第9回

 彼の家を訪れたのは、それから間もなくのことだった。


 毎日のように放課後に会って、話をして、そして夜遅くに帰宅する。


 しばらくそんな関係が続いたある日、彼の方から家に誘ってくれたのだ。


 麻衣はこの青年に、少なからず好意を抱くようになっていた。


 顔に笑みを湛えながら、その裏に見え隠れするミステリアスな雰囲気に心惹かれたといっても良いだろう。


 彼は麻衣が話す家族の愚痴を真摯に受け止め、けれど家族のことを貶すこともなく、ただ「そうだね」「大変だね」「寂しかったね」と受け止めてくれるだけだった。


 受け止めてくれるだけでも、麻衣はそれが嬉しくて仕方がなかった。


 だから、麻衣も彼を受け入れようと思った。


 彼と一緒なら、幸せになれると麻衣は信じるようになっていた。


 その日、ひとしきり彼の部屋で談笑していた麻衣は、ふと机の上に一枚の写真が置かれていることに気が付いた。


 それは家庭用のプリンターか何かで専用の用紙に印刷された少し画質の荒い写真で、そこに写っている人物の顔に、麻衣は思わず眉間に皴を寄せた。


「……なに? これ」


 麻衣が訊ねると、青年はくすりと微笑んでから、

「なかなかの美人さんでしょ? 春先くらいから、うちの前の峠道を行き来してるのを見かけるようになったんだけど、あんまりにも綺麗な女子高生だったもんだから、ついつい隠し撮りしちゃったんだ。気持ち悪いよね、ごめん」


 謝る青年に、麻衣は大きくため息を吐いて、

「……いいけど。あんまりいい趣味じゃないと思うな。こういうこと、もう二度としないでよね」


「しないしない」と青年は小さく笑ってから、「この子のこと、何か知ってる? 麻衣ちゃんと同じ制服だけど」


「確か、相原奈央さん。すっごい美人なのは認めるよ。あたしもこの子を見て、ついつい見惚れちゃったもの。けどさ、やっぱり一番気になったのは、あの廃墟の少女――喪服少女の正体が彼女なんじゃないかってことなんだよね」


「喪服少女の正体? 喪服少女って、この峠の上の廃墟に住んでるって噂の娘だよね?」


「そうそう。あたし、気になったからさ、こないだついつい相原さんに訊いてみちゃったんだ。あなたがあの喪服の少女なんでしょ、って。だけど、違ったみたい。相原さん自身は高校入学を期にこっちに引っ越してきた、ただの普通の女の子だったんだ」


「……へぇ、相原奈央、か」


 興味深そうに口にする青年のその様子に、麻衣は心にずんっと重くのしかかる何かを感じた。それがどういう感情なのかすぐには理解できなかったけれど、あまり気分の良いものではないのは確かだった。これまで自分に向けられていた彼の興味の対象が別に移ってしまったような気がして、何だか妙に焦りを感じる。


「――なに? 相原さんに興味があるの?」


「まぁね。良いよね、彼女。すごくそそられるものがある。実は昨日、うちの前で彼女の乗ってる自転車と衝突しそうになっちゃってさぁ。慌ててブレーキをかけた彼女がこけて、膝を怪我しちゃったんだ。おまけにほら、ハンカチまで落としていっちゃって。返してあげないとなぁって思ってたんだよねぇ……」


 その気味の悪い笑みを浮かべる口元に、麻衣はゾクリと寒気を感じた。


 青年の、見てはいけない一面を眼にしてしまったような気がして、思わず身を強張らせる。


 ちょっと良いなと思っていたけれど、何だか怪しい雰囲気に麻衣は初めて恐怖を感じた。


 何かがおかしい。この人、今、いったい何を考えているんだろう。相原さんに、いったいどんな感情を抱いているのだろう。


 それまで青年に感じていた感情とは相反するものが沸々と麻衣の中で沸き上がってきて、麻衣は慌てて鞄を引っ掴むと、すっと床から立ち上がった。


「……じゃ、じゃぁ、今日はもう帰るね」


「えっ? 帰るの?」


「う、うん、また来るね。それじゃぁ――」


 そう言いながら、麻衣はもう二度とこの青年に会う気はなかった。


 彼のまとっていた空気が、一瞬にして変わったような気がしたから。


 それはとても危険な空気。どうしてそんなものを感じたのか麻衣にも解らなかったけれど、このままここに居てはいけない、もう二度と彼に会わない方が良い。そう本能が判じていた。


 それなのに。


「――帰さないよ」


 麻衣の腕を、青年はがっしと掴んで離さなかった。


 えっ、と思って振り向いた瞬間、麻衣の頭に激しい衝撃が走った。


 目の前にたくさんの星が散って、身体が彼の部屋のベッドに倒れる。


 何が起こったのか判らなかった。


 何をされたのか、判らなかった。


「このまま帰すわけないだろ? 何のためにうちに入れてあげたと思ってんの? このまま、俺の気持ちが収まるとでも思ったの?」


 彼が何を言っているのか解らなかった。


 ガンガン響く頭の痛み。それは彼の拳が、麻衣の頭を強く殴りつけたものによる痛みだった。


 麻衣が緩慢な動きで自身の頭に手を伸ばそうとした瞬間、再び彼の拳が麻衣の顔面に飛んできた。


 その強い衝撃に、麻衣は叫ぶことも、呻くこともできなかった。


 何が起こっているのか、理解がまるで追いつかなかった。


 青年は麻衣の下半身を無理やり露にすると、容赦なく自身の欲望を麻衣の中に侵入させた。


 その激痛に、麻衣は口を大きく開けて声なき悲鳴をあげた。


 もはや考えることすら麻衣にはできなかった。


 何度も押し寄せては引き返しを繰り返すその痛みに、ただ耐えることしかできなかった。


 自分の身体の中に、何かが注ぎ込まれるような感覚があった。


 それが何かも、麻衣にはまるで解らなかった。


 麻衣が叫び声をあげて助けを求めようとするたびに、青年は麻衣の顔を強く殴った。


 麻衣がその両腕を振り回して抵抗しようとするたびに、がんっと腹を思い切り殴られた。


 身体中が痛かった。


 鼻が、口が、歯が、お腹が、股が、全てが痛くて何も考えられなかった。


 考えたくもなかった。


 やがて青年は麻衣の首に両手を伸ばすと、ぐっと力を込めて、その首を強く絞めあげた。


「はっ……ぐっ……がっ……!」


 麻衣は息をすることも、抵抗することもできなくて。


「あぁ、良いよ、その顔! もっと、もっと苦しめ! もっと俺を悦ばせてくれ!」


 青年は興奮しながら叫んでいた。


 悦び、嗤い、青年は麻衣の首をギリギリと絞め続けて――


 気づくと麻衣は、凌辱されながら眼を見開いて生き絶えた自分の身体を、上から見つめていたのだった。


 もはやどうすることもできない現実に、出るはずのない涙が浮かんだ。


 ……なんで、どうして、あたしがこんな目に遭わなきゃならなかったの?


 あたしがいったい、何をしたっていうの?


 青年は、すでに魂を失った麻衣の身体を、それでもなお執拗なまでに辱め続けた。


 それが生きていようが死んでいようが、青年には関係なかったのである。


 麻衣の肉体は、彼にとって、ただ快楽の道具にしか過ぎなかったのだ。


 彼はいつまでも嗤っていた。


 麻衣はいつまでも泣いていた。


 何もかもが許せなかった。


 すべては相原奈央の所為だと麻衣は思った。


 彼女がいなければ、彼女さえいなければ、あたしは……!





「あたしは相原さんが憎かった。殺してやりたかった。憑りついて、身体を奪って、生き返って人生をやり直したかった」


 玲奈の目の前で、石上は泣きながらそう訴えた。


「けど、できなかった……」

 石上は小さくため息を吐くと、

「あの女が、それを許してくれなかったから……」


「――あの女?」


 いったい、石上さんは誰のことをいっているんだろうか……?


 その瞬間、それまで視えていた映像に、再び激しいノイズが走った。


 そのノイズの向こう側に、玲奈はぼんやりとした人影を見る。


 それは、長い黒髪の女の姿。


 女はこちらに背を向けており、長い髪が風になびいて揺れている。


 その女の姿に、玲奈は相原奈央の姿を重ねた。


 あれは――相原さん? けど、何かが違うような……?


「相原さんの身体は、あの女が手に入れるって。あたしには別の身体を探してあげるからって」

 そこまで言って、石上はゆっくりと玲奈の方に振り返って、眼に涙を浮かべながら、

「だから、だからあたしは、一年間、待ちに待った! 水の合う身体を持つ人が現れるのを!あの女の命令に従いながら、ずっと! だから、だからあたしは――っ!」


「い、石上さん……!」

 玲奈は泣きじゃくる石上に対して、彼女の身体を受け止めるようにぎゅっと抱きしめると、 

「つらかったね……くやしかったね……」

 自身も涙を流しながら、そう石上の耳元で囁いた。


 その途端、石上の身体から、何か力が抜けていくような感覚があった。


「痛かったよね、苦しかったよね、悲しかったよね――もっと、生きたかったよね」


 玲奈の流したその涙は、石上の身体にぽたりと落ちて、流れ、光となって染み込んでいく。


「う、あっ……ああぁっ……!」


 石上もまた、嗚咽を漏らして泣きじゃくりながら、玲奈の胸に顔を埋めた。


 そんな石上の頭を、玲奈は黙って、優しく撫でる。


 いったいどれくらいの時間、そうしていたのだろうか。


 やがてひとしきり泣き続けた石上は、ゆっくりと顔を上げた。


「ごめんなさい、宮野首さん――あたし――あたしほんとは、こんなこと――っ!」


「ううん、いいの。もう、大丈夫だから」


 優しく微笑みかけた玲奈に、石上は――すでに生前の、あの元気だったころの姿で、

「だけど、あたし、これからどうすればいいの? どこへ行ったらいいの?」


「それは――」

 と玲奈が口を開きかけた、そのときだった。


 すっと白い腕が闇の中から伸びてきて、石上の手をそっと掴んだのだ。


「えっ……」


 石上は一瞬、怯えるような表情を見せたが、次いでその腕の主が姿を現すと、大きく眼を見張ってその姿をじっと見つめた。


 玲奈もまた眼を見開きながら、

「……麻奈、おねえちゃん?」

 驚き、呟いた。


 緋色の袴に千早を身にまとったアサナの姿が、そこにあったのだ。


 アサナは優しく微笑むと、玲奈にひとつ、頷いて見せる。


 恐らく、あとは任せろということだろう。


 あのお化け桜のときと一緒だ。


 あとはアサナが、石上を行くべき場所へ連れて行ってくれるということなのだろう。


 玲奈は不安そうな表情を浮かべる石上に顔を向けて、安心させるように微笑みを浮かべた。


 大丈夫、安心して、と。


 石上も不安そうな表情で、けれど玲奈の言葉を信じるようにひとつ頷き返すと、アサナに手を引かれて、闇の中へと姿を消して――





「玲奈! 玲奈!」


 その呼び声に、玲奈はハッと瞼を開いた。

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