3. The Past - Father 2 -


 中学3年の夏。

 夏休みも終わりにさしかかった日の、朝早く、一人の女が家を訪れた。

 乱暴に叩かれる玄関のドアの軋む音で、僕と、夏休みで本土にある高校の宿舎から帰郷していた兄は、飛び起きた。

 粘っこい夏の朝の湿気を切り裂くような、木の軋む鈍い音と、僅かな振動。

 いつやむとも知れないその音に、2階の、隣り合わせた兄と僕のそれぞれの部屋の窓から、僕たちは真下にある玄関をのぞき見た。

 女が、いた。

 ヒステリックに家のドアを叩く女が、そこに立っていた。

 明るく染め上げた髪。黒い、肩を露にしたキャミソール。島に訪れた若い海水浴客の一人だろうと、僕は思った。でもそんな女が、観光客向けの海水浴場からは離れた僕たちの家を、訪れる理由は判らなかった。

 慌てて玄関口に出た母が、興奮気味な女を宥めるように家に招きいれた時、妙な不安感が唐突に湧いた。

 危機感、と言ってもいい。

 母を守らなければ、という衝動が、僕を駆り立てた。気付いた時には部屋を飛び出して、玄関脇へと下る階段へと走っていた。兄も、同じタイミングで。

 二人で競うように階段を駆け下りようとした時、下から母が僕らを見上げて無言で制した。口元に薄く笑みを浮かべ、大丈夫、と言葉に出さないまま僕らに語りかけていた。

 その隣に立つ女は母とは対照的に、階段半ばで固まる僕らを、睨めるように見ていた。

 殺気を感じた。

 直接的に僕らにではなく、母にでもなく、ここにいないだれかに向けた、殺気。

 同時に、その殺気を向けるべき存在に縋るような、どこか矛盾した歪な感情も、女の形相から漏れていた。


 それから暫く、女の叫ぶような嘆きと罵声と嗚咽が、階下から交互に聞こえてきた。

 何と言っているのかはっきりとは判らない。でも聞こえるたびに、窓際の勉強机に座り、部屋のドアに向けていた僕の背中がひりひりと疼いた。

 何度も、振り向いて部屋から飛び出して、母の元へ駆け寄ろうという衝動が湧いた。が、必死に抑えた。母はきっとそれを望まないと、なんとなく、感じていたから。

 昼をすぎた頃、ようやく女は帰っていった。

 僕と兄はそれぞれの部屋の窓から、飛び交う蝉の声に押しつぶされてしまいそうな華奢な女の背を、その姿が見えなくなるまで眺めていた。玄関口で、女を見送っていた母も、同じ様に女の背を目で追っていた。

 ふと僕たちに気付いた母が顔を上げる。気配でそれを察し、僕たちも母を見下ろすと、僕たちを階段で制したときと同じ薄い笑みが、母の顔に張り付いていた。何故か僕は、母のその優しげな笑みに、ぞっとした。

 「あれは、親父の浮気相手だ。」

 母が家に入ってから、窓越しに兄が言った。浮気、という言葉の意味は判っても、それが本当にどういうことなのか、実感は無かった。頭の奥のほうの、どす黒い紫色をした暗闇の片隅に、その言葉が不意に浮いてきて、思わず思考を逸らした。その言葉について、あれこれと考えてはいけない気がした。

 「あいつ、東京にああいう女をいっぱい囲ってるんだ。俺たちをこの島に縛り付けて、見えないところで好き勝手やってんだ」

 階下の母に悟られぬよう、蝉の鳴き声にかき消されそうなほどか細い声で、兄が言った。でも、語気は強かった。兄の憤りが、そこかしこから漏れ落ちていた。

 僕にとって兄の語る言葉の意味は、その時はまだ、淡い膜のようなものに覆われていて、僕の頭の中ではっきりとした輪郭を描くことはなかった。


 その日の深夜、トイレにたった僕が階下に下りると、リビングの灯りが廊下に零れ落ちていた。時間が時間だけに不思議に思い、そっと覗くと、ダイニングテーブルに腰掛ける母の背中があった。小刻みに震えていた。暫くして、ああ、泣いているのだ、と判った。

 時折漏れる小さな嗚咽。そのたびに母の背は、ぴくっと小さく跳ねた。

 脳裏に、昼間僕たちに向けていたあの母の笑みが浮かんだ。

 とりつくろうとか、兄と僕の前では毅然としていようとかいう類の、笑みじゃなかったと、僕はおぼろげに思った。何かに失望して、もう笑う以外ない。そんな、自棄を含んだ笑み。

 あれは、親父の浮気相手だ。

 兄の言葉が耳の裏側で甦る。

 つくりものの世界でしか触れた事のない、言葉。

 やはり、実感は湧かなかった。

 そんな言葉よりも、僕にとっては目の前の、震える母の背中のほうがとてつもなく生々しく、リアルで、それは僕の胸の奥を鷲掴みにして、容赦なく掻き回した。それまでは大人しかった、あの胸の中の靄のような異物感が、ぐるぐると激しく蠢きだし、痛かった。

 その生々しさから目を逸らしたかった。

 痛みから、逃げたかった。

 父を憎むことでそれができるのだと、しばらくしてから、知った。


 「帰ってきて。お願い。最後に一度だけ、お父さんに声をかけてあげて」

 嗚咽交じりに受話器からもれてくる母の言葉に、暫くのあいだ、僕は何も返せなかった。

この人はこの期に及んでまだ、家族という、僕らにとっては、はりぼてでしかない絆にすがりつこうとしている。そんなもの、とうの昔に、父が壊してしまったのに。

 残骸になってもそこにしがみつく母を、哀れだと思った。そしてそう思ってしまう自分と、そう思わせる母の両方に、苛立った。

 「わかった、帰るよ」

 ようやくそれだけ言って、受話器を置いた。

 置いた後の部屋の静けさが、やけに重かった。

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