第4話 リトル半沢直樹 一刺しで散る その3

 クレーム対応という苦しみの職場であったが、その決済班でヤスオは人生最大のモテ期を体験した。女子が多い職場で、マキという20代後半の派遣社員からアプローチを受けたのである。サッカー好きのヤスオはある休日にJリーグ観戦にスタジアムへ足を運んだ。そこで偶然ばったりとマキに会ったのである。好きなチームとか選手とかひとしきりサッカーについて言葉を交わして、それぞれの席に向かった。後日、会社で雑談しているとき、ヤスオが毎週土曜に某河川敷のサッカー場で仲間とサッカーをやっていることを伝えた。ある土曜日、いつものように河川敷でサッカーの試合をしていると、近くの草むらに一人の女性の姿が目に入った。よく見るとマキであったあ。まさか、わざわざ来るとも思っていなかったので、ちょっとときめいた。誰かに見られているということはモチベーションにつながる。いつもより、動き回った彼は久し振りの得点をあげ、満足して試合を終えた。帰りにマキに話しかけると、「来ちゃった。かっこよかったよ。また来たい」というのであった。ヤスオは複雑な心境になった。彼女は若さはあったものの、全く好みのルックスではなかったのである。

 マキの行動は止まらなかった。「仕事で困っていることがある、相談に乗って欲しい、会社帰りに、◯◯という店に来て」と迫ってきた。決済班が荒れるなか、自分に協力的なマキには、何かと仕事の用事を頼んでおり、彼女の相談ごとを無下にはできなかった。しかし、仕事を切り上げて店に入ると、仕事の話はそれほど深刻ではなく、他愛ない話が続いた。ヤスオの誕生日やバレンタインデーには手作りのお菓子が渡された。また、土曜の河川敷サッカーでお弁当を持参してきたこともあった。40代で妻子持ちの自分にどうしてこんな熱心なアプローチしてくるのか、全く心当たりがない。多分、偶然スタジアムで出会ったとき、男性経験のなかった彼女は、単純に運命のひととして彼を認識してしまったとしか思えない。何事もNOといえない気弱なヤスオは、ずるずるとマキの誘いを断れきれず何度か食事をした。ただし、好みのタイプではなかったので手に触れることはななかった。しかしながら、マキの言動はエスカレートし、「わたし、今度一人暮らしするから、引っ越しを手伝って欲しい」と恋人気取りの発言までするようになった。ここに及んで、ヤスオは不愉快な気持ちになった。ちょうど、他の女子社員から「マキさんと関係が噂になってますよ・・・」と忠告を受けたところであった。それを理由に彼女の誘いを断ち、携帯電話の連絡先を削除した。

 

 仕事で苦労する反面、賑やかで華もある職場であった。振り返ってみると、ヤスオは仕事運が落ちると異性運が上がるという傾向にあった。女子の多いこの職場では、女子との二人での食事の機会はことかかなかった。また女子会に男子ひとり誘われることもあった。食事以上の関係に発展した相手も何人かいた。ヤスオと同年代のある女性は長年金融機関で働いてきた堅い仕事ぶりの人物であったが、若いときにはバブルで弾けていた一面も持っていた。タレントのYOUを思わせる自由奔放で怪しげな雰囲気の女性だった。酒に酔うとブレーキが破壊され、鋭い目線でヤスオをロックオンし店のカウンターでも、店外の路上でもやたらとキスをせがむのである。彼女はヤスオにがんがん酒を飲ませ、理性を失ったヤスオは断れずに彼女の要求に従った。帰りに駅の改札で座り込み、キスを求めてくることもあった。またある時は、駅ビルの屋上庭園のベンチでお互いの下着に手を入れるという法に触れる行為にも及ぶ時があった。ヤスオは酔って前後不覚であったが、もし誰かに見られていたらと思うと怖ろしい事態である。翌朝は二日酔いで吐き気に襲われながら通勤した。彼女は「何も覚えていない、私なにかしたかしら?」としらをきる。意図的にブレーキを破壊していたとしか思えない。誘惑に溺れたヤスオは社会的には道を外した人間である。


 決済班から管理スタッフに転じてから、仕事は順調で、30代のときマネジメントの勉強を積んでいたヤスオにとって管理の仕事は本領発揮の場であった。クレジットカード会社の運用を受託するために創設された新しい部署であり、組織はマネジメントがバラバラであった。ヤスオは自ら企画提案し、品質、顧客満足、従業員満足を向上させる事業改革プロジェクトを立ち上げた。役員のお墨付きをもらい、各チームからプロジェクト委員を選出してもらい、部門をよくするための議論と調査を推めた。30代のとき経営コンサルティングの勉強をしたヤスオにとって実践の場、力試しの場であった。3ヶ月で現状調査と改善計画をレポートをまとめ、役員と部長にプレゼンし、次フェーズから実践フェーズに入る構想であった。しかし、後ろ盾の役員は定年退職し、残った部長たちは、理想論より足もとの諸問題の解決に目線がいっていて、ヤスオの構想は空回りしてしまった。人を動かすには熱い情熱と粘り強い信念が欠かせない。教科書通りの正論は受け入れられない。時には飲みながら議論し、人間力で人を巻き込みことも必要である。そこはヤスオが最も苦手とするところであり、自らプロジェクトを終了させ幕を降ろした。それでもサラリーマンとして自分のやりたい企画を立ち上げ、自分のできることをやりきったことは本当に幸せな時間だった。


 プロジェクトを終わらせてからは事務方としてスタッフ業務に従事した。幹部からは重用され、役員と部長連中が出席する会議にもヤスオが出席し、取引先F社との定例会もヤスオが仕切っていた。決済班時代に返上した係長に復帰し、次は課長に昇進すると信じていた。ある部長が定年退職し、その業務を引継ぎながら課長昇進を確信していたが、結果はヤスオより若く、後から配属されたものが課長になっていった。彼は目立って優秀というわけではなく、無難なイエスマンであった。オープンでフラットなA社で育ったヤスオには上司の指示を鵜呑みにするという感覚はない。納得できない指示は拒否し、ときには別の案や施策を提言した。しかし、縦社会の銀行系列会社において、指示を聞かない部下はやっかいな存在でしかなかったのであろう。事務方として重用されながらも役職につくことはないのだと悟った。

 人生において目指すところは富と名声、サラリーマンにとっては昇給と昇進である。しかし、E社時代に大幅減給され、そのまま出向先で昇給することもなく、そして昇進からも見放されたヤスオは自暴自棄になっていた。そうであれば、自由に好きなように振る舞うことを決めた。


 Eサービス社では女子と軽い遊びは多かったものの、社内では深い関係は控えてきた。しかし昇格がないと悟ったとき、思いを寄せるアサミという女子社員への歯止めはなくなった。彼女には10年前にE社から出向して決済班の職に就いたときから時から気になる存在であった。化粧も身なりも派手目で、男としては征服欲を刺激する女性であった。ただ20代の彼女にとっては40代のヤスオは異性という存在ではなかったはずだ。しかし、それから10年の歳月が経ち、30代になった彼女には心の隙間が生じていたようだった。彼女の仕事への不満や悩みを聞きながら、二人で会う機会が増えてきた。昇進がなくなり会社員としての自制心が効かなくなったヤスオは、二人で食事をしたあと中之島の川沿いを歩きながら、彼女への思いを告げた。川面にオフィスビルの夜景が怪しく映っていた。

 彼女は困惑し、手でヤスオを遠ざけながら、ヤスオの思いを明確に拒絶した。家庭があり、また年齢も大きくかけ離れた状況からは当然の結果であった。ヤスオは我に返り、浅はかな行為を自己嫌悪した。自分が恥ずかしく落ち込んだ。

 翌日の晩、予想しないことが起きた。彼女からLINEが届いた。恐る恐る見るとそこには「付き合ってみる」との文字が記されていた。彼女にどんな心境の変化があったのかわからない。驚きと嬉しさと欲望、そして家族に対する後ろめたさ、そしてこれから起こるであろう予測不能なことへの不安と恐怖で頭は破裂しそうであった。しかし、サイを振ってしまった以上、もはや後戻りはできない。 

 

 派手で活発な雰囲気のアサミであったが、実は男性経験はあまりないようだった。女子校を卒業し、男子の少ない事務センターで働く彼女は、自分から出会いを求めて行動するほど積極的な性格ではなかったのだ。初めて男子に告白され、まだ知らない世界の誘惑に負けたのだった。高校生が初めて異性と付き合うような淡い関係になった。仕事終わりに、裏路地でこっそり落ち合い、土佐堀川や堂島川沿いを手をつないで散歩するような付き合いであった。ヤスオも20代の頃の純情だったころの感覚を思い出しその世界に酔い、そして溺れた。歳を経ても恋愛のときめきは消えることはない。

 


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