第12回

 二人の足音が隣の部屋へ消えてからも、奈央はしばらくの間畳の上で身体を縮こまらせたまま微動だにせず、ただ襖を見つめることしかできなかった。静寂に包まれた部屋の中で聞こえてくるのは自身の乱れた呼吸のみ、しかしその呼吸もやがては落ち着き、無音がその場を支配した。


 誰も居なくなった部屋の中で、奈央はゆっくりと立ち上がった。ガクガクと震える膝を両手で支えながら、何とか一歩、足を踏み出す。


 逃げなくちゃ――


 奈央の脳裏に浮かんだのは、ただそれだけだった。


 母や響紀のことは確かに気になる。隣の部屋で何をしているのか、想像するのは簡単だったが、しかしそれを受け入れてしまうと自分の中の何かが音を立てて崩れてしまいそうで、とにかく今はそんな事を考えられるほどの余裕など無かったのだ。


 奈央は襖に手を掛け、それをすっと横にスライドさせる。先程母と対峙していた時には開けなかった襖が、今は響紀が現れた時と同じように簡単に開いた。すぐ目の前、ガラス戸を挟んだ向こう側に見えるのは、あの荒れ果てた小さな庭。僅かに見える空は相変わらずの曇天で、やはり世界を灰色一色に染めている。


 奈央は廊下に出るとガラス戸に手を掛けた。カタリと枠が鳴り、思わず背筋に怖気が走る。音に気付いた母や響紀が隣の部屋から飛び出してくるのではないかと恐怖したが、そんな気配はない。しかし、ここはなるべく音を立てずに玄関まで歩き、そこから外へ出た方がいい。


 そう思い玄関の方に体を向けた時、カチャンッ、と背後で音がして奈央は目を見張り立ち止まった。再び息が荒くなり、手足や膝が震え出す。


 見つかった……!


 思いながら、奈央はゆっくりと後ろを振り向く。


 その突き当たりに見えるのは、爪か何かで引っ掻いたような無数の傷が刻まれた茶色いドア。その僅かに開かれた隙間からは、何か激しい物音が聞こえてくる。耳を澄ませば「ふんふん」という荒々しい息遣い。パンパンと柏手を打つような音が何度も響き、ピチャピチャと水の散る音が混じる。


 いったい、アレは何の音か。あの部屋で何が行われているのか。


 奈央はそんな疑問を振り払い、今はとにかく逃げるんだ、と更に一歩踏み出そうとして――何故かそのドアの方へ向かって歩んでいた。


 ダメ、ダメよ! そっちじゃない! 逃げなくちゃ! 逃げて助けを求めなくちゃ!!


 けれど体は言う事を聞かず、気づけばその隙間から部屋の中を覗き込む自分の姿があった。


 暗がりの中を、奈央の視線が何かを探し求めるように彷徨い動く。


 果たしてそこに見えたのは、複数の人影。こちらに虚ろな瞳を向けて仰向けに寝転がる全裸の母に、何人もの黒い人影が群がっている。ある者は激しく腰を打ち鳴らして母を犯し、またある者はその血に染まる白い太ももに喰らいつく。振り乱された髪を一心不乱に己の逸物に絡ませ乱暴に扱う者や、中にはそのしなやかな指先を喰い千切り、咀嚼している者の姿さえあった。畳に広がるどす黒い闇は恐らく血溜まりで。


 その地獄絵図のような光景に、奈央は激しく動揺した。息をすることすらままならず、悲鳴すらあげられなかった。自分が今何を目にしているのか把握し切れず、けれど体の反応は正直だった。胃の腑から駆け上がってくる吐き気に抗えず、奈央はドアの隙間から身を引き、廊下に盛大に嘔吐する。


 そしてその吐瀉物を目にしたとき、

「――っ!」

 思わず息を飲んだ。


 そこには赤黒いネバネバした何かが広がっていたのである。


 最初奈央はそれを血だと思った。あまりのことに私は血反吐をぶちまけてしまったのだと焦りを感じた。けれど、その赤黒いものが激しく蠢き始めたのを眼にし、更なる恐怖が全身を駆け巡った。それはまるでナメクジか何かのようにウネウネとのたうち回り、廊下を転がり始めたのだ。


 何、何なの、これは! 嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!


 奈央は自身が吐き出したその蠢く何かから逃れようと後退り、とんっと背中に何かが触れて更に目を見張った。振り返ろうとしたところで、すっと奈央の両肩に白い手が触れる。


「――ひっ!」


 小さく悲鳴を漏らす奈央の耳元で、

「ほら、だから覗くなって言ったでしょう?」

 聞き覚えのある少女の声が、嘲るように囁いた。


 その瞬間、奈央は反射的にガラス戸側へ身を寄せるようにして体を翻した。ガンッとガラスの鳴る音が背後で響き、それ以上は逃げられない事実を奈央に突きつける。


 目の前にはニタニタと気味の悪い笑みを浮かべる喪服の少女。


 奈央の怯える姿が余程楽しいのか、喉の奥からはくつくつと嘲笑う声が漏れている。


 顔や袖から覗く手や腕には赤黒い斑点が無数に浮かび、それがまだ白く残る皮膚と相まって、異様な姿に見えた。


 化け物――!


 奈央は大きく目を見張り、戦慄した。

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