第8回

   ***


 石上麻衣は比較的裕福な家庭に生まれた少女だった。


 父がいて、母がいて、兄がいて――家族四人、駅前高層マンションの上階に暮らしていた。


 仲が良い家族か、と問われれば、麻衣は「比較的仲の良い家族だ」と答えるだろう。


 父と母はいつもにこやかに会話をしているし、県内の国立大学に家から通っている兄も、これまで一度も思春期らしい反発を見せることなく、とても性格の良い青年に育っていた。


 休みになればいつも遠くへ出かけたり、映画を観に行ったり、演劇を鑑賞しに行ったり。


 それはとても理想的な家族の姿で、どこにもケチなど付けられないような、とても幸せそうな一家だった。



 ただひとり、麻衣を除いて。



 幼いころから、麻衣は父からも母からも、そして兄からも、まともに相手にされた記憶はまるでなかった。


 保育園に通っていたときも、母が迎えに来たのは兄だけだった。


 麻衣は保育園にそのまま置き去り。


 兄は父と母と三人で、どこかへ出かけてばかり。


 改めて麻衣を迎えに来るのは、閉園時間ギリギリか、或いは閉園時間を過ぎてからのことだった。


 理由は解らない。三人がどこへ行っていたのかも麻衣は知らない。


 ただ保育園に残されて、先生に「どうして私は連れてってもらえないんだろう」と何度も泣いた覚えがあった。


 いつだったか保育園の先生が、母にその理由を訊ねてくれたことがあった。


「妹の麻衣は一緒に映画館や演劇に連れて行っても泣いたり騒いだり煩いから、連れていくことができないんです」

 母は保育士に、そう答えていた。


 嘘だ、とこのとき麻衣は思った。


 泣いたり騒いだりなんてこと、麻衣は一度もしたことがない。


 そもそも、それまで一度だってどこにも連れて行ってもらったことがないのだから、泣きようも騒ぎようもあるはずがない。


 どうしておかあさんは嘘を吐くのだろう、どうしてお兄ちゃんばかり色々な所へ連れて行って、私を保育園に置いていったりするのだろう。


 ある日、麻衣は父にお願いした。


 絶対に泣かないから、騒がないから、私もお兄ちゃんと一緒に遊びに連れていってくれないか、と。


 けれど、父は首を縦には振らなかった。


「お前はお兄ちゃんの勉強の邪魔になるから、連れていくことができないんだよ」


「邪魔なんてしない。絶対にいい子にしてるから!」


「ダメだ」


 ぴしゃりと言われて、それ以上、麻衣はもう何もいう気がなくなった。


 たぶん、家族はわたしのことが邪魔なんだ。


 父も母も、何も言ってくれない兄のことも、麻衣は心の底から嫌いだった。


 仲が良いのは三人だけで、いつも麻衣はひとりぼっちだった。


 家にいても誰も話しかけてくれない。


 可愛がられるのは兄ばかりで、麻衣は寂しさを紛らわせるように、保育園の先生に甘えるようになっていった。


 あるとき、保育園の先生が麻衣の顔をムニムニしながら、

「麻衣ちゃんの笑顔ってとっても素敵だよね。すっごく可愛い!」


 わしゃわしゃと頭を撫でてくれたのがとても嬉しくて、麻衣は常日頃から笑顔でいようと頑張った。


 笑顔になれば、父も母も私を連れて行ってくれるかもしれない。


 そんなことを期待しながら。


 けれど、無駄だった。


 父も母も、そして兄も、例え麻衣がどんなに笑顔を向けたとしても、やはり誰も麻衣のことなど相手にしてはくれなかったのだ。


 そこに居るのに、まるで居ないように振舞う父母たち。


 何がいけないんだろう、どうして私だけ除け者なんだろう。


 どんなに悩んでも、けれどそれはどうすることもできなかった。


 麻衣の居場所は、保育園だけだった。


 笑顔でいれば、保育園の先生も、他の園児たちも、笑顔で麻衣の相手をしてくれた。


 麻衣はいつしか誰からも好かれようと、常におしゃべりと笑顔で人々を惹きつけるようになっていった。


 そうすることでしか、自分の承認欲求を満たすことができなかった。


 良い子であろうとした。嫌われないよう、良い人になるよう麻衣は努めた。


 誰からも相手にしてもらえる女の子を目指した。


 家族が相手にしてくれないのなら、家族の外に居場所を求めた。


 愛されるために、愛さなければならないと思うようになっていった。


 保育園を卒園して、小学生になって、中学生になって、相変わらず家族に居場所はなかったけれど、麻衣には沢山の友達ができていった。


 もう、寂しくなかった。独りじゃなかった。


 どこに行っても友達がいた。友達となら、どこにでも行くことができた。


 父と母と兄と、家族で出かけるなんてことは結局一度もなかったけれど、それでも別に構わなかった。


 何故なら、麻衣には自分を愛してくれる友達が沢山いたから。


 家なんて、ただ眠りに帰るところ。


 朝早くに学校へ行って、夜遅くまで友達と遊んで家に帰る。


 父も母も、そんな麻衣を叱ったりなどしなかった。


 ふたりの意識は、いつまでも兄にしか向いていなかったから。


 それなら、どうして私を産んだんだ。


 時折麻衣はそんなことを考えて悲しくなったが、けれど友達と居ればそんな悲しい気持ちも忘れることができた。


 父も母も、親としての最低限の義務を果たすばかりで、それ以上のことを麻衣にしてくれたことなんて一度もない。


 でも、それで十分だった。


 逆に言えば、それは何をしても自由ということでもあったからだ。


 父や母、兄に迷惑をかけなければ、何をするにも許してもらえた。


 無関心に対する感謝。


 麻衣の中にあるのは、ただそれだけだった。








 玲奈はそんな石上を視ながら、眉を寄せた。


 石上の中に渦巻く孤独の闇に、言い知れぬ気持ちを抱いた。


 なんで、どうして、石上さんのお母さんもお父さんも、彼女をもっと愛してあげられなかったのだろうと心を痛めた。


 玲奈は大きくため息を吐いて、俯く石上の姿を見つめた。


 石上に首を絞められた玲奈の意識は、気付くと彼女の中にあった。


 まるで走馬灯か何かのように、玲奈の前には石上の過去が映し出される。


 或いは古い映画を観ているように、時折ノイズが走っては、場面がどんどん進んでいった。


 ここがいったいどういう空間なのか、玲奈にはまるで解らない。


 けれど、数年前のお化け桜のときを境に、時折死者の中の記憶に触れることが玲奈にはあった。


 だからたぶん、ここは石上の記憶の中。


 もしかしたら、魂の内側。


 玲奈の目の前には、俯く血まみれの石上が立ち尽くしており、至る所に彼女の記憶の場面が視えた。


 やがて石上は高校に入学し、友達と放課後に遊び回るようになっていって、

「……あの人に、会ったんだ」

 ぼそりと、石上がそう口にした。






 二年生に進級して、しばらく経った頃のことだった。


 友達とカラオケに行ったときに、誰かの紹介で、大学生の男子グループと一緒に遊ぶことになったのだ。


 どこの大学生かも知れない若い男の人たちと、麻衣は歌って騒いで、ゲームセンターに行ったりして、妙にハイテンションになっていた。


 あぁ、こんなに楽しい時間、生まれて初めてかも知れない。


 こんな時間が、いつまでも続けばいいのに。


 そんなふうに思っていると、

「そろそろ夜遅いけど、両親に連絡しなくて大丈夫?」

 そう話しかけてきたのが、彼だった。


 明るめのブラウンの髪、細身だけれど、黒い半袖シャツから覗く二の腕は鍛えているのかとても逞しかった。常に笑顔を浮かべていて、ぱっと見はとても優しそうな男の人。それが麻衣の受けた印象だった。


「大丈夫だよ!」と麻衣は笑顔で答えた。「うち、その辺めちゃくちゃ甘いから」


「そう? でも、まだ高校生でしょ? あんまり遅くならない方が良いと思うんだ」


「だーかーらー、大丈夫だってば」


 するとその青年はにっこりと微笑んで、

「僕が心配なんだよ。家まで送っていくから、もう帰ろうよ」


「え? でも、みんなまだ遊んでるし」


「僕が、キミと一緒に帰りたいんだ」


 そう言われて、青年はじっと麻衣の瞳を見つめてきた。


 そしてその瞳に、麻衣はもうそれ以上、何も言うことができなかった。


 麻衣と青年は友人たちに別れを告げて、先に帰宅の途に着いた。


 といっても、麻衣の家は駅前のマンションだし、遊んでいた場所からそんなに距離は離れていなかったのだけれど。


 麻衣は青年と色々な話をしながら夜道を歩いた。


 好きな芸能人は誰か、好きな歌はどんな曲か、学校では今何が流行っているのか、それから、家族の話。


 青年は常に笑顔で麻衣に応えてくれた。


 それが嬉しくて、自然と家族に対する不満が漏れる。


 その一言一言に、青年は頷いたり励ましたり、同情してくれたり、何だかとても心許せる人だなと麻衣は思った。


 そうしてマンションの前に辿り着いた時、青年はいった。


「今度、いつ会えるかな」


 寂しそうなその表情に、麻衣は答える。


「――いつでも」


 そうして麻衣は、自分の連絡先を彼に教えた。






「それが、いけなかったの」


 石上は拳を握り締めながら、大きく映る青年の顔を睨みつけた。


 玲奈はその青年の顔を見ながら、ただただ気味の悪い笑みだと思った。


 まるで何かを企んでいるような、裏がありそうな作り物めいた奇妙な微笑み。


 そこには善意や好意など微塵も感じさせず、ただその瞳に、身の危険を玲奈は感じた。

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