第14回

「――また“何か”か」


 響紀が辟易したように口にすると、香澄は「仕方がないわ」と溜息を吐いた。


「私たちには解らないんだもの。その”何か“がいったい何なのか」


「だが、俺もあんたも……香澄さんも、もうすでに死んでるんだ。その“何か”側と同じ存在になったってことなんじゃないのか?」


 それに対して、香澄は首を横に振り、

「私も死んだとき、そう思ったわ。これまで知らなかった世界のこと、その“何か”の世界について知ることができるんだって。でも、違ったの。私たちは、死してなお、こちら側の存在であることに変わりはなかった。人は死んでも人なのよ。現世と幽世、この二つはそれぞれが別物なのではなくて、どちらも同じこちら側のものだったの。神や物怪は、そのこちら側とはまた別の世界、人が人としては認識することのできない別の次元、常闇の向こうに存在しているの」


 響紀にはその香澄の説明をうまく理解することができなかった。何となく、人は死んでも人の世界からは抜け出せない、というような意味なんだろうとは漠然と思ったが、現世だの幽世だの常闇だのと言われると、最早頭の理解の限界だった。


 そんなことはどうでもいい。俺はとにかく、あの女から父母や奈央を守らなければならないのだ。どうやら母があのタマとかいう女のお陰で骨折だけで済んだ、というのは解った。あの女が喪服の女の手下となった奴らを追い払った、それはいい。俺が知りたいのは、あの女が何者で、どうすれば父母や奈央を守ることができるのか、それだけだ。


「私はその谷さんの話を聞いて、彼女――たぶん、件の男女の娘――が物怪と同化したその時を理解したわ」と香澄は話を続けた。「彼女は何らかの理由で、井戸の底に眠る常闇に接触して化生の者となり、人を喰らうようになった。たぶん、最初に殺したのは自分の父と母。娘の身体を売っていたって話だったから、きっとそれが彼女を狂わせた一番の原因だと私は思うの。そして彼女にとって、自分を抱いた男もまた同罪だった。男を誑かしてあの家に誘い込み、殺しているのはその為よ。そして男たちを誑かすためには、若い女としての身体が必要だった。けれど、化生となった彼女の身体はすでに半分死んでいるから、時と共に朽ちていく。それ故に、彼女は身体が朽ちる前に、新たな身体を手に入れる必要があるの」


「じゃぁ、それに対して俺はどうすればいい?」響紀は前のめりになるようにして、香澄に顔を近づける。「早くしないと、あいつは奈央の身体を手に入れて、また別の男を誑かして殺して喰うってことだろう?」


 そうね、と香澄は頷き、じっと響紀の顔を見つめた。その澄んだ瞳は薄灰色で、見ているとどこかへ吸い込まれそうな不思議な感覚がした。そう言えば、結奈も同じような瞳の色をしていた気がする。しかし……


「な、なんだよ。そんなにじろじろ俺の顔を見て」


 あまりにまじまじと顔を見られるので、響紀は思わず身を引きながらそう口にした。


 香澄は口元に笑みを湛えながら、

「それはまだ私には解らない。けれど、全てはあなた次第なんじゃないか、って思っているわ。だってあなたは、あの子のもとから逃げだせた、唯一の人なのだから」


 え、と口を開く響紀に、香澄は続ける。


「きっと水が合わなかっただけではないと私は思うの。あなたは他の人にはない“何か”を持っている。だからあなたは、あの子に完全には絡め取られなかった。それが“何か”はまだ私には解らないけれど、きっとその何かが、あの子を救う力になると思っているわ」


 “何か” また、 “何か” だ。


 それはもう、本当に聞き飽きるくらいに聞き飽きた曖昧過ぎる単語だった。


 “何か”って、何だよ。結局何も解らないってことなんじゃないのか? 


 あの喪服女を止める方法なんて、どこにも無いってことなんじゃないのか? 


 そんな曖昧な言葉ではぐらかしているだけなんじゃないのか、このババアは。


 そんなことを考えていると、香澄は何が可笑しいのか「ふふっ」とこぼしながら口を開いた。


「その“何か”は、あなた自身が気付かないといけない。それに気づくことが出来れば、きっとあの子を止められる。あの子を説得することができる。私はそう信じているわ」


 響紀は忌々しく思いながら、チッと舌打ちし、

「それじゃぁ、何も解らないじゃないか。結局俺はどうしたら良いんだよ。何が出来るんだよ。その“何か”ってのが解るまでの間に、奈央の身に何かあったらどうするんだよ!」

 響紀は腹立ち紛れに叫んでいたが、しかし香澄は、ただただ微笑むだけだった。


 それから香澄はやおら立ち上がると、

「それじゃぁ、私はそろそろ行くわね」

 そう言い残して、背を向けようとする。


「ちょ、ちょっと待てよ! それだけか? 他に何かあるだろう? あんたはどうなんだよ。あんた、霊能力者とかいう奴なんだろ? 結奈からそう聞いてるぞ。あんたなら何とか出来るんじゃないか? 死んでもなおその手の相談を受けて、あっちこっち行ってるんだろう? なら、手伝ってくれよ。って言うか、あんたがその力でアイツを何とか――」


「ごめんなさい、私には無理なのよ」


 響紀の言葉を遮るように、香澄は背を向けたままそう言った。


「な、何で」と尋ねる響紀に、


「あの子は私を警戒してる。私が近づくと、その姿を常闇に隠してしまうの。これまで何度もあの子へ接触を試みたけれど、あの日以来、ただの一度も会えていないわ。私がいると逃げてしまうのに、私に出来ることなんて、何もないでしょう? だから私はあなたに頼むより他に何も……」


 そこではっと何かに気付いたように、


「いいえ、ひとつだけ、これがあるわ」


 そう言って香澄は響紀に振り向くと胸元からすっと何かを取り出し、それを響紀の目の前に差し出した。それは可愛らしい空色の、レースのブレスレットだった。中心には綺麗な花の刺繍が施されており、小さな白い鳥居のついたチェーンで腕に巻き付けるようになっていた。


「これ、私が作ったお守りなの。それを付けている限り、アレらは貴方には触れられないはずよ」


 どうぞ、と手渡されて、響紀はそれを矯めつ眇めつする。


「本当に、こんなものにそんな力があるのか?」


 その問いに、香澄は静かに頷いた。


 響紀は小さくため息を吐いてから、右手首にそのブレスレットを巻いてみる。


 手作りなのだろうか、少し歪んだ箇所があるが、そこがまたなんとも味があって良い感じだ。香澄が言うような力が本当にあるのか疑わしく思えてしまうほどに可愛らしいデザインだが、今は他に頼れるものがあるわけでもない。香澄の言葉を、信じるしかなかった。


「じゃぁ、またね」と香澄は再び響紀に背を向けながら、「何か困ったことがあったら、結奈を訪ねて。あの子ならきっと、あなたの力になってくれるだろうから」


 そう言って、スタスタと歩き始めて。


「あ、ちょ、ちょっと待って……!」


 慌てる響紀の目の前で、すぅっとその姿を闇に溶かすように、消えてしまったのだった。


 響紀は香澄の消えて行った方向を、ただ見つめることしかできなかった。

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