった。何が彼女をそこまで酔わせたのかなんて、もちろん判らない。ただ、彼女は少し荒っぽい寝息を立ててはいるものの、どうやら深刻な状況ではない、ということだけは、判った。
拓郎と二人で彼女の泊まる部屋に彼女を運び込み、ベッドに寝かせてふと壁際に目をやった時だった。
その絵を、見つけた。
きらびやかでいて毒々しい、夜の都会の喧騒の中で、こちらに背を向けて佇む、幼い少女を描いたものだった。
豪快、というより、乱暴な筆遣い。まるで殴りつけたように、キャンパスに塗り付けられた油絵の具。一見雑に見える仕上がりの端々に、絶妙なタッチが散りばめられていて、それがどうにか絵としての体裁を最低限のところで保っている。
間違いない。父の業だ。その絵を見た記憶は無い。初めて目にする作品だった。でも判る。悔しいが、判ってしまう。これを描いたのは、父だ。
「その絵、もしかして親父さんが描いたやつなのか?」
引きずりこまれた僕の意識を、拓郎の声が現実に連れ戻した。まるで深い夢の中から無理やり引っ張り出される時の、ばりばりと引き剥がされる痛みに似た感触が、胸に残った。
「多分」
短く、擦れた声でそう返した。意識は離れても、視線は、絵に縛り付けられたままだった。
「別に隠すつもりはなかったんだけど」と前置きして、拓郎が遠慮がちに言う。「宿の予約の電話があったとき、言ってたんだ。彼女、お前の親父さんのファンだ、って」
父の―――僕は反射的に拓郎を見た。いたずらをしかられた子供のように顔を僅かにゆがめる拓郎を見て、すぐにベッドに横たわる彼女を一瞥し、もう一度、父の絵に視線を戻した。
『どこまでを人殺しというのかな』
父が、そして彼女があの岬で漏らした言葉が、耳の裏側の、ずっと深いところで、響く。
彼女は父を知っているのだろうか。彼女が拓郎に言ったように、単純に画家とファンという一方的な関係ではなく、もっと双方向的な関係が、父と彼女との間にあったのだろうか。どこかで、父はあの時僕に呟いたように、その言葉を他の誰かにも言い漏らしていて、彼女の耳に届いたことがあるのだろうか。真相は判らないが、きっとそうだ、と思うことで、胸の中の靄がほんの少しだけ、晴れた気がした。
でも―――
だったら、どんな関係?
新たな疑問が沸く。
彼女の纏った艶。
陽の指す方向へ背を向けて、どこか翳りのある、後ろめたさと開き直りを共有した、夜の香りのする彼女の艶を、思った。その思いが父の、女性に対する悪癖と重なって、考えたくもない、もしかしたら沸いた疑問に対する答えかもしれない予感が、頭を過ぎり、慌てて、打ち消した。
「出ようか」
逃げ出したくなった。
次々に沸いてくる想像を頭の外に追い出したくて、この絵と彼女の寝息から離れなければ、きっと開放されないと思って、背を向けたまま拓郎に言った。
拓郎が先に部屋を出て行く気配を背中に感じながら、父の絵から視線を逸らす。逸らした先に、ベッドに横たわる彼女の姿があった。閉じていたはずの彼女の目が、開いていた。驚いて、僕は身を引くようにびくりと体を震わせた。
「坂巻剛を殺したのは、あたしだよ」
眠気でくぐもって、酔いで揺れた曖昧な輪郭で、彼女の声は僕に届いた。でも、ぼやけてたはずのその声は、僕の頭の中ではなぜか、これ以上ないほどにクリアに響いた。
混乱した。その混乱が怖かった。だから、彼女の言っていることの意味から、無理やり思考を逸らした。理解するとかしないとか以前に、僕は反射的に、聞こえていない振りをした。とりあえず、今、このタイミングで、あれこれと考えたくなかった。彼女の瞳から視線を外し、彼女に背を向けた。部屋を出た。
「ほんと、だよ」
背中にぶつかる彼女の声を掻き消すように、僕は後ろ手にドアを閉めた。
閉めた扉の前で、しばらく立ち止まった。
心臓が強く、不規則なリズムで脈打っていた。
彼女が父の好きだった岬にいた。
父と同じ言葉を口にした。
父のファンだと拓郎に告げていた。
父の絵を持っていた。
必然と偶然の境界が僕の中で曖昧になっていく。その裏にあるであろう僕の知らない事実が、見え隠れする。でも、僕の頭の中でそれは、はっきりと実態を象る前に、風に乱される薄い煙のように消し去られてしまう。いや、僕自身が消しているのかも、知れない。きっと判らないわけじゃない。無意識に、予測できる様々な事を、象られるべき予感を、僕自身が拒絶しているからなんだろう―――きっと。
息苦しい。
胸が痛い。
その痛みから逃げ出すように、僕は彼女の部屋を離れた。
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