第2話 ガラスの錦鯉御殿 建設業者の栄華 その2

 建築業界のピラミッド社会に身をおいたヤスオであったが、望んでいた落ち着いた平穏な生活は手に入れることができた。D社の営業所は20時で閉められたし、休暇中に仕事の連絡が入ることもなかった。提案書を作成することもなく、特約代理店との人間関係ができてしまえば、商品は流れ売上は上がった。

 プライベートでは子どもたちが幼稚園に入り順調に成長していき、充実した30代を過ごしていた。IT業界時代には得られなかったワークライフバランスが保たれた。その一方、仕事において物足りなさは感じていた。知的好奇心が満たされることのない日々。新聞といえば、A社では日経新聞を指していたが、D社の所長はスポーツ新聞片手に出社してきた。そして幹部社員は土日はゴルフで真っ黒に日焼けし、ゴルフ帰りにわざわざ夜の街に繰り出していた。業務中にも呑み屋のママから電話がしばしば掛かってきた。彼らをみてヤスオは自分の将来像を描くことはできなかった。

 中堅社員になったヤスオは経営というものに関心が生まれていた。おカネがどのように回っているのか、工事店の社長は何故皆高級車に乗っているのか?水回り機器でシェアが2位のD社にふさわしいマーケティング戦略は何か?そのような疑問を感じる中で、会社が費用を援助する通信講座で、経営を体系的に学習できる経営コンサルティング資格の講座を受講することにした。

 テキストを手に取ってみると今までわからなかったことが理論的に把握できて、霧がすっきり晴れていくような実感があった。人間はモノサシを使って始めて物事を認識することができる。例えば、体がだるいという感覚があったときに、体温というモノサシで計測することで状態を把握できる。その他に、腹痛の有無、喉の状態等のいくつかのモノサシに照らし合わせ、総合的に状態を判定できるのである。経営にもそのようなモノサシ、指標、フレームワークといったものがたくさんある。「なぜ、会議は盛り上がらないのか?」このような疑問に対し、モチベーション理論やメンバーシップ理論から根拠ある説明が導けるようになった。ヤスオは通信講座だけでは物足りなくなり、ボーナスを投じてその資格試験の予備校に入学することにした。映画に1500円払うのであれば、講義1コマに同額を払うことは高くはなかった。実際、講義は面白くためになった。テストで好成績をとることも気持ちよかった。頭脳労働であったIT業界からD社に入ってあまり頭を使わない日々になり、知識に飢えていた。砂に水が染み渡るように、テキストの内容を吸収していった。

 そうなると試験にも合格したいという欲が出てきた。一次試験は8科目の学科、二次試験は仮想企業に対する経営診断と改善提言の論述であり、合格率は4%を切るものであった。大学受験よりはるかに難関であった。ヤスオは勉強時間を確保するため、自動車を使用した営業回りをやめ、電車とバスで取引先を訪問し、車中でテキストを読み込んだ。土曜は予備校に通い、日曜は公園で子どもたちを遊ばせながら。木陰で財務の問題集を解いた。このような生活を半年続け、ヤスオはその年に一次試験に合格した。翌年は二次試験にも合格した。論述試験では、いわゆるゾーンに入り、どんどん勝手にペンが動いた。試験後は歩くのもやっととなるくらい疲労した。二次試験合格のあとは、10日間の実習があった。6人のチームで実際の企業の経営診断と改善提言をまとめるものである。ここでは、連日深夜まで議論し、資料を作成した。ハードではあるがレポートが完成したときはすがすがしい充実感を味わった。

6人の内訳は、金融関係3名、流通1名、公務員1名とヤスオであった。ここで議論しながら、自分は他業界でもやっていける、という自信が芽生え、かつIT業界時代のシゴトへの熱狂の日々も懐かしく思い出された。この資格に受かってしまったことが、ヤスオを想定外の道に導くことになる。

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