第1話 TODO
第1話 TODO
乾いた紙を
身体の部位が地面を
地面を
察するに、吸盤、体毛、肉球といった柔軟な部位を
今も奴は背後から
ひとつひとつの音は無造作で、乱雑であるかにも思える。
だがそれらは止まる事も無く、カサカサと耳障りな環境音を形作っている。
その一連の流れが走行というひとつの振る舞いに繋がっているのだ。
全容として、
壊れた機械が
逃げている時間は決して短くはない。
しかし、未だに奴がこちらを見失う様子はなかった。
何とか振り切ろうと試みてはいる。
だが如何なる工夫もあざ笑うかのように、どうにも上手くいかない。
その手法を考え、実行に移したのも、一度や二度ではないというのに。
自分の背丈ほどの
奴はなんと、速度も落とさずに壁面を走行してきたのだ。
あれが壁に張り付いて移動するとは思えない。
だが現に、物理的な障害物は奴に対してほとんど役割を果たしていない。
断続的な足音だけで、跳躍や着地に伴う音も聞こえなかった。
身体的特徴に依存しない特殊な移動方法を備えているのだろうか。
どのような方法か、まるで予想も付かないけれど。
自分だけが見えない
救いと言えば、追いかけて来ているのが奴単体であることくらいだろうか。
ここまで自分を今まで延々と追いかけて来ているのが同一の個体であるという事実は疑うべくもないし、同種の存在はこれまで他に一切見かけていない。
追跡速度に緩急をつけて行く手に先回りしてくるような高度な知的行動こそ無いものの、付かず離れずの距離が保たれていることから、回り道や障害物の類が有効性に乏しいことは分かっている。
直進だけでなく狭い建物の隙間を
まるで壁越しであってもこちらが見えているかのような追跡力である。おそらく物陰に隠れてやり過ごすことなどできないだろう。
思考を巡らせる。
匂いや二酸化炭素を感知しているのか。
音、もしくは
温度センサーのような感覚器官を有する生物もいないわけでは無い。
奴がそういった目に見えないものを感知しているのは間違いない。
現時点の距離でこちらを認識しているなら、感覚器官の精度は高い。
もっとも、現状では何を感知しているのかは予想も付かない。
生物の外観を見ただけでどんな感覚器官を持つかなんて分かるはずもない。
色々と試して精査する余裕だって無いというのに。
観察のためには互いの保全は前提条件だろう。
だから物理的な隔離というのは重要なことだ。
何らかの危険性を備えた生物であれば完全隔離も必要かもしれない。
いや物理的に完全隔離したら光学的に視認できないのか。
少しばかり思考が
むしろ今の自分には精神的な余裕こそが必要だとも考えられる。
ちなみに精神的な余裕を欲する理由は、奴の外見的な特徴にある。
チラリと見える――見えてしまう――楕円形の、黒光りする
胴体全体を覆う
むしろ緩やかな揺らめきを見せる光沢は、正体不明の油や分泌された体液などの不衛生な物質が由来であることを想起させ、その動きに伴う不規則な音と
ちょっと見ただけの大まかな外観だから、具体的に言語化するのは難しい。
強いて言うなら『G』などの隠語で呼ばれる『あの生物』の印象だろうか。
ちなみに『あの生物』は屋内にのみ生息しているわけではない。
亜種を含めば、屋内外を問わずありとあらゆる水場周辺に分布する。
適応環境は広く、人類生活圏のほぼ全域を内包していると言っても良い。
だから、こうして街の中にいること自体は何も不自然なことではない。
だが個人的見解を述べるなら、奴は違う。
端的に言うなら『規格外』。その一言に尽きる。
断言しても良いが、奴は『あの生物』ではない。
少なくとも『あの生物』の系統に連なる生物とは考え難い。
亜種として想定できる範囲をどれほど広げても奴そのものには繋がらない。
あれがまともな生物の系譜から誕生してきたはずが無い。
なにしろ
あの
ヤバイ。超ヤバイ。縮尺がおかしい。
まず最初に自分の視力を疑うレベルだった。
ちなみに周囲の物で視力を確認した後、自分の正気を疑った。
もう一目で分かるほど尋常ではない大きさだ。
この大きさにまで育つような『G』なんて存在しない。
交雑や突然変異どころか遺伝子改造でも作り出せるかどうか怪しい。
少なくとも、どれだけ捕食と脱皮を繰り返しても昆虫はここまで成長肥大しない。
酸素濃度だとか自重を支える脊椎の有無とか、物理的かつ身体構造上の問題がある。
まともに動くことさえできないはずの存在がまともに動いている。
つまり比喩表現ではなく、正真正銘のバケモノということだ。
もっとも自分の知識が間違っていなければ、という前提はあるけれど。
実は惑星外外来生物なのだとか紹介されたほうが、まだ理解できる。
たとえ理解できても、対処に困るという部分は変わらないけど。
現実が突然SFになりましたなんて言われても困るだけだし。
なにゆえ現実はかくも
そういう事案は、普通に
回想を経由して脱線しそうになった思考を戻す。
そして気が付く。
この余裕は
バケモノは体躯の大きさのわりに、移動速度が遅すぎる気がする。
もしかすると何かの錯覚で、目測が誤っていただけなのか。
気になって、走り続けつつも横目に後ろの状況を確認する。
改めて観察してみたが、やはり相変わらずのバケモノ的な大きさである。
大きさに関しては勘違いなどではないことが分かったのと同時に、先に感じた疑問も解消した。
単に、バケモノの脚部の大きさの問題だったのだ。
胴体と比較して、それを支えるための脚部が小さい。
小さ過ぎる脚部を、数で
その足の本数は、ざっと見えた分だけでも、両手両足の指の本数に余る。
自分の指が二倍か三倍に増えたとしても、数え切れそうにはない。
それらが
おそらく、じっくりと観察すれば数える事も不可能ではない。
不可能ではないが、あくまで不可能では無いだけだ。数えている最中に相手が動かなければという条件が付く。
もっとも、何かの拍子でバケモノが立ち止まったとしても、わざわざ足の本数を数えたいわけでもないけれど。こういった異常なものから逃げないのは、よほど好奇心旺盛な人物か、奇特な性質の持ち主だけだろう。
追いかけられたら逃げたくなる、あるいは異常なものを避けようとする心理の働きは、人間としての生存戦略的な性質だ。だから自分も逃げているわけだし。
ともかく、バケモノの足の本数など数えはじめるような事態にはならない。それはそれで、何故そんな発想が出てきたのかという話になるわけだけれども。
ああ、うん。
思ったよりも落ち着いているね。
改めて精神の安定を図る必要もなさそうだ。
これは恐慌による思考停止ではない。自分で自分の思考の流れが読めないのは確かだ。空想癖があるか、想像力が強すぎるのかもしれない。冷静であることと、精神を十全に制御できることは等しくはないのだろう。
丸くて平べったい胴体、そして独特の色合いから、最初はGのつくあの生物かその仲間だと
ムカデやダンゴムシにしては足が速くて脅威だという言い換えもできる。
いや、そもそも形状を見る限りでは外骨格特有の間接部が無い。
そういう意味では節足動物に属する生物ではないような気もする。
むしろ軟体動物に近いのだろうか。
いや、まあ、それにしては、足音から察するに体表は硬そうなのだけれども。
知識に照らし合わせてゆくほど何に分類していいのかよく分からなくなる。
独立した分類が必要になるのかもしれない。
バケモノに関する生物学的な理解を深めるには、自分の知識では足りないのか。
いや、別に、バケモノに対する理解を深めたいわけじゃないんだけど。
……また思考が逸れた。
今は対処法を考えるべき
生物学的な見地からバケモノを考察したかったわけではない。
いや、観察をもとに対策を考える手段もあるか。
相手の身体的特徴から対応策が見出せないだろうか。
先にも気が付いたように、バケモノは足が短い。
足が短いわりに、こちらが歩くよりは速い。
ただしこちらが全力疾走で逃げる必要があるほどでもない。
微妙に追いつかれそうな絶妙な速度である。
これは潜在的に厄介な性質なのではないかと危惧を感じ始めている。
一定のペースで走って逃げ続ければ、追い付かれる事こそ無い。
だから、ある程度の距離を引き離すと油断してしまいがちになる。
ゆっくり歩いたり、のんびり休憩でもしようものならば、必ず追いついてきてしまうだろう。どれだけ距離が離れても、何故かこちらを見失うことだけは無かった。親の仇でもここまで執念深く追わないのではないかと思う。どれだけ美味そうなエサだと認識されているのだろうか。
まさか、時間をかけて自分を追い詰めて苦しめるために生まれてきた存在だ、なんて事はないだろうけど、そういう変な勘ぐりをしてしまいたくもなってしまう程度には追いかけっこが続いているのも事実だったりする。
ただ、こうして考えてみると、速度そのものは脅威ではないのかもしれない。
このバケモノの
このバケモノが
異常な大きさを備えている割に、こちらの走行速度よりも遅い。
甲羅や外骨格を持たず、周辺の環境に合わせた保護色でもない。
そんな存在にも関わらず、群れで行動しているわけでも無い。
地面の
走行速度といい、大きさといい、肉食の鳥やら獣やらにとっては食べがいのあるたんぱく質であってもおかしくないように思えてくる。
生物の種類が爆発的に増加する古生代前期ならともかく、人類が誕生している時代にまで過酷な生存競争を勝ち抜いてきた来歴を持つ生物とは考え難い形質である。いっそ不自然なくらいの明らかな欠陥に見える。外界との
隔絶された環境で、かつ捕食者が全く存在しないなどの理由でもない限り、子孫を残す段階まで生存することすら困難であるとも考えられる。
未だ発見されていない新種の希少生物という可能性も出てきた。
これはしかるべき場所で発表するくらいの学術的な価値があるような……
……いや、また思考が逸れそうになった。
だから今は対処法を考えている最中だろうとも。
バケモノの希少性を考えたかったわけではないのだ。
なぜ価値という別の観点の話になってしまったのか。
理由がよく分からない。
理由?
ああ、そうか。
バケモノが執拗に追いかけてくる理由だ。
それが分かれば、適切な対処法が見えてくるかもしれない。
まずバケモノの大きさから食性を考える。
運動、生命維持に必要なエネルギーは通常の昆虫の比ではないだろう。
大きさ相当のエネルギー代謝があるはずだ。
エサも相応に大きなものが必要となる。
ここで自分は食料として狙われているという推測が成り立つ。
この推測が正しければ、追いつかれても
身長差にも怯まずに襲い掛かってきている以上、こちらを丸ごと捕食するか、干乾びるまで体液を
そして、それらを為すのに十分な攻撃手段があると考えて然るべきだ。
肉食の動物は、総じて噛み付く力が強い場合が多い。
捕食のための牙、
ひと噛みで皮膚や肉がとても大変な事になるのは想像に難くない。
生肉でも用意すれば気を逸らす事が出来るだろうか。
気を逸らしている隙にどうにかする方法を考える。
うん。
まあ、そうだね、普通にダメだわ。
そう都合よく食材みたいな持ち合わせなんて無い。
望んだときに都合のいいものが都合よく見つかるとも思えない。
ついでに言うならば、時間稼ぎにあまり意味が無い。
多少の隙を作ったところで根本的に解決する
とりあえず、何か都合の良い
ふと思いつく。
直接的な肉食よりも恐ろしいケースも想定できるのではないか。
このバケモノが肉食、かつ成体になるまで生物の体内に寄生するタイプであった場合である。宿主は生きたまま
大きさの関係上、バケモノが成長するまでの間に、宿主の死は免れまい。
卵を産み付ける産卵管のようなものがあれば警戒が必要だろうか。
直接的な捕食のほかにも、毒や、未知の病原体を保有しているケースも考えられる。
虫の類が持つ毒は、体表から常に分泌しているもの、捕食のために針で相手の体内に打ち込むもの、逆に捕食される瞬間にガス状にして噴出して身を守るものなど、多種多様である。
血液を巡ると死ぬような猛毒でなくとも、触れるだけで炎症を起こす類の毒もある。
元になるものがどんな種類の毒であっても、大きさが大きさだけに致命的な状況になってしまう可能性は
もちろん、いくつかの要素が複合していないとも言い切れない。
例えば、獲物に毒を打ち込みつつ
空気感染とかいう単語が脳裏を過ぎったけど、そういった病原体を保有している事まで想定した場合には……まあ、現状もう手遅れのような気もするけど。
病原体に関しては、考えるだけ時間の無駄だろう。
意味が無いとは言わないが、現状では対処できない。
いっそ、飛び散る体液だとか死骸の破片といった外観的な精神被害を覚悟してでも、さっさと物理的な攻撃をもって駆除してしまうべきだと思う。
つまり正攻法、武力による排除の強行である。
なにしろ、バケモノがこの一匹だけとも限らない。
見かけていないというだけで、
むしろ
最悪、逃げ切れないまま次が来る可能性も想定しなければならない。
後々のことを考えるなら、慎重に越したことは無い。
後々のことを考えるからこそ、戦わなければならない。
まともな治療を受けられるような環境を期待できない事には留意するべきか。
接触感染の病原体や、皮膚からも浸透する毒などが無くとも安心できない。
傷口から雑菌が入ってどこかが
シャレにもならない。素手では触れないことに気をつけよう。
あと物理的に攻撃する際には、反撃も警戒するべきだな。
できれば自分が傷を負わずに勝利する必要がある。
思い立ったら吉日というやつだ。
この無益な逃走劇をいつまでも引き伸ばすほど不毛な事も無い。
逆襲の決意も固まったところで、あとは手ごろな武器を見つけるだけだ。
……と、ようやく考えがまとまってきた気がする。
まあ、考えがまとまったところで、実行できるとは限らないけれども。
実際、そう
できれば重量があって壊れにくいものが望ましい。
鉄製の工具みたいなものがあれば加工する必要もないのだけど。
とはいえ、そんなものが道端に落ちている状況なんて思い浮かばない。
期待もしていないから、落ちていなくても気落ちもしなくて済む。
いや本末転倒なんだけど。
背丈ほどの長さの棒でもあれば、一方的かつ安全に攻撃できるかもしれないと思い、多少の期待を寄せて建物を覗いてみたりはしたのだが、民家と
まあ街路樹でも見つけたら枝を折ればいい。
殴るだけの最低限の武器くらい、調達も容易だろう。
……などと、そういう考えすらも甘かった。
楽観的に過ぎたのだ。
結論から言えば、街中の観察には何の意味も無かった。
石造りの寂れた街並みには、なんと驚くべきことに、街路樹の一本ですら植えられていなかったのだ。アスファルト舗装されているわけでも高層ビルが立ち並ぶわけでもないくせに、あまり自然環境にやさしくない街である。徹底的な自然環境の排除に草が生える。いや、道端には草一本すら生えていないけど。この草が生えるって言葉は用法がおかしい気がする。
もっとも宇宙全体という規模から考えれば、植物どころか有機生命体が存在しているほうが不自然なくらい極めて
時の為政者さんたちには是非に、もうちょっと草木が植生していたり、衣食住に困らなかったり、バケモノがいなかったりという、人が生きるためにやさしい環境づくりに取り組んでもらいたいものだと思う。ここの為政者の仕事にそういった内容の政策が含まれているかどうかは知らないけど。
無い物は無いと、
せめて石同士を打ち合わせるなり擦り合わせるなりして尖らせるか、石そのものにある程度の重量がなければ、ぶつけたところで劇的な効果は望めないだろう。
もっとも、そんな手頃な瓦礫がたまたま道端に落ちてるなんて偶然も無ければ、瓦礫同士を打ち合わせて打製石器を作っている余裕だって無い。
石壁や石畳を素手で砕くのはちょっと無理だ。そういう発想は、あくまで創作物語でしか通用しない。肉体をいくら鍛えたって所詮はたんぱく質の塊である。構造強度が石材のそれを上回ることはない以上、素手で殴れば先に壊れるのは手のほうだろう。実用的な手法ではないと言わざるを得ない。
最終的に現状維持に行き着く。要するに逃走の継続だ。
なんだかくじけてしまいそうな後ろ向きな結論しか出てこない。
方針は変わらないが、バケモノを倒せないと決まった訳でもないだろう。
然るべき武器さえ手に入れたならば、相対して討滅せしめんとする所存である。
身の置かれた状況こそ危ういけれども、諦めたいと思ったわけではないのだ。
こんなところで終わるつもりはないのだから。
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