第7回

  7



 静かな夜だった。窓の外からは虫の声や車の走る音すら聞こえてはこず、部屋の中はただふたりの寝息だけで満たされていた。壁際に横たわる玲奈のすぐ隣では、桜がすうすうと眠っている。


 最初玲奈は、桜がまたふざけて身体を触ってくるんじゃないかと警戒してなかなか眠れなかったが、けれど予想に反して、桜は早々に寝入ってしまった。そんな桜に玲奈は心中、なんだか変に警戒して悪かったな、と反省しつつ、うつらうつらと自分も夢の中へと旅立とうとしていた。


 隣に仲の良い友達がいて、そればかりか一緒の布団で眠っていることに違和感を覚えながらも、けれどそれがとても心強くもあった。布団の上で眠ってるコトラだけでは心許ない、と言ってしまうとコトラにもまた失礼かもしれないけれど、やはり人数は多い方が安心できることに代わりはないのだから。


 今のところ、あのスーツの男の気配はない。


 今もこのマンションのどこかに潜んでいるのは間違いないのだけれど、或いはこのまま明日まであの男が動くことはないかもしれない。


 そんな根拠のない期待を抱きながら、玲奈はいつしか眠りに意識を手放して――


「……んっ」


 何度目かの寝返りを打ったとき、その違和感に気が付いた。


「……あれ? 桜?」


 隣で眠っていたはずの、桜の姿がなくなっていたのである。


 玲奈は思わず眼を見開き、上半身を起こした。


 部屋の中を見回してみても、どこにも桜の姿はない。


 こんな夜更けに、いったいどこへ行ってしまったのだろう。


 なんとも言えない小さな不安が胸に沸いた、そのときだった。




 ――ぴちょんっ




 水の滴るその音が、部屋の中に響き渡った。


 瞬間、玲奈は身体を強張らせる。


 布団の上で眠っていたコトラも飛ぶように起き上がり、グルグルと唸り声を発した。


「――玲奈さん」

「……うん」




 ――ズルズルズル、ぴちょんっ




 何かを引きずるような音と、すぐ近くで水が地面に落ちる音。


 次いで、バンッ! バンッ! とどこかから大きな音が聞こえてきた。


「な、なにっ?」


「わかりません。けど――あっ! 窓の外!」


 コトラの叫ぶ視線の先――マンションの廊下に面した窓の方に、カーテン越しの人影が映し出された。


 その背格好は明らかにあのスーツの男そのもので、玲奈は布団を首元まで引き上げ、ぎゅっと自分の身体を抱きしめる。


 玲奈とコトラはじっとその窓の向こう側に立っているのであろう人影を緊張しながら見つめていたが、やがて、




 ――かちゃんっ




 かけていたはずの窓の鍵が、ひとりでに開錠される音がした。


「こ、コトラ!」


 玲奈の叫びに応えるように、コトラは今にも飛びかかっていけるよう態勢を整える。


 しんと静まり返った暗い部屋の中で、窓の外から差し込む淡い光と不気味な人影が、玲奈の恐怖を大きくしていく。


 そして。




 ――カラカラカラ




 窓がゆっくりと開けられて、カーテンが吹き込む風にぱたぱた揺れた。


 ぼんやりとした廊下の蛍光灯がその先にちらりと見えて、そしてその灯りの下に、あのスーツの男が、にやにやと気味の悪い笑みを浮かべながら立っていた。


 その姿を眼にした途端、玲奈の全身に怖気が走った。ぎゅっと布団ごと自分の身体を抱きしめる腕に力を込めて、自ら身を守ろうと壁際に背中を寄せる。


 スーツの男は可笑しそうにくつくつ笑むと、面格子の隙間から玲奈に向かって腕を伸ばすような仕草を見せて――




『ガウウウウウッ!』




 その瞬間、男に向かってコトラが飛んだ。


 コトラは面格子をすり抜けるように外の廊下に躍り出ると、男の伸ばした腕に力いっぱい噛み付いた。


 男は叫び声をあげ、大きく腕を振ってコトラの牙から逃れると、一目散に廊下を走って逃げだした。


 そのあとを、コトラが全速力で追いかけていく。


「こ、コトラっ!」


 玲奈の視界から、完全に男とコトラの姿が消えた。


 ただ目の前に見えるのは、開け放たれて生暖かい風の吹く窓と、面格子の向こうに見える、ぼんやりとしたマンションの廊下だけだった。


 玲奈はひとり部屋に取り残されながら、ほっと安堵のため息を漏らした。


 コトラのおかげで、何とか難を逃れることができたようだ。どこまであの男を追いかけるつもりなのか判らないけれど、とりあえずまずは落ち着こう。


 玲奈は深い深い息を吐くと、大きく息を吸い込んで、

「……桜」

 居なくなった桜のことを思い出して、もう一度部屋の中を見渡した。


 やはり、部屋の中のどこにも桜の姿は見えない。ベッドから転げ落ちているんじゃないかと床の上も覗き込んで見たけれど、そこにも寝転がってる姿は見当たらなかった。


 もしかして、トイレにでも行っているのだろうか。


 思い、玲奈は気になってトイレに行ってみようと、ベッドから起き上がろうとしたところで、




 ――ガシッ




 後ろから、腕を掴まれるような感触があった。


「……どこへ行くの?」


 背後から聞こえてきたその声に、玲奈は一瞬、安堵する。


 あぁ、後ろにいたんだ。だから姿が見えなかったんだ。もしかして、寝ぼけて寝る位置が逆になっちゃったのかな?


 そんなことを考えたけれど、すぐにそんなことはあり得ないことに玲奈は気付く。


 何故なら、玲奈の背中にはただ、壁があるだけなのだから。


 玲奈は息を飲んだ。眼を見張り、どくどくと心臓が激しく鳴る音を全身で感じた。


 とても生臭いにおいが鼻を突いた。何かが腐ったようなにおいだった。


「逃がさないから」


 耳元でその声が聞こえた瞬間、玲奈は叫び声をあげそうになった。


 あげたかった。叫びたかった。


 けれど、玲奈の口を、もう一つの手が強く塞いで叫べなかった。


 どんっ、と玲奈の身体が何者かによってベッドの上に押し倒されて、玲奈はその何者かから逃げようと、這うようにしてベッドを抜け出そうとして、

「逃がさないって言ってるでしょ?」

 抗うことのできないその力に、再びベッドの上に引きずり上げられる。


 玲奈は仰向けに身体を抑え込まれ、うめき声をあげながらじたばたと身体を暴れさせた。


 けれど、その抵抗も何者かの前には無力に等しかった。


 その何者かは玲奈の身体を押さえ込むように馬乗りに跨り、玲奈の口を塞ぎながら、

「……やっと、やっと、やっと!」

 嬉しそうに口元を歪ませながら、大きく目を見開き玲奈を見下ろす。


 それは酷い有様の少女だった。玲奈は眼を大きく見開きながら、その少女の姿を見つめる。


 右瞼は大きく腫れあがり、右目を完全に隠している。鼻は異様な角度でねじ曲がっており、鼻血が大きく腫れた上唇を伝って口の中へ入っていた。その歪んだ笑みを浮かべた口の中に並ぶ歯も何本か折れて真っ黒に染まっている。下顎が歪んで見えるのは、恐らく外れているからだろうか。そしてその首にははっきりと手の形をした痕が残されており、この少女が暴行の末に首を絞められて殺されたのであろう死者であることは明白だった。


 そんな少女の姿に玲奈は一瞬、油断した。


「――あっぐうぅ!」


 その隙を突くように、少女が玲奈の首を力いっぱい、両手で絞め殺そうとしてきたのである。


 少女はニタニタと嬉しそうに笑みをこぼし、玲奈にぐいっと顔を近づけながら、

「……ねぇ、あなたの身体を、あたしにちょうだい? だって、あなたとは水が合いそうなんだもの。ねぇ、良いでしょ? あたし、こんなに早くに死んじゃったんだよ? 誰のせいだと思う? えっと――誰だったっけ? 髪の長い、綺麗な子。とても大人っぽくて、だけどどこか不気味で怖くて……ううん。でも、もう、そんなのどうでもいいか。だって、あなたの身体を貰えれば、あたしはもう一度生き返れるんだもの! そうしたら、やりたかったこと、全部全部好きなだけやって、今度こそ幸せになってやるの! ほしかったけど手に入れられなかったものを、全部全部手に入れてやるの! だから、ねぇ? あたしにあなたの身体をちょうだい? ちょうだい、ちょうだい、ちょうだい、ちょうだい! 早くその身体をあたしに寄こせぇえええぇぇ!」

 少女は叫び、玲奈の首を容赦なく強く絞めながら、玲奈の目の前にその顔を近づけてくる。


 生臭い息の吹きかかるなか、玲奈は必死にその手を振りほどこうと少女の手を掴んで、ふと少女の顔に見覚えがあることに気が付いた。


 ……あれは、そうだ。昨年、高校一年生のとき。


 同じクラスだった、可愛らしい、おしゃべりな少女――石上麻衣。


 だけど、なんで彼女が?


 彼女は確か、自主退学したと当時の担任が言っていたはず……


 それが、なんで、どうして、こんな姿で、私の前に――


「――あっ――がっ――」


 けれど、そんなことを考えているうちに、玲奈の意識は次第に遠く遠くへ薄れていって――やがて真っ暗な闇の中に、玲奈の意識は落ちていった。

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