第12回
少女、と言って、香澄は首を横に振った。
「確かに私には、少女のように見えたの。けれどその姿は曖昧で、まるで幾重にもフィルムを重ねたような不明瞭な存在だった。存在自体がブレている、とでも言えばいいのかしら。そんな彼女を見て、私はすぐに理解した。この子はすでに生者ではない。けれど、死者でもない、って」
物怪、そう呼ぶのが適切だと香澄は思ったという。そしてズレているが故に、見える者とそうでない者、或いは見えていてもその見る者によってその姿が子供であったり大人であったりする。言わば見る者によって、認識してるフィルムが異なっているのだと言った。
そのフィルムのどれが本物の彼女なのか、香澄には判別が難しかった。何故ならば香澄には全ての姿が同時に見えていたからである。
「「「誰だ、お前」」」と彼女は香澄に言った。
その声は幾重にも重なり、複数の少女の声が同時に発せられているかのようだった。その声それぞれがかつて彼女に身体を奪われた哀れな少女達のものだと理解するのに、さほどの時間は要さなかった。
香澄は一連の行方不明事件について口にし、それらは全てあなたの仕業なのか、と問うた。少女は嗤いながら、それを肯定した。
「何故こんなことをするの? 何が目的なの?」
香澄のその問いに対して、少女はこう口にしたという。
「「「何かをするのに、目的なんて必要? 私はただ、やりたいからやっているだけ。人の苦しむ姿を見るのが楽しいから殺しているだけよ。それの何がいけないの?」」」
厄介な相手だ、と香澄は思った。何か特別な理由があったり、心残りがあるタイプなら、それを解決してやれば事は済む。けれど、こういったタイプの相手は、人に害を為す事そのものが目的と言える為に、説得というものが通用しない。或いはどうしてこのような怪異と化してしまったのか、その理由が解りさえすれば、何らかの対処法はあるのだろうけれど。
そんな香澄に、喪服少女は言った。
「「「あなたこそ何者? どうして私が見えるの? 私の邪魔をしようって言うの?」」」
「違うわ」と香澄は答えた。「あなたを止めにきたの、私。こんなことをしていたら、あなたはどんどん常闇に飲み込まれて出てこれなくなるから。そうなる前に、こんなことはすぐに止めて、在るべき場所に還りましょう?」
けれどその言葉は、当然のように受け入れられなかった。
喪服少女はそれを一笑に伏し、そしてほくそ笑みながらこう言った。
「「「ほらみなさい、やっぱり私の邪魔をするつもりだったんじゃない。もういいわ。あんたと会話するのは時間の無駄よ。でも、折角ここまで来てくれたんだもの。なにかおもてなししないとね」」」
その途端、井戸のトタン板がガタンと地に落ち、ぽっかりとその口が開かれた。
香澄は思わず振り返り、目を見張った。
井戸の中から複数の腐った人間の腕が伸びてきたかと思えば、それらは井戸の縁を掴み、ズルズルと身体を引き上げるようにして、這い出てきたのである。
その死者どもは香澄に目を向けると、カタカタと嗤い声を漏らしながらズルズルと詰め寄ってきた。わらわらと井戸から這い出てくるその数に香澄は驚愕した。いったいこれまでにどれほどの人間がこの女に殺されてきたのか、ようやく香澄はこの女の悍ましさに気付かされた。死者の数は尋常ではなく、特にその中で一際大きな肉の塊と化したモノは、見るに耐えぬ醜悪な形をしていた。香澄はそれらを祓い除けながら、ただその場を逃げるより他に手はなかったという。
その後、香澄は例のタマちゃんと呼ぶ女と共に喪服少女について調べ始めた。彼女がいつからそこにいて、いつから物怪と同化したのか、その理由はいったい何なのかを探っていく中、香澄はある一人の男と出会った。その男は峠下の須山庭園で庭師として働いている、谷という老人だった。
「須山庭園? 谷さん?」
思わず口にすると、香澄は「知っているの?」と首を傾げた。
「須山庭園は、俺が勤めてた会社の取引先で、谷さんとも何度か話をしたことがある。基本的に無口で、あの喪服の女についても何か知ってる感じはしたけど、詳しくは教えてくれなかったんだ」
「そう」と香澄は頷き、「私の時も、そうだったわ。なるべくなら話したくない、そんな感じだった」
それでも香澄はしつこく谷のもとを訪ねた。知っていることがあれば教えて欲しい。もしかしたら、あの喪服の少女を止めることができるかも知れない。その為には、あの子のこと、もっと知る必要があるの、と。
何度も何度も自分を訪ねてくる香澄に、ついに谷は折れた。けれど、その条件として、自分が話したということは、絶対に誰にも他言しないこと、今後は二度と自分を訪ねては来ないことを約束させたという。
谷の口は重く、なかなか話を始めなかった。まずはどこから話すべきか逡巡しているようだった。やがて谷は大きな溜息を吐き、話し始めた。
それは今から二十四、五年ほど前の事だった。峠のあの家には、一組の男女が住んでいた。とてもガラの悪い男女で、けれど夫婦というには年が離れ過ぎているようにも見えたという。二人が実際にどういう関係であったかは、誰も知らない。大家の話によれば、ただの同居人という話だったそうだ。
この男女がその家に住まうようになってからは、その時点で既に十年ほどが過ぎていたのだが、その頃から頻繁に複数の男らが出入りするようになった。昼も夜も関係なく、その男たちはまるで自身の顔を隠すようにしていたので、近隣住民の間でも疑念の的だったそうだ。何か良からぬことを企んでいる怪しげな集団の根城になっているのではないかと噂され、真相を確かめるべく、大家は峠の家を訪ねた。
脅された、と大家は谷に語ったという。
何故、と谷が問うと、大家は震えながら「あの家では、売春が行われているんだ」と重たい口を開いた。あの男女は自身の娘の身体を売り、男たちから金を取って生活していたのだ。そして事もあろうか、その中に大家の息子も含まれていたのである。
大家の息子は当時大学を卒業して就職したばかりだった。それがいったいどこでどう奴らと知り合ったのか、いつの間にか彼らの住まうあの峠の家を訪れ、年端もいかぬ娘の身体を買っていたというのだ。
大家はそれを明かされ、動揺した。そしてそんな動揺する大家を、あの男女は脅したのだ。これを公にすれば、当然お前の息子もただでは済まない。折角立派に大学を卒業して就職したのに、それを全て無駄にするのか、あんたは本当にそれでいいのか、と。
谷の古くからの友人である大家は、もとから気弱な性格だった。そんなふうに脅されて、我が子の可愛さも相まって受け入れざるを得なかったのだ。
もちろん谷は冗談ではないと叱責した。すぐに警察に通報するべきだと憤慨した。例え可愛い息子であろうと、それが犯罪である以上は償うべきだと言い張った。
けれど、大家は谷の言葉を受け入れなかった。その表情は、完全にあの男女に恐れ
頼むから黙っていてくれ、と大家は谷に懇願した。アレらはあんたが思っているほど生易しい人間じゃない。ああいう人間は必ず報復にくる。人に対する怨みを忘れるような人間じゃない。自分の息子には、もうあいつらには関わらないよう言い含める。だからこの件はこれで終わりだ、あんたも俺が話したことは全部忘れてくれ、お願いだから。
そう言って袖を掴まれ、涙ながらに頭を下げられた谷は、釈然としないまま渋々その大家の願いを聞き入れたという。
それから悶々とした思いを抱えたまま、数年が過ぎた。
ある時、件の大家から久しぶりに連絡があった。どうもあの峠の家の様子がおかしい。いやにひっそりとして、まるで人の気配がしないんだという。一人で様子を見に行くのは恐ろしいから、着いてきては貰えないか、と。
谷は大家と共に峠の家を訪れた。しかし、どんなに声を掛けても、誰も出てくる気配はない。そればかりか、物音一つしなかった。大家は恐る恐る合鍵で玄関の鍵を開けると、谷と共に中に入った。しんと静まりかえった玄関には、男女二人分の靴が無造作に転がっていた。傷だらけの壁。放られたゴミ屑。腐って黒くなった何かが、廊下の隅に転がっていた。この時点で、すでに猛烈な腐臭が漂っていた。
谷と大家は、これは、もしかしたら、という思いの中、上がり框に足を乗せた。きしきしとたわむ床板。転々と散る、赤黒いシミ。廊下を進めば進むほどに、腐臭は強くなっていった。最早息をする事もできないような中、開け放たれた居間の障子。二人はその居間を恐る恐る覗き込み、目を見張った。
そこには夥しい量の血痕で、部屋中の畳や壁、台所へ続く襖、果ては天井まで、赤黒く染め上げられていたのである。
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