第3話
丸一日走り続けた列車は、大きな時計塔が名所の、古い街並みが美しい港町に停車する。
北東の端、フラウデル国シャンフィーニュ地方。
旅行雑誌には海産物と白ワインが名産で美味いと書いてあった。
行きたい場所や飲食店に、いくつか付箋をつけてカバンに入れる。
朝食後もしばらく走った列車のアナウンスが、もう間もなく停車することを知らせた。
駅を出て少し歩けば、絵本に出てきそうな白い壁にカラフルな屋根の家々が並び、整然とした石畳で軽やかに靴音が鳴った。
列車の中で立てた計画通りに観光名所を回り、名物の時計塔の機械仕掛けの人形を見てから、昼食に目星をつけていた料理屋に足を運んだ。
商談の合間に土産物を見て回るときなど、少し目を離すと一人でフラフラあちこち歩き回るフェルを探し回ることなく進む観光は、驚くほどスムーズだった。
予定よりも些か早く着いた漁師料理を出す庶民的な料理屋で、名物の海産物を使ったスープカリーを頼む。
バカンス期間の只中で、もっと混雑しているかと思ったが、大通りから一本中に入ったところにあるせいか店内は思ったよりも空いている。
港町らしく魚の絵や浮きのガラス玉の装飾が施された店内は、海産物からとれる出汁と香辛料のいい匂いがした。
「はい、お待ち遠さま。名物、シーフードスープカリーです。お兄さん、ご旅行ですか?」
スープカリーを運んできた店主の妻だというふくよかな中年女性が、こういった店にありがちな気さくさで話しかけてくる。
「ええ、久々に休暇が取れたもので」
「それは良かったですねえ! どちらからお見えで?」
「ジャルマルドです」
「あらまあ、遠くから! お口に合うといいんですけど」
朗らかに笑って言いながら、女性はテーブルに料理を置く。
「ありがとうございます。この店に来るのをとても楽しみにしていたんです」
「あら、嬉しいこと! 嬉しいし、せっかく遠くから来てくだすってるから、デザートをサービスしましょうね。お兄さん、ブドウはお好き?」
「ええ、好きです」
「じゃあ、食後に白ブドウのシャーベットをお持ちしましょうね」
にっこり笑ってそう言うと、他のテーブルの注文を取りに行った。
剥きエビ、輪切りのイカ、殻付きのクラムが惜しげもなく入ったスープカレーはサラサラとしていて、大きく切った人参の赤や一本そのまま添えられたオクラの緑、素揚げした茄子の紫が鮮やかだ。野菜は他にも、これまた大きめに切ったじゃが芋と玉ねぎが入っていた。
添えられているトーストした薄切りのバゲットを浸して食べても美味しいらしい。
スープを一口含めば、海産物の旨味が口いっぱいに広がり、スパイスの香りが刺激的に鼻を抜けた。
海産物の香りもするけれども、鮮度のためか調理法の関係なのか生臭くはなく、なかなかに食欲をそそる味だった。
自国のカリーに比べてとろみが少ないが、旨味と塩気、そして野菜の甘味が強い。
具も掬って口に運ぶ。イカやエビも固くなく、プリプリとした程よい歯触りで、噛むほどに旨味が溢れた。
大ぶりに切られて煮込まれた根菜も食べ応えがあり、スープが染みて美味い。
トーストしたバゲットを浸して食べれば、香ばしい香りと固めの歯ごたえが、ナンやライスとは違った旨さを醸し出していた。
そうして、汗だくになるほど夢中になって食べていたことに、空っぽのスープ皿を見て気づく。
「お兄さん、気持ちのいい食べっぷりだこと! はいこれ、サービスの白ブドウのシャーベットね」
「あ、ありがとうございます」
思ったより空腹だったとはいえ、がっついて食べていたところを見られたのは少し気恥ずかしい。
小ぶりのグラスに盛られたシャーベットを受け取って、礼を言った。
デザートスプーンで掬って食べれば、スパイスで汗をかいた身体に心地良い冷たさと、爽やかな甘酸っぱさが口内を満たす。
香りのよいシャーベットを食べてグラスを眺めつつ、この味やグラスはフェルも気に入りそうだと、ほとんど無意識のうちに考えて、はっとした。
フェルについて考えることが、どうしようもなく身体に染み付いていることを突き付けられたようで、愕然とする。
ずっと傍にいて、一緒に生活してきて、何よりも優先してフェルのことを考えてきて。
だからきっと、これからもこうしてフェルのことを考え、その面影を感じ続けるのだろう。
フェルのいない世界で、彼の存在を思い出し続けるのはもう、一種の呪いのようなものではないか?
「お兄さん、急に怖い顔してどうしたんです? 大丈夫?」
先程の女性に心配そうに声を掛けられてハッとした。
「ああ、すみません。美味しかったので一気に食べたら、頭が痛くなってしまって」
「ああ、そうだったんですね! そんなに気に入ってもらえたんなら良かったです」
適当に理由をつければ、女性はほっとしたように笑って、厨房の方へ戻っていった。
動揺を押し込めて、シャーベットを平らげる。
午後からの予定を計画通りに回るためには、そろそろ出ないといけない時間だった。
午後は予定よりも早く観光したい場所を見終えたので、予定にはなかった浜辺に足を運んだ。
防風林として海岸線沿いに植わっている針葉樹が海風にざわめき、白い海鳥がその上で羽を休めていた。
荷物にならないよう捨てるつもりで土産物屋で安いビーチサンダルを買い、靴から履き替えて砂浜を歩く。
夕日に染まる海と砂浜のコントラストが美しく、目を細める。
沈み切る間際の夕日の色は、フェルの瞳の色を思い出させた。
人の苦労を知らず、ただキラキラと輝くその目にどれほど苦労させられたことだろう。
それでも、その目に救われたこともあった、とも思う。
特に記憶に深いのは俺達が18歳の時に、逆恨みの暴漢に襲われそうになったフェルを庇って俺が刺された時のことだ。
目覚めて真っ先に見たのは、硝子越しのフェルの泣き晴らした目だった。
ああ、フェルが生きていた、良かった、と。
ほとんど無意識のうちに彼の無事に安堵した。
そして容体が安定して、面会の許可が出たフェルは真っ先に泣きながら謝罪に来た。
「すまない、本当にすまない、トラウ! 僕の、僕のせいでこんな……」
「泣くなフェル、お前が刺されてたら、代々仕えてる俺の一家全員の首が飛んでいたんだから、これで良かったんだ。これが俺の役割だから、気にするな」
笑って言えば、フェルは顔を真っ赤にして怒った。
「そんな悲しいことを言わないでくれ! 俺の一番の友達なんだから、トラウには苦しい思いをしてほしくないんだ。僕の代わりに死んだら嫌だ」
「無茶言うな、お前が死んだら俺の一家がヤバいんだぞ……まあ、気持ちはありがたく受け取るが」
たかが使用人一人が死んだところで、アルテンブルク家なら代わりなんていくらでも用意できるはずだ。
代々アルテンブルク家に仕える俺の家だって、俺が死んだところで、親類筋から養子でもなんでも用意して、新たにフェル仕えさせただろう。
誰もが口にした『本当に、フェルディナント様が刺されなくて良かった』という言葉を、昏睡状態から一命をとりとめた後の夢現で聞き続けて、俺の命なんぞその程度のものかと絶望と共に諦めていたのだ。
それでも、フェルだけは俺の命を俺以上に真剣に心配して、俺を怒ってくれた。
あの時、少なくとも俺は、フェルに救われたのだ。
「――おぉーい、そこの兄ちゃーん、そろそろ満潮の時間だあ! 潮の満ちが早いから、その辺にいると危ないぞお!」
不意に老人が呼びかける声が後ろから聞こえて振り返った。
釣り竿を持った老爺が浜の向こうの石段を上った道路にいるのが見える。
「ああ、ありがとうございます! すぐ移動します!」
親切に声を掛けてくれたことに礼を叫び返し、石段の方に向かって歩く。
「おお、間に合ってよかった。兄ちゃん、月光蟲を見たいんなら、あんな所じゃなくて、もっといい場所があるのに。案内しようか?」
その場にとどまっていた老人は、世話好きなのか声をかけてきた。
「月光蟲?」
思いもよらなかったことを言われて聞き返せば、老人は意外そうな顔した。
「あれ、違ったかい? この辺は何年か前から、気候のせいで潮の流れが変わって、この時期に月光蟲が沢山出るようになってなあ。綺麗だって地元じゃちょっとした名所になってるんだ」
「へえ、それは知りませんでした。俺の買った雑誌には載っていなかったので。その月光蟲、というのはどんな虫なんですか」
地元では聞いたことのない虫なので質問した。
「虫じゃなくて、プランクトンの仲間さね。昼間に日の光を身体に蓄えて、夜になると月の色に光るんだ。海まで星空みたいになって、そりゃ綺麗なもんだぞ」
「へえ、そんなに綺麗なら、見てみたいものですね」
老人の言葉に、どんな風景なのかと興味がわく。
「おお、それならよく見えるところに案内しよう」
「いえ、そこまでお手数をお掛けするわけにはいかないので、場所だけ教えてもらえれば……」
外国で声を掛けられた見知らぬ人間について行くのも心配で、やんわり断った。
夕日はもう水平線の向こうに姿を消し、薄暗い闇が辺りを包んでいる。
「いやいや、遠慮せんでもいい。ほれ、ついてきなされ」
「あ、いえ、ちょっと……!」
老人は俺の拒否も構わず、ぐいぐい俺の手を引っ張って歩き出した。
老体を振り払うのも気が引けて、まあ危険な目に遭いそうだったら最悪ぶちのめそう、と諦めるのだった。
老人に連れて行かれたのは浜から少し歩いたところにある岬で、観光スポットらしく、俺と老人以外にも7~8人の観光客らしき人々がいた。
どうやら老人は本当に地元愛の強い、ただのお節介焼きだったらしい。
「ほら、ここだよ。どうだい、綺麗なもんだろう!」
得意げに胸を張って老人が示した先には、淡い月の色をした細かな光が夥しい数で水面に揺れていた。
「ああ、これは本当に……綺麗だ」
星を撒いたような光が海岸付近を帯状に漂い、天の川を見ているようだ。
溜息混じりに溢せば、老人はホッとしたように笑った。
「そうだろう、そうだろう! 兄ちゃん、何があったか知らんが、あんまり思い詰めちゃいかんよ。綺麗なもんを見て、美味いもんを食って、人生辛いことばかりじゃないって思うことが肝心さね」
老人に思ってもみなかったことを言われて、動揺した。
見ず知らずの人間にそんな風に思われるほど、俺は暗い顔をしていたのだろうか。
「ああ、ご心配をお掛けしたようで、すみません。でも、ご心配していただいたようなことはないんです。そんな風に見えたのなら、少し、仕事の疲れが出ていただけかと……でも、案内してくれて、ありがとうございました」
老人に言えば、彼は少し恥ずかし気に頭を掻いた。
「いやあ、いらん世話だったみたいですまんな。お詫びに一杯奢ろう」
「いや、あの、もう少ししたら宿に戻らないと宿の夕食に間に合わない時間で……お気持ちだけ、いただいておきます」
どこまでもお節介らしい老人の提案を、先程より強めに断る。
「おお、それはすまなかったな。それじゃあ、宿で美味いもんを食べなされ。くれぐれも早まっちゃいかんぞ」
まだ心配らしい老人は、最後に念を押してから元来た道を帰っていった。
ふう、と一つ溜息をついて、月光蟲に目を戻す。
幼い頃、フェルが買ってもらったばかりの天体望遠鏡で、夜中に二人で星を見たことを思い出す。
『ほら見てトラウ! 月のない夜は星がこんなにきれいなんだ! トラウにも見せたくってさ!』
冬の冷えた夜の乾いた空気に煌めく星々は、どんな宝石にも勝る美しさだった。
そうしてまた、思い出すのはフェルのことばかりだ、と気付く。
自分の気持ちの重さに自嘲して、俺は宿に戻った。
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