第2話
少年の耳に、ガタンと木の扉を開ける音が聞こえた。
「あら、いらっしゃい」
「いらっしゃいませー」
木の扉の音の後からは、若い女性と、少年と同じか少し上くらいの年頃の少女の声が耳に入ってきた。
「おらよ」
「おっ! わっ!」
レオが少年をポイッと軽く投げると、若い女性が驚いた声を出しながら胸でキャッチした。
「レオさんが誰かを連れてくるなんて珍しいですね。というか、レオさんがくるのが半年ぶりくらいかしら。……あら? この子は獣人?」
若い女性は無邪気な様子である。
「ただのクソガキだ。アイシャ、クルト、なんか飯でも食わしてやれ。俺にはいつもの酒をくれ」
「んっ♪」
クルトという名の幼い少女が明るく返事をすると、酒のボトルを重たそうに足をふらつかせながら持ってきた。
「かわいいー♪ まるでワンちゃんみたい」
若い女性の名前はアイシャ。少年の頬を自身の頬でさすりながら、まるで人形を愛でるかのように抱きしめた。
ここは裏通りにある、アイシャとクルトが経営する、カウンター三席、テーブル席が二つあるだけの小さな酒場。通称
レオが唯一行く酒場である。その理由はもちろん、客がほとんど来ないからだ。
「があぁあぁッ!! やめろっ!! なにすんだオマエっ!」
獣人の少年は、強引に突き飛ばすようにアイシャの抱擁から逃れると、レオ達にもそうしたように、間合いを取って四つ足前傾姿勢を取り、ぐるるる…と威嚇する。
「獣人さん……? あなた、どこから来たの? お名前は?」
少女クルトは、少年の威嚇に怯むこともなく、きょとんとした表情で少年を見つめて訊ねた。
「こいつ…ッ」
威嚇に臆さないクルトを見て、少年はより一層の警戒心を強める。
「なんだよ、なんなんだよこいつらッ!」
クルトの質問には答えず、少年は近付かれないよう、精一杯に牙や爪を見せつけた。
少女はなおも怯むことなく、微笑みさえ浮かべて、
「わたしはクルト。こっちはアイシャ姉。よろしくね♪」
と手のひらを差し出して言った。
「ガルッ…!」
獣人の少年は構えていた爪を、クルトの差し出してきた手の平に向かって勢いよく振り下ろした。
「うるせぇ! 酒がまずくなる!」
ドカッ
「きゃん!」
「おとなしく飯が出てくるまで待ってろ」
テーブル席から伸びたレオの丸太のような足が少年の背中を蹴ると、少年は仔犬のような声をあげてクルトの前に転がった。
「安心しろ、そのチビガキも半分人間じゃねぇ。てめぇと同類だよクソガキ」
レオはグラスに入った酒を飲みながら笑みを浮かべて言った
「ぐっ…ッ」
少年は小刻みに震えながら立ち上がると、ゆっくりと移動してレオの向かいの席に座り、言われた通り大人しくする。しかし、頬杖をついて視線を誰とも合わないようにしていた。
「…まわりからそんざいをみとめられてるヤツが、オイラとおなじなワケないじゃん……」
不貞腐れたように少年はぼやく。
「だいじょうぶ?」
クルトはミルクと黒パンの載ったお盆を少年の前のテーブルに持ってきて置き、少し心配そうに少年の横顔を窺った。
その芳しい香りが、少年が持つ人一倍鋭い嗅覚を刺激する。むすっとした表情を崩さぬまま横目で見、嫌でも溢れ出てくる唾液をゴクッと音をたてて飲み込んだ。
ちらりとレオの様子を窺ってから、恐る恐る黒パンへと手を伸ばし、端を少しだけ齧ってみる。瞬間、ゴミ溜めの骨からは決して得られない、芳醇な麦の甘味が口の中一杯に広がった。
一度齧ったら最後、少年は目を見開き、戦場にでもいるかのように険しい表情をしながら、目にも止まらぬ速さで貪り始めた。急ぎすぎて喉を詰まらせ、慌ててミルクを大口へかっこみ、再び黒パンを貪っていく。
皿の上とコップの中身が空になるまでに、そう時間はかからなかった。
「ゔ……」
完食後、少年は何とも居づらそうに視線を泳がせると、慌てて再び頬杖をつき、何事もなかったかのように視線を逸らした。
クルトは後頭部に被っていた三角巾をおもむろにほどき、
「I bhfoirm bhunaidh」
と、何やら聞き慣れない言葉を呟く。すると、その
「わたしはね、エルフのお母さんと人間のお父さんの子なの」
クルトは少年を見据えつつ語り始めた。
「お母さんはわたしが産まれてすぐ“この世界”からいなくなっちゃって、お父さんも“種族の禁を犯した”ってことで里にいられなくなっちゃって……山小屋に隠居してるおじいちゃんとおばあちゃんに育てられたんだけど、里にはわたしの居場所は無かった……お母さんの遺してくれた魔法で、普段は人間と変わらない姿になってるけど、ほんとはどこにも居場所が無いの……」
物憂げな表情を繕うように、クルトは少し微笑んで続けた。
「だからね、わたしお父さんと一緒に旅立ったの。お母さんを救うすべを探すために! 今はお父さんとも別れて、交易商人の子だったアイシャ姉と、あと僧侶のおじいさんと一緒に旅してて……少し前からここヴラディミロフスクの街に留まってるの」
語り終えると、クルトはまた「I bhfoirm shealadach」と聞き慣れない言葉を呟く。それとともに、髪と耳は元の姿に戻り、クルトはふっと一呼吸して三角巾を被り直した。
「……。そのはなしがウソじゃなかったとして。オイラとにたところがあったのはわかったよ……。それでも、いまはこのセカイのニンゲンたちと、しっぽふっていっしょにいきてるんでしょ。オイラとおなじっていうんなら、オイラたちがふつーにまちをあるけるセカイにしてからいってよ……」
「他力本願か! てめぇも男ならてめぇで世界を変えてみろ! エルフと獣人が支配する世界なんて面白いんじゃねぇか? けぇーけっけっ!」
レオは空になったボトルをカウンターの方向に投げた。
「ほい!」
そのボトルを片手で華麗にキャッチするアイシャ。
「おら、次の飯を持ってきな! クソガキが黙るくらい食わせてやれ」
「サー! イエッサー!」
アイシャは笑顔で敬礼のポーズを取った。
「たり…き……まぁいいや。とにかく、いわれなくてもこのセカイはかえてみせるよ。いったでしょ、みんなぶんなぐってやるって!」
獣人の少年は立ち上がり、自分の胸の前で拳を握りしめる。
「それから、えっと……レオノカシラ! いつかオマエのことも、こえてみせるッ!」
言いながら、握りしめた拳をぐっと前に出し、レオへと突きつけた。
「けぇー! 皆ぶんなぐるか! いいねぇ! うちの根性なしの連中に見習わせたいぜ!」
レオは空のグラスを置き、葉巻に火をつけて吸い始めた。
「おまたせしましたー! 本日のメインディッシュ! ズーティ(雪獣)のステーキです!」
アイシャは両手いっぱいに広がった皿を、重たそうにレオと少年の目の前に置いた。
「ずーてぃ?」
重さにして約三キロの肉の塊が、少年の目に映る。
「白い毛で覆われた熊のような怪物よ。食べる人も少ないし、危険な生き物だからそもそも狩ろうなんて人もいない。珍味というかゲテモノ? でもレオさんの好物よね」
「ガキの頃は猿の脳みそばかり食っていた。それに比べればまともなもんだ」
説明するアイシャと、軽く鼻笑いを交えて相槌を打つレオ。
「これはね、昨日ズーティに襲われたという旅人が持ってきたの。体長二メートル弱の子どもサイズだったけど、倒すなんて大したもんよ。まぁ、一年前に四メートルのズーティを素手で仕留めたレオさんには敵わないわね」
「アイシャ、くだらねぇ話はいい、肉が冷めちまう」
「はぁい! さぁ少年もお食べ!」
アイシャは二人の手元にフォークとナイフをそっと置いた。
「ぐっ……」
少年は、目の前に置かれた巨大な肉の塊に目を奪われる。先刻かじった、頭の潰れた肉塊とは比べ物にならないほど美味いことは一目瞭然だ。
黒パン同様、誘惑に負けるようで悔しく、数秒の間手を伸ばしたり引っ込めたりを繰り返す獣人の少年。
やがて意を決すると、アイシャが用意したフォークやナイフには目もくれず、熱々の肉をものともせずに素手で摑んで引きちぎり、口へと放り込んだ。
「……! ……!!」
あまりの美味さに、少年の気は遠くなりそうだった。こんなに美味しいのに、食べるヤツは少ないのか。それが少年には信じられなかった。
美味いものを食べる。それだけでこんなに幸せな気持ちになれるのか。少年の目にはうっすら涙さえ浮かんで見えた。
少年は素手で次々と肉を引きちぎっては口の中へと運ぶ。その勢いは、レオよりも多く食べてやろうと、もっと言えばレオに食べさせないぐらいの意気込みだった。
「いい食いっぷりだ。まずはその貧相な体に力を蓄えな。食って食って食いまくるのさ」
レオはナイフで豪快に肉を切り、200gはあろうかという肉をフォークで突き刺し、一口で平らげた。
「はい、どうぞ」
クルトがレオの前に置いたのは、小さな皿に乗ったズーティの腎臓の塩辛である。
「わかってるじゃねぇか」
レオの口角が少しだけあがった。
「あんだそえっ! オイアにあっ?」
新たに出てきた料理がレオだけに配られたのを見て、少年は口の中をズーティで一杯にしながら言った。
「けぇ! 酒の味もわからねぇガキにこいつは十年早ぇよ!」
レオは機嫌良さそうにひとつまみの塩辛を口に運び、その後グラスの酒をくいっと飲み干した。
「んがっ!?」
少年はレオを睨むと、一旦口の中のズーティをゴクリと音を立てて胃の中へ送る。
「さけって、いまレオノカシラがのんでたやつだよね!? たしかにオイラはのんだことないからあじわからないけど、だったらのめばいーだけのことじゃん!!」
少年は戸棚に並べてあった酒の中から適当にボトルを一つ摑むと、強引にコルクを引き抜き、そのままゴクッゴクッと音を立てながら口の中へ流し込んだ。ボトル半分程まで一気に飲むと、ぷはっと息を吐きながらボトルを口から離してテーブルに置き、口元を拭った。
「……うーん。おいしい…のかな? なんかヘンなあじまざってるよーな……。でもまぁ、ちよりかはおいしーかも?」
何やら喉が温まるような不思議な感覚を覚えながら、少年は素直な感想を述べる。
「さぁっ、さけのあじしったゾ! それたべてもいーよね!」
塩辛をビッと指差しながら、少年はドヤ顔をしてみせた。
「けぇー! 背伸びもし過ぎると頭をぶつけるぜぇ!」
レオの笑い声が小さな店内に響く。
「あなたにはこれ」
クルトは干からびたチーズの塊を少年の元に持ってきて、その前のテーブルに置いた。
「ゔっ…? や、オイラ、あのレオノカシラのが……」
レオがやること全て自分もこなすことで、レオに差をつけられていないことを見せつけようと考えていた少年は、空気の流れをクルトに崩され、伸ばしていた人差し指を力なく折らしながら、そのドヤ顔を困惑させる。
「……いやこれもたべるけど! これたべたら、レオノカシラとおなじの、オイラにもだしてよねッ!!」
少年は半ばヤケになりながら、置かれたチーズに手を伸ばした。
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