第2話 ガラスの錦鯉御殿 建設業者の栄華 その1
IT業界にて激しい競争に身を置くヤスオは心身疲れ切っていた。深夜残業と休日出勤の連続。企業の頭脳を司るという充実感と使命感はあるものの、平穏な時間がほしい。自分の長時間労働も辛いが、営業として技術者たちにそれを強いることはさらに苦痛であった。産まれたばかりの子どもの寝顔を見ながら、ゆったりできるシゴトに就きたいと感じていた。ただし、具体的にやりたい職業や目指す将来像があるわけでもなかった。
ある日、営業まわりで二ツ橋周辺を歩いていると、あるギャリーのポスターが目に入った。何気なくドアを開け、ギャラリーのある2階に足を運ぶと、東欧の木造建築物の展示になんともいえない落ち着きを感じた。ここは、住宅水回りメーカーD社のショールーム兼ギャラリーであった。SIS、CRM、ERPという無機質な三文字が並ぶIT業界とは異質の空気があった。その後、日経新聞の求人欄に同社の募集をみつけ、俄然興味がわいてきた。たまたま東京出張の機会があり、六本木にあるD社のショールームも覗いてみた。ちょうどバブル最盛期、海外製のまるで美術品のようなあでやかな水回り製品が目を引いた。人魚のかたちのタンクと貝殻を模したトイレ、金メッキのアクセサリーのような水栓金具・・・大学時代美術部に在籍し、アート好きのヤスオは直感的にここで働きたいと思った。
1ヶ月後、D社の中途採用に通ったヤスオはA社および所属するソフトウェア子会社に退職を申し入れた。両社から引き留めの言葉はもらったものの、D社の美の世界に心を奪われたヤスオはD社へ仕事場を変えた。
D社の営業所に配属されたヤスオを待っていたのは、アートの世界ではなく鬼軍曹の所長の洗礼であった。品格があり人当たりが柔らかい前職のA社とは社風が全く違っていた。営業所は騒々しく電話が鳴りっぱなしで、それ以上にうるさいのは所長の怒号であった。「電話を取れっ!!」「営業はさっさと外へ出ろ!!」
コンピュータのA社と建築資材を納入するD社は忙しさの質が全く異なる。A社の最低価格商品は100万円のパソコン、商談は億円単位であった。しかし、D社の扱い商品は高くても数十万円、マンションのような物件でも数百万円足らず、さらには10円ほどのパッキンやネジなどの部品も扱っている。安価でありながら、図面を送れとか、20年前の水栓金具の部品番号を調べろとか、手間がかかることが多い。
建築業界は、工務店の下に電気工事やガス工事、内装工事、水道工事等の各種工事店が位置する。D社が製造する水回り製品は、工務店が決定することもあれば、水道工事点が決定することもある。いずれにしても、メーカー直販ではないので、特約代理店という卸問屋を通じて納入する。そこで、D社の営業は、工務店や水道工事点を回っては、商品のPRを行う。特約代理店と同行訪問することもある。鬼軍曹の所長からは外に出て営業しろ、と号令が出るが、実際のところ、真面目に営業しても、そうでなくても売上成績は大きく変わらない。工務店や工事店ごとに扱うメーカーや商品はほぼ固まっているので、商品PRはあまり意味はない。では、工務店や工事店が扱う商品はどのように決まったかというと、日々やり取りする特約代理店の担当者との人間関係と値段である。したがって、メーカーに求められるのは、仕切り価格の値下げだけである。ヤスオはD社に入社以来、「安くしろ」という単語しか聞いていない。
会社という組織は常に売上拡大やシェア拡大を求められる。しかし競合会社も必死に努力しているわけで、革新的な商品開発が無い限り、売上もシェアもほとんど動くことはない。しかし業績アップのノルマはあるので、毎年のように◯◯セールという安売りが繰り返される。値段を下げて特約代理店やその先の工事業者の倉庫に商品を押し込む。一時的に売上は増加するが、総需要が増えるわけではないので、セールが終われば売上は落ちるという愚策である。あるいは、別々の特約代理店を担当する社内の営業マン同士が値段を下げあって自分の売上を確保するというような無意味な行いもあった。一部上場企業のマーケティングのレベルの低さに失望した。
幹部は施策を本部にPRしたいので、イベントも企画し開催される。関西全体の営業マン15人ほどが日本海に面した某地方に集結し、地元の特約代理店と一緒に工事点を一斉訪問するというローラー作戦が実施されたこともある。正直言って特約代理店としては普段の工事店との関係が荒らされるので迷惑だったに違いない。地元の年配の営業マンは午前中はヤスオを連れて工事店をまわったものの、午後には山の展望台に営業車を停めた。「君たちもこの景色を眺めて、深呼吸したらいい」まだ若く会社での競争意識に染まっていたヤスオにはその言葉の意味はわからなかった。
特約代理店との同行営業で水道工事店を回ると、建築業界独特の雰囲気があった。個人事業主を大きく二分すると、実直な職人タイプとド派手やんちゃタイプである。
ド派手やんちゃタイプは黒塗りのセダンに金メッキのエンブレムを誂え、やはり金のネックレスとキラキラの高級時計を身につけている。ヤスオが最も驚き、印象的だったものは、ある水道工事業者の錦鯉御殿である。その業者は事務所の2階に自宅があり、そこに招かれて応接室に通された。するとなんとその床はガラス張りで、その下には大きな錦鯉がゆらゆらと泳ぎ回っているのであった。その水槽は部屋から屋外の池まで続いていた。父が社長、息子が専務というその一家はふたりとも背が高く、がっしりとした体格で、父は角刈り、息子はパンチパーマ、顔は鬼瓦のようであった。決して悪い人ではなく、怖ろしい性格でもないのであるが、なぜか彼らからの依頼や要求は断れず、いつも従順に言うことを聞いていた。その業者とは数年の付き合いが続いたが、パブル崩壊後の建築不況のなかで、いつまにか夜逃げして消息不明となった。あのガラス床の下の錦鯉はどうなったのであろうか?
工事店に商品を納入する特約代理店の営業マンは、本当に過酷な労働を強いられていた。どこどこの現場にパイプ1本持って来てくれ、どこどこのマンション現場の各部屋に商品を配ってくれなど、事細かに依頼があり、彼らの携帯電話はいつも鳴りっぱなしであった。建築業界は工務店をトップとした縦社会であり、その下位の工事業者に商品を納める卸業者は本当に立場が弱かった。そこに商品を納めるD社は建築現場では大きい顔はできない。自然と腰が低くなった。世の中がピラミッド構造になっていること、個人事業者の浮き沈みがあることをヤスオは知った。IT業界で大手企業という社会の一面しか見ていなかったヤスオとって新しい発見であった。
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