第11回

   ***


 放課後、大樹は自転車を走らせながら、村田から言われた言葉に、真剣に思い悩んでいた。


 卒業するまで、あと二年。まだまだ時間はあるように感じるけれど、それでも二年しか相原と一緒に居られる期間はないのだ。その二年間を、自分はいったい、どう相原と過ごすべきなのだろうか。大樹は今日一日、ずっとそればかり考えて授業に集中することができなかった。


 村田の言う通り、相原に告白した方が良いのだろうか。そうすれば、もしかしたら恋人同士になれるかもしれない。この二年間、もっと多くの時間を相原と過ごせるようになるかもしれない。確かにフラれてしまい、今の関係を失ってしまうことになりかねないけれど、そもそも二年後には失われてしまうかもしれない関係と考えてしまえば、或いは賭けに出てしまっても良いような気もしなくはなかった。


 今のこの曖昧な関係を失うことに対する恐怖に打ち勝つ必要はあるが、その見返りはとても大きく魅力的だ。村田と矢野のように、休みの日に一緒に出かける、なんてこともできるようになるかもしれない。そう考えると、相原に告白してみるのもありかもしれない。それに、告白したからと言って、今の関係が絶対に失われてしまうとは限らないのだ。ダメで元々、試してみる価値はあるのではないだろうか。


 大樹の中で、告白する決意が芽生え始めた、その時だった。


「――ん?」


 横断歩道で信号待ちをしていると、背後にピッタリと、くっつくように立つ人の気配に大樹は気付いた。


 ふうふうと息遣いのようなものも感じられて、大樹は思わず後ろを振り向く。


 ――誰も、いなかった。


 そこには大樹以外、誰の姿も見えなかったのだ。


 気のせいか、と首を傾げて、大樹は顔を前へ戻す。


「……えっ」


 不意に視界に入ったカーブミラーに一瞬、自分の背後に佇む黒い人影が映っていたような気がした。



 ――ぴちょんっ



 耳元で、水が滴るような音が聞こえる。


 大樹はもう一度、後ろを振り向いた。


「……」


 そこにはやはり、誰もいなかった。


 もう一度カーブミラーに視線を向ければ、確かに自分の姿しか映っていない。


 気のせいだろうか。確かに今は息遣いも聞こえないし、気配ももう感じなかった。


 けれどこの感覚を、大樹は経験として覚えていた。


 宮野首や矢野、村田たちと関わってきた、死者たちとの対峙。


 あの時の感覚に、それはとてもよく似ていた。


 人ならざるものが、確かに今、そこに立ち、大樹を見ていた。


 気のせいだと思いたい。少なくとも、高校に入学してからの一年間、大樹は平穏無事な日々を送ってきた。宮野首たちは今も時折そのような怪異に遭遇しているらしいけれど、今では対処法が解っているからか、中学生だった頃ほど難儀することもなくなり、わざわざ四人が集まるようなこともなくなっていた。


 だから、大樹もあの感覚を、この一年でいつの間にか忘れていた。


 その感覚が今、再びよみがえり、思わず戦慄する。


 そんなはずはない。気のせいに違いない。そもそも自分には、霊感というものは一切ないのだ。死者の存在を明確に感じ取れるはずがない。


 信号がパッと青にかわり、大樹はペダルに足を乗せた。ぐっと力をこめ、今一度カーブミラーに視線を向ける。


 ……大丈夫、誰もいない。


 それを確認してから、大樹はほっと胸を撫でおろした。


 やはり気のせいだったのだ。相原との関係を考えるあまり、自分の心そのものが変にナイーブになっていただけに違いない。不安が不安を呼び、ありもしないものを見たり聞いたりしてしまったのだ。そうに違いない。


 大樹は自分に言い聞かせるようにしながら、自転車を漕いだ。


 いつもの走り慣れた帰路を進みながら、けれど一抹の不安が胸をよぎる。


 なんだろう、何がこんなに僕を不安にさせるんだろう。


 その正体がわからなくて、ざわざわして、大樹は今一度自転車を止めて、背後を振り向いた。


「――っ」


 その瞬間、大樹は息を飲みこむ。


 数メートル後ろに、ひとりの男が立っていた。


 デニムのジーンズに、バンドか何かのロゴが印刷された白いTシャツ。その上から黒いパーカーを羽織り、目深にフードを被ったその男は、じっと大樹を睨むように見つめていた。


 その男の顔に、大樹はまさか、と眉間に皺を寄せる。


 一年ぶりに会ったその男は、あの頃よりほっそりとした体躯で、気持ちが悪いほど青白い顔をしていた。


 なんで、どうしてこんなところに、今さら。


 男は大樹をじっと見つめながら、にやりと口元に笑みを浮かべる。


「……木村大樹」


 その口が、湿ったような声を漏らすように、そう言った。


 ぞくりと背筋に悪寒が走る。自分の名前がそんなふうに口にされたことに、言い表しようのない不快感が襲ってきた。まるで呪いの言葉を吐かれたようで、気持ちが悪い。


「……小林くん」


 大樹も思わず、男の名前を口にした。


 視線が交わり、妙な緊張感に大樹は身構える。


「久しぶり」と小林は消え入るような声で、「元気そうだな」


「まぁ、一応。怪我もすっかり治ったし」


 何だろう。今さらいったい、何の用があって、僕の目の前に。謝罪しに来た――という雰囲気では全然ない。笑みを浮かべたその顔は、まるで大樹を嘲っているように見える。


「相原さんとも、相変わらずみたいだな」


 相原の名前が出てきたことに大樹はゾッとし、

「……何が言いたいわけ?」

 緊張しながら訊ねる。


 まるでこの一年間、ずっと自分と相原の関係を見てきたようなその物言いに、恐怖を感じた。


 小林は「別に」と小さく笑い、

「さっさと告白して、フラれてしまえばいいのにって、思ってるだけ」


「……それを言うために、わざわざ僕のあとをつけて来てたの?」


 鎌をかけるように大樹が問うと、小林は否定することも肯定することもなかった。ただその顔から表情を消失させて、

「――お前さえいなければ、相原さんの隣にいたのは、俺だったんだ」

 吐き捨てるように、ぎろりと大樹を睨みつけた。


 大樹はそんな小林に、けれど動揺していることを悟られないよう、

「自業自得だろ?」

 睨み返しながら、言い放つ。

「それは小林くんに問題があっただけで、僕のせいじゃないはずだよ」


「――黙れ」


 押し殺すような声が、すぐ耳元に響いた。のみならず、いったいどうやって近づいてきたのだろうか、すぐ目の前に小林の顔があって、大樹は眼を見開いてのけぞった。自転車から転げ落ちそうになるのを、足を踏ん張って何とか耐える。


 今、何が起こった? どうして、こんな間近に小林の姿があるんだ。たった今まで、数メートル先に立っていたじゃないか。なんで、どうして。


「……まぁ、いいや」

 小林は再び口元に笑みを浮かべて、数歩後ずさりながら、

「もうすぐ相原さんは、俺のモノになるんだから」


 確信したようなその物言いに、大樹はじっと小林の眼を見つめる。


「……何をするつもり?」


「別に、何も?」

 小林は手を振り、大樹に背を向けた。

「俺は何もしないよ。他のみんながやってくれるから」


「他のみんな? 誰のこと?」


「さぁ? 俺もよく知らないんだよね」


「知らないって――」


「今日はさ、ただお前に予告しておこうと思って会いに来ただけ」小林は大樹の言葉を遮るように口を開く。「せめてもの、俺からの優しさだと思ってよ。心構えくらい、必要だろ? 大好きなものを奪われるんだからさ」


「……えっ」


 それじゃぁ、またな。小林はそう言って、言葉の出ない大樹をよそに、すぐ脇に続く側道の方へと姿を消した。


 大樹はその後ろ姿が見えなくなるまで、ただじっと、その背中を見つめ続けることしかできなかった。

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