第14回

「は……な、せ……わた……しの………から……だあぁっ!」


 だらだらと崩れゆく身体で呻く女を、響紀はしっかりと抱き締めるようにして井戸の方へとじりじり押しやっていく。


 これは、いったい――なんで、響紀が……?


 先ほど母と口づけを交わしていたあの雰囲気とはまるで異なり、その顔は奈央の知るあの不機嫌そうな表情そのものだった。けれどその身体は酷く頼りなく揺らめき、今にも消え去ってしまいそうなほど心許ない。


 どういうこと? なんで? どうして?


 戸惑う奈央に、響紀は視線を寄越しながら「奈央! 」と大きく叫んだ。


「俺がこいつを井戸の中に引きずり下ろす! お前はすぐに蓋を閉じろ!」


 その言葉に、奈央は更に戸惑いを隠せなかった。


 井戸? 引きずり下ろす? 蓋? 


 あたふたと視点を彷徨わせる奈央に、


「井戸の下だ! そこに見えるだろうが!」


 その怒号に、しかし奈央はどこか懐かしさを感じていた。あれは間違いなく私の良く知る響紀だと思うのと同時に、だが今はそれどころじゃないとばかりに、井戸の下に視線を向ける。


 目を凝らせば、草葉の影に如何にも蓋として使用していたのであろう、大きさのトタン板が転がっているのが見えた。


 奈央は響紀に返答しようとしたが声が出ず、代わりにコクコクと頷いてみせる。


 響紀はそれを見て頷き返すと、女の方に向き直り、


「――帰ろう、一緒に」


 その瞬間、女の目が響紀の顔に向けられた。呻き声を漏らしていた口がぽかんと開かれ、その勢いが僅かに衰える。


 それを見計らったかのように、響紀は女の身体を一気に井戸へと押しやった。


 女ははっと我に返り、

「あぁぁ――あぁあ! ああああぁぁぁぁああぁぁああぁぁ――――――――!」

 絶叫し、激しく暴れだしたが、けれどその時にはすでにすぐ後ろに井戸の口が迫っていた。


「俺の家族に、手を出すなぁああぁ―――!」


 叫び声と共に、響紀と女の身体が井戸の中へと落ちていく。


 遠ざかる叫びを聞きながら奈央はしばらく荒い息を繰り返していたが、

「ふ、蓋を……!」

 響紀に言われたことを思い出し、精一杯の力を込めて立ち上がった。


 嘲るように笑う膝を必死に叱咤しながら、奈央はふらふらと井戸へと進む。


 草葉の間から古びたトタン板を持ち上げ、井戸の口に蓋をしようとしたところで。


「………っ!」


 ずるりと女がその上半身を覗かせ、視線が交わった。


 女は嬉しそうに口を歪ませ、大きく見開かれた目玉をギョロギョロさせながら、驚愕のあまり動けなくなった奈央に崩れかけた腕を伸ばした。


「から、だ……わた、し……の……!」


 勝ち誇ったように、女はにたりと笑む。


 奈央は咄嗟の事に身動きが取れず、ただその不気味な顔を見つめることしか出来なかった。


 全身が総毛立ち、絶望を極める。


 原型を留めないドロドロとした女の手がすぐ目の前に差し迫り、今まさに奈央の左腕を掴もうとする。


 ひ、ひひっと女は小さく嗤い、

「わた……し、の……か、ら、だ……!」

 がっしりと奈央の左手首を掴み、井戸の中へ引き摺り込もうと強引にその腕を引っぱった。


「い、いやぁっ……!」


 奈央は恐怖に青ざめ、左腕を無茶苦茶に振り回した。その衝撃でトタン板がかつんと、地に落ちる。


 女の不気味な嗤い声が辺りに響き渡り、ぐいっと手繰り寄せられた、その時だった。


 女の手の肉がずるりと溶け落ち、滑るようにしてブレスレットに指が掛かったのだ。


 その瞬間、ブレスレットが強い光を放ったかと思うと、ばちんっと大きな音がしてぶつりと結び目が解けた。


「あっ……!」


 と奈央が声を上げた時には女の手は泥が崩れ落ちるようにダラダラとその形を無くし、


「あぁぁっ! ああぁぁ……っ!」


 再び井戸の闇へと落ちていった。


 奈央は一瞬呆然としたが、すぐにトタン板を拾い上げ、井戸の口を急いで塞いだ。


 しばらくの間隙間から女の声が漏れ聞こえてきたが、けれどそれもやがては遠のき聞こえなくなり、次第に辺りに静寂が戻っていった。


 ざわざわと木の葉のざわめく音が聞こえ、すっと周囲に彩りが戻っていく。


 奈央は肩で息をしながら、どさりと地面に崩折れた。


 耳を澄ませば遠くから車の走行音が近付き、やがて前の道路を走り去っていく気配を感じた。


 空を見上げれば雲間からは青空が覗き、陽の光が庭に差し込みはじめる。そこにはただ、荒れた庭があるだけだった。先程まで転がっていた異形の肉片すら、すでにそこには見受けられない。


「……お! ……奈央!」


 どこからか聞こえてくる声に、奈央は頭を上げた。


 この声は、大樹だ。大樹が私を探してる……!


 しかし、返事をしようにも何故か声が出せない。喉の奥に何かが詰まっているような感覚に、奈央はぺっと唾を吐き出した。


「……っ!」


 吐き出されたのは、赤黒い小さな塊だった。


 奈央は思わず目を見張り、しかしその塊もまた陽の光に当たるとじゅっと音を立てて蒸発するように消えてしまう。


「奈央!」


 すぐ近くから大樹の声が聞こえ、奈央は顔を向けた。見れば廃屋の影、玄関の方から姿を現した大樹が奈央の姿に気付き、慌てたようにこちらに掛けてくるところだった。


 大樹は奈央の身体を抱き起こしながら、


「大丈夫? 痛いところとかない? 何があったの?」


 そんな大樹の温もりが伝わってきて、奈央は堰を切ったように嗚咽と涙を溢れさせた。


 大声で泣きじゃくりながら、大樹の身体にしがみつく。


 そんな奈央の様子に大樹は戸惑いつつも、けれどそれ以上は何も聞かず、ただしっかり受け止めるように、ぎゅっと奈央の身体を抱きしめてくれるのだった。

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