第13回

 その惨状に、二人は激しく動揺した。元より気の弱い大家は、居間の廊下を挟んだ向かいに広がる庭のガラス戸を開け、外に向かって盛大に嘔吐した。谷は口や鼻を抑えながら、それでも必死に吐き気に堪えながら部屋を見回した。


 乾いた血糊の上を歩いた先の部屋の奥、台所へ続く襖を開け、恐る恐る覗き込んだ。けれどそこにも誰の姿も見あたらず、ただ汚いゴミがあちらこちらに散乱しているだけだった。そんな台所の左手奥には風呂場があり、谷はそちらも覗いてみたが、特に変わったところは何もなかった。


 それから再び廊下に戻り、右手側の一番奥にある部屋に足を向けた。庭に頭を突き出すようにして嗚咽を漏らしていた大家は、これ以上先を見たくないと首を大きく横に振って、同行するのを拒絶した。


 谷は大家をその場に残し、奥の部屋への扉を開いた。


 むわっとした甘ったるい匂いが鼻を刺激し、谷は顔をしかめた。


 薄暗い部屋の中には一基のベッドがあるばかりで、ほかには何も見当たらなかった。


 部屋の奥の窓には内側から格子がはめられた窓があって、その窓ガラスは何かで固定されているらしく、全く開けることができなかった。


 その時、背後から聞こえてきた大家の悲鳴に、谷は慌てて引き返した。相変わらず廊下から庭に頭を突き出していた大家だったが、口をパクパクさせながら、庭の何かを指差していた。


 その先に目を向けてみれば、転々と小さな血痕が見てとれた。それらは庭の井戸まで続いており、谷は裸足のまま庭に降りると井戸まで歩み寄り、ぽっかりと口を開いた井戸の中を、ゆっくりと覗き込んだ。


 真っ暗な穴の底に静かに揺蕩う漆黒の水。光すら反射しないそれは水というよりはどこまでも続く穴のようで、そしてそこにはどんなものも見当たらず、結局死体も何も見つけることは出来なかった。


 その後二人は警察に通報、すぐに捜査が始まったそうだが、結局何も解らないまま、未解決の失踪事件となったという。


 大家は畳や障子、襖など血に汚れた全てを新しいものと取り替え、散乱したゴミやその他、件の男女の持ち物は全て処分してしまった。


 ただ、一番奥の部屋のベッドだけはどうしても処分することができなかった。壁や床に固定されている訳でもないのに、動かそうとしてもビクともしなかったのだ。


 試しにベッドの足を切ってみようという話になり、電動ノコギリで切断を試みたものの、折れたのはノコギリの刃の方だった。そればかりか、その作業を行った作業員が折れた刃で負傷。結果、ベッドはもうそのままにしておこう、という話に落ち着いたのだった。


 それ以来、峠の家は誰も住まない空き家と化した。大家もあんな事があっては誰にも貸す気になれず、そのままなるに任せているうちに、廃屋のような様相になっていった。歩道にはみ出た木々の葉や枝を切るために谷が訪れる以外は、誰も近寄らない怪しげな家。


 そんな家にまつわる噂話が囁かれるようになったのは、その事件があった翌年のことだった。


『峠の廃屋のような家に、喪服姿の少女が一人で住んでいる』


 それは大家が、偶然通りかかった近所の中学生らの会話から耳にした話だった。


 俄かには信じ難い内容だった。まさか、あの家のことではないだろう。最初こそそう思っていたが、しかし日に日に大家は気が気ではなくなっていった。


 もしかしたら、あの男女の娘のことかも知れない。どこかへ姿を眩ましていた男女とともに、あの家に再び住むようになったのではないか。


 そう思うと、大家は居ても立っても居られなかった。大家は再び谷に電話をすると、あの時と同じように、ついて来てくれと懇願した。


 谷は「数日前に草葉や枝を切りにいったが、誰かが住んどるような気配はなかったぞ」と大家に答えたが、けれど大家は「それでも一度確かめたい」と言って引かなかった。


 二人はその日のうちに峠の廃屋を訪れた。人の住まなくなったその家は、歩道に面した木々こそ綺麗に刈られていたが、家自体はいつの間にか壁に蔦が絡まり、窓は風雨によって薄汚れていた。数日前に谷が掃いたとはいえ、門扉から玄関、果ては奥の庭まで地面は落ち葉に覆われていた。


 そんな中、よくよく見れば、丁度人がひとり通る程度の幅だけ落ち葉がなく、地面が剥き出しになっていた。


「や、やっぱり、あの夫婦が帰って来たんだ……!」


 大家はそう口にしたが、谷はそんなはずはない、と頑なに首を横に振った。


「なら、あの血は何だったんだ。あれだけの血が流れて、生きていられる人間なんているはずがないだろう。あの男女は客としてきた男と揉めて殺されたか、じゃなきゃ、その男を殺したんだ。で、死体はどこかに隠したが、バレるのが怖くて逃げ出したのさ。誰かが来てるように見えるのは、きっと近所の悪ガキどもが忍び込んでるからだ」


 それでも大家は谷の言うことに耳を貸さなかった。


 そのまま玄関に向かい、一年ぶりに鍵を開けた。


 ガチャリ、という音とともに玄関の扉が開け放たれ、甘ったるい、むわりとした空気が外に漏れる。それはお香のような、香水のような、それらをいくつも集めて適当に混ぜて辺りにぶちまけたような、強烈な匂いだった。


 そしてそれこそ、誰かがこの家に住んでいるという、確かな証だった。


 けれど、玄関には靴も何もなかった。一年前に片付けた時と、何一つ変わった様子はなかった。


 二人は恐る恐る靴を脱ぎ、上がり框に足をのせた。きしきしと軋む床板。そこにはあるはずの埃やチリなど見あたらず、誰かが拭いたような跡さえあった。


 そのまま廊下を進み、例の居間へと足を向ける。左手には庭を望むガラス戸、右には閉じられた居間への障子。このまま廊下を進めば突き当たりにはベッドをそのままにした部屋への扉がある。谷は障子に手をかけ、ゆっくりと引いた。


 見覚えのある部屋はしかし、あの時のままで生活感がまるでない。谷はその居間を横切り、奥の台所へと向かった。襖を開いた先にはやはり誰の姿も見あたらず、ただ窓から差し込む陽の光が、どこか怪しげに部屋の中を照らし出していた。そのまま風呂場の方も覗いてみたが、使用された形跡すらまるでなかった。


 やはりここには、誰も住んではいないのだ。


 谷は確信し、背後に居るはずの大家に顔を向け、そこでようやく大家の姿が無いことに気がついた。谷はこの時、大家はあの血塗れになった部屋が怖くて入れず、あの廊下でうじうじしているのに違いないと思ったという。


 谷は大家の気の弱さに呆れながら、廊下に戻った。


 しかし、そこにも大家の姿は見当たらなかった。


 ガラス戸を開けた様子もないから、庭に出たのではない。


 ふと右側に目を向ければ、奥の部屋の扉が開いていた。どうやら先に奥の部屋へ行ったらしい。


 谷は大家のあとを追って奥の部屋に入り――そこで、部屋の真ん中に立ち尽くす大家の姿を発見した。


「――おい、やっぱり誰も住んでなんかいないじゃないか」


 谷の言葉はしかし、大家の耳にはまるで届いていなかった。


 まるで気を失っているかのように、身動き一つしない大家の肩に手をかけながら、谷は「おい」とその肩を強く揺すった。


 瞬間、ばっと谷に振り向いた大家の、その恐怖に引き攣った顔を、谷は死ぬまで忘れないだろうと香澄に語った。


 その眼はこれまでに見たこともないほど大きく見開かれ、どこか興奮した様子の鼻の穴は、ヒクヒクと膨らんだり縮んだりを繰り返していた。口はまるで餌を求める鯉のようにパクパクと何度も何度も開いては閉じ、閉じては開いてを繰り返した。そのおでこは脂汗にまみれ、そこからいく筋もの汗が頬を伝い落ちていた。


 いったい、大家の身に何があったというのか。


「どうした、何があった?」


 谷の問いかけに対し、けれども大家は何も答えようとはしなかった。いや、正確には何度も言葉を紡ごうと試みてはいた。しかし、それをうまく口にすることが出来なかったのだろう。やがて大家は大きな溜息と共に、口を閉ざした。


「とにかく、ここを出よう」


 その提案に、大家は小さく頷いた。


 それから数日後のこと、大家は谷にこう言った。


「……あの家でのことは、これまでのことも、これからのことも、今後一切誰にも何も話さないでくれ。今まで通り、定期的に枝葉を切りに来てくれれば、それでいい」


 淡々と話すその様子のあまりの怪しさに、谷は思わず大家に問うた。


「いったい、どうしたんだ。あの時、やっぱり何かあったのか。あの部屋に誰かいたのか」


 しかし、大家はその質問には何も答えなかった。谷が何を尋ねても、ただ黙って首を横に振るだけだった。


 以来、谷は大家の願い通り、定期的に枝葉を切りに行く以外、その件を他言することは一切なかった。


 そのうち例の噂には『少女に関われば消される』という物騒なものまで付け加えられるようになったのだが、それに対しても谷は無関心を装った。


 ただ誰々が消えたという噂を耳にする度、廃屋のどこからともなく漂ってくる腐臭には、身を震わせずには居られなかった。


 噂を信じていたわけではない。ただ大家の様子を豹変させるような “何か”があの廃屋にはあるらしい、それを認めざるを得なかった。


 そして自分の後継として世話をしていた若い職人――川西裕也までもが「喪服の女性を見た」と言い出した時には、谷も心底、肝を冷やした。


 谷は何度も何度も裕也に「あの家には誰も住んではいない」、「喪服の女には一切関わるな」と繰り返し忠告したが、けれど彼は谷の忠告になど耳を貸さず、やがて噂通り、行方不明となってしまった。


 この時谷は、裕也はあの“何か”に連れていかれたのだ、そしてその“何か”は今もまだあの廃屋のどこかに潜んでいるのだ、と確信したという。

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