第13回
血走る眼は奈央を捉えて離さず、少女はすっとその両手を伸ばしながら、
「私ね、ずっと貴女が欲しかったの…… 貴女の髪が、眼が、鼻が、口が…… それだけじゃなくて、貴女の全部が欲しかったの。次に手に入れるとしたら、貴女以外には考えられなかったわ。けれどね、無理矢理は駄目。なかなか溶け合うことができないから。貴女が絶望して、全てを私に委ねてくれるようにしなければならなかったの」
ぼとり、と何かが床の上に落ちる音がした。見れば、女の足下に赤黒い塊が落ちている。今しがた奈央が吐き出したものと同じ姿のそれは、ピクピク痙攣するとじわりじわりと床の間に溶け込みやがて消えていった。あとには赤黒いシミだけが血のように生々しく残る。
奈央にはこの女が何を言っているのか、そして今目の前で何が起こっているのか、全く理解することが出来なかった。
そこにあるのは恐怖と焦り、そして戸惑いと身の危険。
先程目の当たりにした母の亡き骸とそれを激しく犯す異形が脳裏に浮かび、今にも心が砕け散ってしまいそうになる。
少女はそんな奈央を嘲笑い、甚振り楽しむように舌舐めずりした。
「ほら、その顔……まるで私が父や母らを殺した時とおんなじ。助けを求めても無駄だって理解した時の、その表情が一番好き。貴女のお母さんもね、凄くいい顔をしていたわ。もう助からないんだって悟った時の、あの姿…… 今の貴女とまったく一緒……」
少女はニヤリと口元を綻ばせ、目を見開きながら奈央の肩に手をやる。
「……ひっ!」
小さな悲鳴を上げた奈央はしかし、硬直したまま逃げ出すことすら出来なかった。
頭の中は、この先わが身に降り掛かるであろう想像を絶する恐怖に支配され、唯一の望みは“どうかこの恐怖が一刻も早く終わりますように”という、ただそれだけに取って代わられていた。
口を僅かに開いたまま、わなわなと身を強張らせ震えるだけの奈央に、少女は微笑みを浮かべる。
「すぐに終わるから、安心して。私は貴女と一つになるの。もう、この身体は限界なのよ。私は私を留めておけない、澱み過ぎて崩れちゃうの。時間がないわ。さあ、その身体を私に預けて。貴女の身体を私に頂戴」
そう言った女の顔がゆらゆらと不気味に波打ち、瞬く間に老婆のそれへと変貌した。そして再びぐにゃりと歪み、少女の姿に変化する。その身体は曖昧で縮んだり膨らんだりを繰り返し、ぼたりぼたりと赤黒い塊を次々廊下に落とした。
女の顔は赤暗く変色し、目は皿のように見開かれ、かつての美しさの一欠片もそこにはなかった。
奈央は悲鳴を上げようとして口を開きかけて。
「――きゃ……んぐぅっ!」
その口を塞ぐようにして、少女は唇を重ねてきた。
あまりの事に奈央は驚愕する。
口内を蠢く女の舌を拒むように奈央は顔を左右に振ったが、けれど女も決して離すまいと奈央の頰を両手で挟んだ。
女の舌は暫く口内を彷徨い、やがて喉の奥へと侵入してきた。そればかりか、食道の奥へと這うように奈央の体内を侵し始めた。その不快感に奈央は呼吸を失い、苦しみに悶えた。声にならない悲鳴と嗚咽。窒息死させんがばかりに奈央の胃の腑へ向かってソレは激しく蠢く。
腹の中に異物が挿入される恐怖と痛みに奈央の目から涙が溢れた。
このまま死ぬのか。ここで殺されるのか。
こんな訳の解らない奴に、私は……!
意識が遠のいていく中、奈央の脳裏には様々な景色や人々が浮かんでは消えていった。
父、小母、小父、響紀、そして……大樹。
あの後、大樹はどうしただろう。私が姿を消して、今頃何を思っているだろうか。必死に私を探してくれているだろうか。それとも――
目の前に闇が広がりつつあった。最早何も考えられない。目前に差し迫る死に対して、抗う気力すら失いつつあった。
死ぬの? 私……
ぼこんっと腹の中で何かが跳ね、奈央の身体が持ち上がった。少女はなおも奈央と唇を重ねたまま、その何かを奈央の体内へと流し込んでくる。
……嫌だ……こんなの、嫌だ……!
自分の身体に何者かが侵入し、それが自分という存在そのものを別の何かに変えようとしているのが感覚で解った。自分が自分ではなくなっていくようなその不快感に奈央は恐怖し、絶望する。
……やめて……嫌だ、やめて……!!
手足が震えて力が入らない。暴れたいのに、この女を跳ね除けたいのに、自分の身体ではないようにまるで動かない。
……嫌……嫌だ……嫌、嫌、嫌、嫌、嫌!!
その時だった。
奈央の左腕のブレスレットから僅かに熱を感じたのだ。見れば、ブレスレットが淡く白く輝いて見える。掌に力を込めても握る事は叶わなかったが、肘や肩ならまだ上がりそうだ。
これが御守りの力なのかは判らないけれど、いける。
思い、奈央はぐっと左腕に力を込めた。本当ならこの女の顔を殴ってやりたかったが、拳を握り締められない以上、仕方がない。
奈央は左腕に全神経を集中させ、手のひらで一気に女の顔を正面から押しやった。
その途端、ずるりとした感触が左手に伝わる。見れば、女の顔がべろりと抉れ、ドス黒い中身が露わになっていた。
「ああっ……あぁぁっ!」
女は叫び、呻き、奈央から飛び跳ねるようにして離れると、両手で顔を覆いながら狭い廊下を激しくのたうち回った。
ガツンッとその身体がガラス戸に衝突し、グラリと揺れたガラス戸はゆらりと外れ、庭に落下する。その途端、甲高い音と共にガラスが粉々に砕け散った。
奈央は咳き込み、えずき、腹の中から這い上がる何かを開け放たれた縁の下へと盛大に吐き出した。赤黒い塊が次から次へと吐き出される。
それらはずるずると地面の上で悶え蠢き、やがて弾けて土に溶けていった。あとに残るのは夥しい血のような赤。ぺっと唾を吐き、しかしそれでも口の中や胃の中の異物感全てを拭い去る事は出来なかった。
奈央は大きく息を吸い、吐き、何とか呼吸を整えるとふと女の方に顔を向け、そして目を見張った。
身体中の肉がズルズルと溶け落ちながらも、今だギラギラした眼で奈央を睨みつけ立ち上がる少女の姿が、そこにはあった。
いや、最早少女は人ではなかった。
人であろうと藻掻くその異形の化物は、奈央を見据えたまま、足を引き摺るように近付いてくる。どろどろに溶け始めたその身体からは、次々に赤黒い塊がべちゃべちゃと落ちていった。
奈央はそんな女を恐怖に引き攣った顔で見つめながら、半ば落ちるようにして庭に降りた。尻を地につけたまま、這うように後退りながら逃げる。
今一度助けを求めてブレスレットに触れてみたが、けれど如何なる力もそこからは感じられなかった。泥に塗れたそれは沈黙し、元のように只のアクセサリーになってしまったようだ。
何とかして逃げようと膝を踏ん張り立ち上がろうと試みたが、しかし震える膝はまるで言うことを聞いてはくれなかった。立ち上がることすらままならず、奈央はかつて人の姿をしていたソレに背を向け、匍匐前進するよう必死に地を掻いた。
「にが…さ…な……わた、し……から…だ……!」
背後に迫る女の呻き声。
ぼたぼたと地を叩く異物の音。
歩く度に地を引き摺るその足音に、奈央は再び背後を振り向いた。
「……ひぃっ!」
瞬間、奈央は息を飲み込む。
すぐ目の前に、凡そ人の顔とも思えない赤黒い肉塊があって、真ん丸い目玉がギョロギョロと奈央を見据え、裂けた口からはあの赤黒い蛭のような塊がまるで舌のようにウネウネと蠢いていたのである。
その恐怖と顔に掛かる息の生臭さに、奈央は今にも気が遠くなりそうだった。ドロドロの腕が奈央の顔に伸ばされ、もう駄目だ、と固く目を閉じた時だった。
「……奈央!」
聞き覚えのある声が耳に入り、奈央は思わずばっと瞼を開いた。
まさか、大樹が……?
そう思ったけれど、声の質が明らかに違う。
あの声は……
「……あっ」
その途端、奈央は目を見張り、小さく声を漏らした。
そこには女の身体に掴みかかり、力一杯に奈央から押しやろうとする――響紀の背中があったのだ。
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