15. At The Eaves
僕が拓郎の家の前に着いた時にちょうど、拓郎の乗ったタクシーも玄関先に停まった。タクシーを降りた拓郎は、自分より先に戻っているはずの僕が今帰ったことに、最初は訝しそうな表情を浮かべ、すぐに、悟ったように口元を緩めた。緩めたが、その笑みはどちらかと言うと、苦笑に近かった。
「話、聞いてきたんだな、優希に」
なんとなく、さりげなく、拓郎は視線を逸らしながら言った。
「うん」
僕の返した返事は、遠くで鳴る波の砕ける僅かな振動にすら、かき消されそうなほどに弱々しく、か細かった。拓郎の反応が、少し怖かったからかもしれない。
若気の至り。
そんな都合のいい言葉ではごまかせないほど、僕が優希の元を去ったことは酷かったと、今は思う。それは判る。判るから、何も言い返せない自分の立ち位置が、もどかしくて、苛立たしい。
「―――まあ、二人の問題だからな」
本音のところでは、本当は、少し言い足りないというような湿り気を、声色にほんの少し滲ませて、でも言葉を切って、拓郎は僕を見た。
見据えた。
夜の闇の中でおぼろげに浮かぶ目の奥の光が、淀んでいた。
そう、見えた。
責められると思った。責められて然り、と思っていた。怖がりながらも、覚悟はできていた。だからなのか、肩の力の抜けた、どこか投げやりで諦めの篭った拓郎の言葉のほうが、僕の胸を鈍く疼かせた。まくし立てられたほうがまだましだったと、下唇を軽く噛んだ。
「もう少し、飲むか?」
今度は少し軽い調子で、拓郎が言う。それで救われた気分になった自分が、情けなかった。ああ、と返した僕の声も、さっきよりはいくらか生気が篭っていて、それも、情けなくて、悔しかった。僕はまた、留めて、受け止めておかなければならない何かを、先送りにしてるんじゃないか?沸いた疑問から、思考を逸らした僕の弱さも、やっぱり、情けなく思えた。
内側で膨らむ情けなさを振り切るように、玄関に向けて踵を返した時、ふと気付いた。
建て直された洋館は、夕方に立ち去ったときよりも、さらにひと気を感じさせない。この家の主であるはずの、拓郎の母親の気配が無いのだ。おぼろげに光っていた二階の一番奥の窓も、今は闇の中に溶けている。
「おばさん、留守なのか?」
頭の中であれこれと想像する前に、反射的に聞いていた。聞いた後で、もしや、という思いが浮かんできた。
―――悪い予感。それは、的中した。
「おふくろ、死んだんだよ」
「え?」
拓郎の声があまりにも軽くて、薄っぺらくて、すぐにはその意味を飲み込めなかった。聞き返した僕に笑みを返す拓郎の顔を見ていたら、ようやく、じわじわとその事実が僕の胸の中に染みていった。
「そう、だったのか・・・」
語尾が暗く沈む。
言葉が継げない僕を見て、拓郎は今度は、声に出して笑った。
「そんな縮こまるなよ。もう4年前の事だし、今更しんみりする時期でもないしよ」
強がってるふうでは無かった。拓郎の中では、しっかりと踏ん切りがついているのだと、無理をしているわけでもない口調で判った。でも、唐突にその事実を突きつけられた僕には、拓郎の真似はできない。
僕が知っていた、昔の、拓郎の母親のことを思った。
拓郎にだけじゃなく、拓郎の家を溜まり場にしていた啓太や僕に対しても、良い言い方をすればやさしい、別の意味では甘い人、だった。仕事場である自分の宿に屯す僕らに、本当に本心から、嫌味のひとつも言わない人だった。いつも一歩引いたところから僕らを眺め、いつも笑んでいるだけの人だった。今はもう見ることのできない、記憶の中にあるその笑みが胸に染みて、目の裏側がにわかに熱くなった。
「どうして―――」死んじゃったの?とは続けられなかった。
「癌だよ。倒れた時には手遅れでさ。看護とか介護とかいうもんを覚悟する前に、もう、ほんとに、あっさりだったよ」
言って、拓郎は笑う。決して乾いてはいない、かといって湿っぽすぎない笑みだった。今はいない母親に向けて、そんな笑い方ができる拓郎が、少しうらやましかった。
―――僕は?
例えば父に、そんなふうに笑いかけられるのだろうか。
無理だよ、と胸のずっと奥のほうから、拓郎の声とはまるで反対の、僕自身の乾いた声が聞こえた。
「だからしんみりするなってよ。飲もうぜ、な」
拓郎は、僕の纏った沈み込んだ空気を振り払うように、明るく、軽やかに言って、僕の肩を叩き、玄関口に向かった。向かってすぐ、足を止めた。
「どうした?」
拓郎の背中に向かって、聞く。
「人だ。倒れてる」
そう言うと同時に、拓郎は玄関脇をすり抜け、海側に向いて建てられたテラスへと駆け出した。
「お、おい・・・」
慌てて、僕もその後を追う。
拓郎が駆け寄る先に、確かに人影があった。椅子から転げ落ちたように、テラスの木目張りの床の上に、人影が横たわっていた。
「大丈夫か?」
拓郎が人影を抱え上げる。その腕の脇から、顔を覗き込んだ。
拓郎の胸から零れるように垂れ下がった長い髪の隙間から、顔が見えた。
彼女、だった。
フェリーの上や、父の好きだった岬で会った、あの、彼女だった。
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