第2話 異物

第2話 異物



 おおよそ等間隔で石畳を叩いている靴音。

 間近に聞こえるのは自分の靴が立てているからだ。

 自身の生存もくてきを諦めない限り消えることは無いだろう。

 生存これに関しては諦める予定なんてない。

 簡単に追いつかれてしまうつもりは無いのだ。


 これに対して後ろからせまり来る足音。

 どれだけ引き離しても追って来るから休む暇は無い。

 バケモノの襲撃もくてきが果たされない限り消えることは無いだろう。

 襲撃それに関してはさっさと諦めてほしい。

 簡単に諦めてくれるような様子も無さそうだ。


 これがお互いに譲れないものをかけた闘争というやつかな。

 いや闘争どころか単なる逃走でしかないという指摘はさて置き。

 まあ言葉を置き換えれば聞こえだけは良くなるかもしれない。

 実際、聞こえの良し悪しなんて何の救いにもならないけど。


 そんな無益な思考を続けている間にも、気になっていることがあった。

 現在の自分が置かれている状況である。


 バケモノと自分の足音がはっきりと聞こえている。

 それがはっきり分かる程度に周辺の沈黙が保たれているのだ。

 わりと長い時間を逃走に費やしているはずだが、何も雑音が聞こえてこない。


 目に映る、音の聞こえる範囲に動きのある物がまったく無い。

 人々の喧騒、生物の鳴き声どころか、風にそよぐ草木の葉の音すらも。


 自分が指向性難聴のような特性でも有しているのなら話は単純だ。

 決して直線的に逃げているわけでも無いから、聞き取り難い距離や位置関係があるわけでも無さそうである。

 足音以外の物音に指向性を持った難聴なんてのも現実的とは思えない。

 つまり聴覚は正常に機能していると考えていいだろう。

 まあ、この耳で聞こえるものすべてが幻聴であれば別だけど。


 石造りの街は、気味が悪いくらいの静寂によって満たされていた。

 それは、人通りの少ない田舎に感じるような緩慢な静けさや、寂れた商店街といった生活感の不足といったものともまた異なる。工場で機械的に合成されたような、無機質な無音状態だった。


 何と言い表すべきか……言うなれば、生き物の気配が無い。

 まだ街全体を確認したわけでもないのに、なぜか確信があった。


 あ、いや、気配と言っても別に、第六感的な何かを五感以外による不思議能力で感じ取っているわけではない。決してサイキックカラテ的なオーラを視るパワーに目覚めたとかそういう話ではないのだ。

 気配という単語が思い浮かんだのは、きっと言語という情報伝達手段の限界によるものだろう。つまり言葉では言い表すことの出来ない何かである。簡単に言うなら『なんとなくそんな気がする』というものであり、つまりは間違っていたとしても『いやあれは自分の気のせいだったよ』などと誰にでも言い逃れできるのがポイントだ。何かっていったい何なんだとか、誰にでもって誰に言い逃れするつもりなのかは知らないけど、まあいつか誰かに言い逃れすることなどないと決まったわけでも無いだろう。

 それにしても、初めての感覚というか初めて遭遇するような場面を言葉だけで説明することが如何いかに難しいかということがよく分かった。これは貴重な経験である。むしろ胡散うさん臭い言い回しになってしまうのも仕方が無いことだと言えるはずだ。決して自分の語彙ごいが少ないわけではないと、それこそ誰かに聞かせることがあれば弁明しておきたい。

 物事の本質を理解していなければ、それを知らない人間に対して分かりやすく説明することなどできないのである。きっと。たぶん。


 何にせよ、自分には分かっていない事が多すぎる。

 そういった曖昧模糊あいまいもことした感想があるだけで、実感が伴わない。

 気が付いたときには、この街であのバケモノから逃げ続けていたのだ。

 目を逸らし続けるのは簡単だが、どう足掻いても現実からは逃げられない。

 現実とは即ち、ここまで抱えて未だに抱え続けている疑問のことである。


 だからこれらの問題は、そろそろ真正面から向かい合う頃合なのだろう。



 即ち――――、


 ここは何処どこなのか?

 なぜこの街には人がいないのか?

 なぜ自分が人のいない街にいるのか?

 なぜ自分はバケモノに追われているのか?

 いつから自分は逃げているのか?

 今は何時いつなのか?

 そして、いつまで、どこまで逃げればいいのか?


 ――――いや、それ以前に、


 




 いくらでも疑問が噴出ふんしゅつしてくる。

 一度考え始めると止まらない。


 そもそもいつ始まったのかが分からない。

 気が付けば自分は逃げていて、振り返ればだいたい奴がいた。

 悪夢のような恐怖体験だが、悪夢や幻覚の類だとも思えない。

 夢の類にしては長すぎるのだ。夢ならとっくに覚めても良い時間だろう。

 あまりにも長い時間だったから、自分はこの状況に飽きすら感じ始めていた。


 実は、何を覚えていて何の記憶が無くなっているのかも明瞭とは言えない。

 なぜ疑問を感じたか、そして疑問を感じた切っ掛けすらも不明だ。

 事の真相へと繋がる取っ掛かりを探すどころの話ではない。

 疑問に到る道筋さえもが朧気おぼろげな、それこそ夢の中のような感覚だった。


 様々な単語や、その言葉が示す意味が何であるかといった知識はある。

 だが、それをいつ覚えたのか、どこで聞いたのか、見当もつかない。

 自身の過去に繋がりうる情報が、自分の中にまったく存在しなかった。

 自分の知識が、熱された地面に浮く陽炎かげろうのように頼りない。


 現状の理不尽も、常識的には考えられない状態と関係あるのだろうか。

 推測するための材料も手段も乏しくて、想像することさえも難しい。



 人は、生まれながらに知識を備えている存在ではない。

 学んで、あるいは習うことで覚え、知識を蓄えてゆく存在だ。


 しかし、それならば、いったい自分は何だというのか。


 知識がある。

 だが、知識を得るまでの過程が丸ごと抜け落ちている。

 知識の獲得にあって然るべき体験の積み重ねが省略されたかのように。


 生物に記憶学習という機能が発生する過程を鑑みるに、単純なデータの羅列を暗記して作られた情報などより、むしろ感情を伴った体験のほうが記憶に残りやすいものではないだろうか。


 自分以外の事柄に関する疑問は、知識をもとに答えられる。

 だがその知識をもとにした答えと、自分自身の状態が反しているのではないか。

 そもそも知識の中にあるすべての情報の出所リソースが不確定である。

 出所不明な知識と、確定している現実。

 このふたつに矛盾があるというのなら、知識のほうが間違っているのだろう。

 そう考えたほうが自然……なのかもしれない。

 いや、それにしたって不自然で、意図的に作られた矛盾を感じないでもない。


 しかし、意図的に矛盾を作る――すなわち記憶を操作する――という行為が現実的に実行可能な事象だとも思えなかった。


 情報を外部から適切に制御やら操作をするためには、情報格納形式フォーマットに対する深い理解が必要不可欠だろう。だが個人の記憶というのは、そう易々と画一化できるものでは無い。共通の言語を用いて同じ教育を施したとしても、情報の格納形式は個人個人で差異が出てくるはずだ。ひとつの単語を覚えて扱うだけでも理解の深度に差が出るのが人間である。ひとつの単語に対して知っている意味や用法フォーマットまでが完全に一致する統一されるなら、辞書や言語教育なんて必要ないし、誤解なんていう概念は生じ得ない。

 あるいは共通認識を通じた暗示、催眠術のようなもので記憶へ干渉することは可能かもしれないが、それだって個人差や限度があるだろう。日常に関する記憶だけを選択して遮断するにはあまりに非現実的な机上の空論である。


 それこそ無理矢理にでも納得しようとするなら、奇跡的な確率で中途半端に記憶を失っている状態という事で結論付けるしかないだろう。

 どういった状況でどういった事が起きればこんな風に自分の出自に関わる記憶だけがゴッソリと綺麗さっぱり抜け落ちたりするのかは想像も付かないけど。

 現状、誰が聞いても納得できる解答を得るのは難しそうだ。

 検証する方法だって何も思い浮かばないわけだし。


 もしかすると想像力が働いていないだけかもしれない。

 長時間の運動による酸欠か、あるいは糖質不足が要因か。

 いや、べつに苦しくもないしおなかいたわけでもないけど。


 記憶喪失に繋がるような外傷は無い。

 だが自分自身の内面まで把握するのは難しい。

 そもそも精神の自己診断なんてものに信頼性は無いのだ。

 自分が正気だと根拠もなく言い張るほうが当てにならない。

 異常か否かなど、何を正常と定義するかによっても変化するものでもある。


 人は生きているだけで変化が起きる。

 有酸素呼吸による有機化合物と熱量の変化。

 運動による発汗、老廃物の排出、心拍や血圧の変化。


 肉体の中で、時間によって変化しないものなど無い。

 睡眠時と運動時の比較であればさらに変化は顕著だろう。

 変化そのものを異常と呼ぶのであれば、基準の状態を決めた次の瞬間には何もかもが異常という事になる。

 本来、正常と異常の明確な区切りなんてものは存在しない。

 傾向から推測を立てることは出来ても、それが正しいかどうかはまた別の検証が必要になるはずだ。


 恐らく、あらゆる情報をゼロいちだけで再現することは出来る。

 特定のパラメータを範囲で区切って整合性を確認することはできる。

 異常な部分を抜き出して修正する事も、十分な技術と知識の蓄積があれば可能だ。

 あらかじめ正常な比較対象サンプルを用意しておけば良いのだから。


 しかし、機械的な情報群デジタルデータだけではどうやっても人間の精神を再現することができない。

 人の精神は計り知ることの出来ない高尚なものだとか、そういう話ではない。

 精神と定義され呼ばれている存在は、脳内物質などの肉体依存の環境に依存して揺らぎ、流動する。そもそも記憶や感情を持った肉体を失えば、人が自我と呼んでいるものを動かしている運用体系そのものが成立しなくなってしまう。人間の精神というものが存在するためには生きた人間という容器が必要だ。記憶ソフトウェア肉体ハードウェアで運用するための精神システムを、異なる肉体に乗せて動作するはずがない。いや、理解のために便宜の上で別の名前を付けて呼び分けているだけで事実上は不可分のものだ。

 つまり存在を情報化することで存在の正常性を機械的に判断するためには、その存在に合わせた最適な手法を用いて存在そのものを元に戻せない程度にまで分解する必要があるということだ。色々な意味で本末転倒である。


 そして、物理的な整合を以って正常性を判断する手法もまた正確性に乏しい。

 もとより人間の脳は、ものを忘れる器官である。

 書き込みや読み取りによる劣化は、記憶媒体の構造上の仕様とも言えるけど。

 少なくとも無限の強度を永遠に保ち続けるシナプス回路なんて存在しない。

 物事を記憶するだけでなく、忘れることでさえ脳の正常な働きのひとつだ。

 記憶を失うことが異常だと定義すると、正常な状態など存在しなくなってしまう。





 ……うーん。


 はてさて、はいったいどういうことだろうか。


 真偽不明な付加情報がどこからともなく湧いてくる。

 言葉に変換できているの量を伴っている。

 それも、何かを考えるだけで。そして、何かを思い浮かべるたびに。


 自分には記憶が無い。無いはずだ。

 それでは一体、この膨大な情報の発生源は何だという話にもなる。


 まあ、何を今更という疑問ではあるけれども。


 物事を思い出しているという感覚ではなかった。

 どこからか情報が垂れ流されているというほうが近い。

 音声が聞こえるわけでもなければ、視覚化されて視界を遮る事もない。

 完全に無視できるから行動に支障は出ないし、何の弊害も無さそうだ。

 だがそれは同時に、何も役に立たないということでもある。

 これらの知識の正当性を担保するものが何も無いからだ。


 無作為に引っ張り出された、しかも関係性があるのかどうか微妙に判断しづらい雑学など使い道が無い。ましてや必要と感じた知識を適切に引っ張り出すこともできていないのであれば尚更だ。

 知識を役に立てるための経験の部分がまるごと抜け落ちているということか。


 知識や記憶、あるいは経験といったものは、神経系の上で複雑に絡み合っている。

 言葉では分けて表現しているが、実際には明確に分離できるものではないはずだ。

 だが、自分はそういうものが異常なくらい綺麗きれいに分離されている?

 そんな事がありえるのだろうか?


 今の自分を例えるなら、検索エンジンから知識を引用している子供のようなものだ。

 どれだけ豊富な情報リソースがあっても、それを扱う能力が圧倒的に足りていなければ猫に小判、豚に真珠、無用の長物ちょうぶつになる。ああ、バケモノを叩くのに使えるものなら武器とも呼べない長物ナガモノだって無用というわけでは無いけれども、もちろん今のは決してそういう意味で言ったわけではない。

 この場で必要な知識を潜在的に持っていたとしても、必要な場面で必要な情報を引き出して有効に使うことができなければ、それは何も知らないのと同じではないだろうか。


 そう。

 この場をなんとか切り抜けたとしても、問題は山積みなのだ。

 そもそも知識だけを頼りに無人の環境で単独行動するのは無理がある。


 この先生きのこっていける自信も根拠も無い。

 なんとかバケモノを倒しても、そこで終わりでは意味が無い。


 活動さえできればいいというものでもないはずだ。

 生きていくために必要なものさえ、まだ理解しているとは言いがたい。



 今現在、周囲の静けさから察するに、バケモノはこの一匹だけだ。

 この場所にはおそらく、自分とバケモノしかいないのだろう。

 それはつまり、自分自身も誰かの助けを得られないという事でもある。


 がんばって探しても武器が見つからず、逃げる事しかできない。

 不確定要素が多すぎて、対応を考える余裕も経験も無い。

 自分には無いもの、足りないものが多すぎる……それなのに。


 然るべくして陥るはずの不安もまた無かった。


 そうとしか言えない。生への執着が薄いという事だろうか。危険な兆候だ。

 うん、まあ、生きる意味を見出せなければ死ぬってわけでもないと思うけど。

 だから、いっそ記憶の問題は先延ばしにしてもいいんじゃないだろうか。

 なにげに危機的な状況下でも思考が平然と明後日の方向へ突き進んでしまうことが、今一番の問題な気もする。





 ……さて。


 やはり状況は変わることなく、逃げ続けている訳だけれども。

 もちろん、どこを走ってるのかさえもよく分からないままに。


 自分自身の記憶が無いが故に、今度は体力面が心配になって来た。


 今は平気でも、いつかはスタミナが切れる。走れなくなるだろう。

 自分の手足や胴体回りを見る限り、肥満体型でも痩せ型でもない。

 ただ、普段から運動しているアスリート体型にも見えない。

 いきなり長距離走をするのは危険かもしれない。

 どれだけ運動できるかも分からないため、適切な運動量も分からず、加減もまたできないということだ。知らず知らずのうちに筋肉を痛めてしまい、最悪の場合は動けなくなってしまう可能性もある。生き残った後のことを考えるならば、足腰の故障というのは致命的だろう。


 何らかの解決策が早急に必要とされている。

 処置の必要性を感じながらも、対抗手段も打開案も無い。

 このままではらちが明かないと言い換える事もできる。

 そろそろ自分が被害を受けない方法で決着を付けたいのだけど。



 進行方向と反対側へ重心を傾けてから交差路を曲がる。


 フェイント。


 無駄な行為だったかもしれない。

 奴は、足を滑らせたり迷う様子すらない。

 それも予測していた。


 いや、聴覚や視覚に頼っていない事は分かった。

 こちらの行動にどう反応するかで、相手に対する理解が進む。

 創意工夫と試行錯誤を繰り返し、経験を積み重ねてゆく。

 決して無駄なことではないはずだ。負け惜しみではない。

 それが何かに繋がると信じて、狭く暗い道を抜ける。


 一気に視界が広がった。



 足元の石畳の一枚一枚が、先程までの小道のものよりも大きい。

 周囲には相変わらず平屋ひらやづくりの家が立ち並んでいるが、一軒一軒の間隔が狭いために密集し、居心地の悪さというか言い知れぬ圧迫感のようなものを覚えるほどだった。


 この街のメインストリートだろう……ストリートと呼ぶにしても幅が広いか。

 それに、幅に対して長さがいささか足りない気がする。

 公園にしては植木も遊具の類も見当たらない。あまりに殺風景だ。

 むしろ、異様に広い空き地と言い表すべきだろうか。

 造成する際に莫大な費用が掛かっただろう事は想像にかたくない。

 規模の大きな町というのは、金銭的な面で余裕があるのかもしれない。

 きっと、途方も無い労力と資材が注ぎ込まれているはずだ。


 その空き地の中心は、何やら白い町並みの中でもひときわ、目立っている。


 巨大でいびつな、一枚の赤黒い石畳。


 ……いや、石畳と呼ぶのも何か語弊があった。


 どこにも継ぎ目が見当たらない。

 踏み歩く足に伝わる感触は硬質で、微妙な凹凸おうとつがある。

 だからといって街に敷き詰められている石畳のように、乾いた足音を返してくるわわけでもない。わずかに弾性がある材質なのかもしれない。

 石造りの街の中で際立つ有機的な色合いをさらしている。

 やや模様じみた色のむらが、塗り固められた血肉であるかのように不気味な雰囲気をかもし出しているのだ。


 何処かから岩を切り出して持ってきたという可能性は考えにくい。

 なぜなら、それはあまりに大き過ぎた。


 町の中心に大きなパネルを設置したかったので、とりあえず合成樹脂で成型してみました、などと解説されたほうがまだ理解できる。いや解説する人は見当たらないけど。


 もっとも、解説されて理解することが出来たとしても納得は出来ないだろう。

 配置というかタイミングというか、この場にはそぐわない何かがある。

 噛み合っていない。そんな気がする。


 異色の光景の中心には、さらに場違いに見える異物があった。

 一本の、抜き身の剣が突き立っていたのだ。


 近づくほどに、その異質さが浮き彫りになってゆく。


 柄から刀身に到るまでただ白く、しかしそれは光を反射するものではない。

 幾何学的な輪郭で、柄や鍔などを区分する継ぎ目がどこにも無かった。


 さらに近づいてよく見ると、剣であるかどうかすら怪しいことに気が付く。

 刃引きというか、鋭利な刃が無い。刀身が丸みを帯びている。

 剣に似せて作った鈍器というか、円錐や円筒に近い。

 いや先端を丸めた金属棒だと言ったほうが正解なのではないか。

 それならば突き立っているというよりむしろ単に埋まっているだけか。


 赤黒いパネルを含めて、何らかの記念碑という考え方も出来る。

 記念碑にしては文字も無く、シンプルすぎて逆に不気味ですらある。

 もしかすると、製作者はモチーフに対する嫌悪感でもあったのだろうか。

 または関係者に対する憎悪や怨恨を動機とした犯行かもしれない。

 むしろ自然にこういうデザインができるようなら正気と思えない。


 中心に近づく。

 やはり突き立っているそれは、剣には見えない。

 変わったデザインの墓と言われたほうが説得力がある。


 異物。剣。墓。記念碑。剣。


 頭を振る。認識が安定しない。

 今現在、思考が正常な状態を保てているとは思えない。 

 知覚に異常が発生したのか、判断ができていないのか。

 だが何が普通なのか、それすらも分からない。


 積極的に死をもたらす目的で作られた凶器ではないように見える。

 武器として扱うことはできなくもない、といった程度の形状でしかない。


 ……だが、しかし。


 やはりそれは、だ。


 決して叩き付けるだけの鈍器などではない。

 死をもたらす用途で作られた戦いの道具だ。

 己の運命を切り開き、あるいは他者の命運を引き裂くものだ。


 理由は無い。

 記憶にも無い。

 ただ、確信があった。


 そんなことよりも、

 なぜ自分は迷わずそこに向かっているのか。

 なぜ自分は無造作に近づき、手を伸ばしているのか。


 なぜって、それは、自分のものだという感覚があったから。


 気が付けば、その剣を掴んでいた。




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