『本を読みたくなる小説』

礎 文哉

プロローグ

 最後の一文を書き上げてエンターキーを叩くと、男は凝り固まった体を大きく伸ばした。十数時間に及ぶ作業の間同じ姿勢を取り続けていた体は、軽く動かそうとするだけでバキバキと音を立てる。その痛みは苦痛であり、同時にどこか心地よさも感じられる。

 一通り体をほぐすと、男はモニターに映ったテキストファイルを、全体をスクロールしながら確認する。十万字以上に及ぶそのテキストは、男が今しがた書き上げた小説だ。一通り全体を読んでみて、誤字脱字がないかをチェックする。本来はミスがないかのためのチェックだが、どうしても文章の中身の方に目が行ってしまう。たった今完成させたという達成感も相まって、我ながら面白い作品が書けたのでないかと男は自画自賛した。

 そうしていると、男の後ろで軽くドアをノックする音が聞こえた。その後、男が返事する間もなく扉が開かれて一人の人間が入ってくる。

 男が振り返ると、そこには一人の女が立っていた。女は男のPCをのぞきこみながら話しかけてくる。

 「お疲れ様。完成したの?」

 「すごいな、タイミングばっちりだ。今ちょうど完成したところだよ」

 「だって、隣の部屋まで声が聞こえてきたもの」

 女は笑いながらそう言った。伸びをするときに無意識に唸り声をあげてしまっていたらしい。出会ったころであれば恥ずかしくなっていたかもしれないが、今さら自分が彼女にかっこつけることもない。男はそっか、と短く返して、アイルの印刷ボタンをクリックする。間もなく部屋の隅に配置されたプリンターが完成させたばかりの原稿を吐き出し始めた。

 「じゃあ、後は私が郵便局に持って行っておくわ。少し休んだら?」

 女の提案に男は鷹揚に頷く。まだまだ新作小説のアイデアはあったが、目標としている新人小説の締め切りは今日までだ。今すぐに新作を書き始めたところで間に合わないのならば、今のうちに休息をとっておこう。

 そう思うと、途端にここ数日の疲れがどっと襲ってきた。眠い目を擦りながら男は寝室に向かう。

 その途中、男は女が小脇に抱えていた封筒の存在に初めて気づいた。厚さから見て小説の原稿のようだが、男のものではなさそうだ。

「それ、どうしたの?」

 男が尋ねると、女はああ、これ、と聞き返し、得意げに胸元に掲げて言った。

「お守り、というかおまじないかな?朝方あさかた君のデビューできるようになるためのね」

 いたずらっぽく微笑む女の言葉は、おどけているようでどこか含みがある物言いだった。しかし、疲れ切った男は彼女の言葉の意味を深く考えることなく、感謝の言葉とともにプリンターの音が鳴り続ける部屋を後にしたのだった。

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