第9回

 いつも登る峠道の景色は何も変わらずそのままで、けれどやはり何処にも人のいる気配はしなかった。ただひっそりとした灰色が、どこまでもどこまでも続いている。足元は先ほどの雨の影響か、それとも最初からそうなのか、ちょろちょろと山頂から流れる水に濡れていた。


 ふと傍らに目を向ければ、そこには崩れた祠の跡があった。奈央の覚えている限り、その祠は近所の老人達によって、常に掃き清められているはずだった。それなのに、今目の前に見えているそれは粉々に砕け散っており、明らかに破壊されてから相当な年月を経ているように見えた。奈央はそれ程信仰心のある方では無かったが、見ていて気持ちのいいものでは決してなかった。


 それを尻目に二人は更に歩みを進め、いくつかの民家の前を通過する。人の居るような気配はまるでなく、ただ異様な存在感だけがそこにはあった。こちらを向いた窓の向こう側に見えるのは、ぼんやりとした怪しげな闇。その外観もまた蝋燭の火のようにゆらゆらと揺らめいていた。


 やがて山頂付近に差し掛かり、

「さあ、着いたわ」

 少女は言って、立ち止まった。


 奈央も歩みを止め、それを見上げる。


「ここが、私の家よ」


 そう言って少女が門扉を開けた先には、奈央もよく知る、あの廃屋が聳え建っていた。


 奈央は尻込みしながら、けれど少女の後ろについて先へ進んだ。玄関扉が開けられ、先に入った少女から、促されるようにして足を中へ踏み入れる。その途端、強い芳香が奈央の鼻を刺激し、思わず激しくむせ返った。いったい何の匂いだろうと見回せば、玄関の至る所にドライフラワーが吊り下げられている。その余りの数に奈央は驚愕し、その強烈な芳香に目眩さえ覚えた。


「なんで、こんなに……」


 思わず口に出ていた言葉に、少女は振り向きながら、

「……知りたい?」

 と影のある笑みを浮かべ、奈央は慌てて首を横に振った。


 どう考えてもまともな答えは期待できそうになかったし、嫌な事を連想させるような理由なら最初から聞きたくもなかった。


 少女は短く「そう」と返すと、「上がって」と言って目の前の廊下を歩き始めた。


 奈央も靴を脱ぐと、一定の距離を保ったまま、少女の後ろをついて歩く。廊下は右へ折れると、庭をのぞむように奥へと続いていた。ガラスの引き戸から見える庭は荒れ放題で、道路に面した木々が綺麗に刈られていることを除けば、落ち葉や枯れ枝、その他名も知らぬ雑草や蔦に支配され凄惨を極めていた。片隅にはコンクリートで出来た井戸がひっそりと口を開け、脇には黒く煤けた小さな焼却炉が見える。その奥にうっすらと見えるのはかつての池の跡か何かだろうか。今はすっかり草葉に覆い隠され、その姿を隠していた。


 眼の前を行く少女はどういう訳か廊下の左側、ガラスの引き戸側すれすれを歩いている。奈央自身はあまり気にせず真ん中を歩いていたが、後ろから見ていて少女のその行動は、異様なほど意識して端を歩いているように見えた。


「――お前は廊下の端を歩け」


 低い声で少女は言って、唐突に立ち止まった。


 奈央は思わず「ひっ」と叫び、慌てて端に身体を寄せる。


「昔、母がよく私に言っていた言葉よ」


 そう言いながら少女は首を捻って後ろの奈央を振り向くと、感情の希薄な表情を浮かべた。


「……どういうこと?」


 眉間に皺を寄せる奈央に、少女は淡々とした様子で口を開いた。


「――汚い私は道の真ん中を歩いちゃいけない、そういう意味よ」


「……汚い?」


 眉を顰める奈央に、少女はゆっくりと口を開いた。


「私は、父や母に言われるがまま、沢山の男たちの相手をしていたの。お金を貰って、沢山の精を受けて、沢山汚れて、そんな身体のまま廊下を歩くんじゃないって、母は私をよく叩いたわ。父はそういったことは気にしないような人間だったけれど、母はとても厳しかったの。穢れたお前が通っていい道なんて、どこにもないんだ。だから、歩くのなら、せめて端を歩けって。私はいつも怒られていた。その癖が今も抜けないのよ。もう、あの二人は居ないのにね……」


 奈央はその少女の言葉に、思わず息を飲んだ。


 少女は表情一つ変えずにそれを口にしたけれど、それがどういうことなのか、奈央には十分に理解することができる。自身の母親の姿が思い浮かび、或いは私もこの少女と同じような目に遭っていたかも知れないのだと思うと、胸が苦しくて仕方がなかった。


 お金を貰って、沢山の男たちの相手をしていた、精を受けていた。それだけでも信じられないくらいに酷い話だというのに、加えて母親にまで虐げられていただなんて――


 けれど少女自身は、それがまるで何てことのない過去話であったかのような振る舞いで奈央に再び微笑み、

「……まぁ、昔の話よ。さぁ、こっちよ」

 右手側に見える襖を指し示し、手をかけた。


 奈央は複雑な思いを胸中に抱えたまま、けれどそんな少女に掛ける言葉も思い浮かばず、その後をただついて歩くことしかできなかった。

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