第10回

 襖を抜けた先は居間と思しき六畳ほどの部屋で、その中央には長方形のちゃぶ台と、それを挟むようにして二枚の座布団が敷かれていた。それ以外に他に物はなく、部屋全体がどこか重たい空気に満ち満ちている。どこからか漂ってくる生臭いにおいに奈央は眉間に皺を寄せつつ、少女に促されるように腰を下ろした。


「――響紀は、どこ?」


 奈央は左腕のブレスレットをぎゅっと握り締め、少女の顔を睨みつけるようにしながら問う。


 そんな奈央に対して、少女は「単刀直入ね」と言って口元にうっすらと笑みを浮かべた。


「大丈夫、そのうち会えるわ。あの人は、必ずここに戻ってくるはずだから」


「どういうこと?」と奈央は腰を僅かに浮かし、すぐにでも立ち上がる態勢をとりながら、「もしかして、私を騙したの?」


「私は貴女を騙したりなんかしていないわ」 言って少女はくつくつ嗤った。「だって、響紀さんに会いたいか、としか、私は訊ねていないんだもの。貴女が勝手に勘違いしただけ」


 その瞬間、奈央は咄嗟に立ち上がると一刻も早くこの場から立ち去らなければ、という思いに駆られながら襖まで走り寄り、力一杯左右に力を込めた。けれど襖は一寸たりとも動かず、押しても叩いても全く開く気配がない。まるで見た目はそのままに、壁と化してしまったかのようだ。焦る気持ちは汗となって現れ、奈央の身体をびっしょりと濡らしていく。


「どうしたの、そんなに慌てて」


 背後から少女の声がして、奈央は目を見張り振り返った。すぐ目の前に少女の白い顔があって、後退りすることも出来ないまま、

「んんっ!」

 突然、奈央の唇に少女の唇が重ねられ、心臓が激しく脈を打った。


 口腔内に侵入してくる少女の舌に奈央は戸惑い、けれどあまりの恐怖にそれを拒むことすら出来なかった。甘ったるい花の香りに混じる生臭いにおいに眩暈を覚えつつ、奈央の口腔内を少女の舌が何かを探るように激しく蠢く。


 そして次の瞬間、何かドロリとしたものが少女の舌を通じて喉の奥に流し込まれるのを感じ、奈央は反射的に少女の身体を力一杯押し倒していた。


「ぎゃっ!」


 少女は短く悲鳴を上げ、畳の上に倒れこむ。


 奈央は自身の腕に巻かれたブレスレットに気付き、次いで今し方押し倒した少女に目をやった。何らかの効果を期待したけれど。


「……酷いじゃない。押し倒すだなんて」


 少女は口元に怪しげな笑みを浮かべながら手をつき、ゆっくりと身体を起こす。


 奈央はブレスレットの無力さを目の当たりにし、愕然とした。


 何が必ず貴女を守ってくれるよ! 何も起こらないじゃない!


 そう思いながら、ゆらゆらと身体を揺らすように立ち上がる少女を怯えながら見つめる。


 少女は猫背の状態から、恨めしそうに奈央を見上げてきた。乱れた髪が顔を覆い、より一層その恐ろしさが増して見える。


 少女はにたりと笑みを浮かべ、乱れた髪を手で梳きながら背筋を伸ばしつつ、

「まあ、いいわ。私も急過ぎたもの、取り乱しても仕方がない。ごめんなさい」

 その泰然とした様子に、返って奈央の心は掻き乱された。


 閉じ込められ、もはや逃げ場のないこの状況。与えられたお守りのブレスレットはまるで役には立たず、あとはこの少女に好きなようにされるのを待つ虜囚の我が身。


 辞めておけば良かった。あのまま、コンビニの前から動かなければ良かった。もしかしたら、待っていれば大樹くんが助けに来てくれていたかもしれないのに。


 ……助けて。


 奈央はただ、そう願うことしかできなかった。


 助けて、大樹くん……!


「もしかして、愛しい彼の事を考えているの?」


 そんな奈央に、少女は嘲るような笑みを浮かべた。


「哀れね。まさか、本当に彼が貴女を助けに来てくれるとでも思っているの? 下心も無しに愛しているなんて思っているの? そんなの、ただの妄想で、幻想よ」


「な、なにが、言いたいの……?」


 絞り出すように、奈央は問う。


「わたしも、そうだった。愛してるという言葉の意味もわからないまま、ただ言われるがまま、されるがまま、それが愛というものだと思っていた。だけど、いつしか気づいたのよ。違う、そうじゃないんだって。わたしはただ彼らの愛玩物で、お人形でしかなかったんだって」

 だからね、と少女はにたりと嗤い、

「わたし、思ったの。だったら、それを逆に利用できるんじゃないかって。自ら身体を晒せば、彼らはわたしの言うことを何でも聞いてくれるんじゃないかって」


 いったい、何の話をしているんだろう。何を言おうとしているのだろう。


「貴女だって同じでしょう? 自分が身体を晒せば男達は自分を愛してくれる、何だって言う事を聞いてくれる。そう思ったからこそ、あの男の子を誑かしたのでしょう?」


「ち、違う」奈央はその言葉に、咄嗟に返した。「私は、そんなつもりで木村くんを誘ったんじゃない。私は、私が木村くんを好きだから――」


「嘘よ」と少女は確信したように口にする。「貴方はただ愛して欲しくて、何でも言うことを聞いてくれる男が欲しくて、彼を誑かしたのよ。私には解る。貴女も、私と一緒だから」


「なんで、どうしてそう言い切れる訳?」


 思わず声を荒らげる奈央に、

「だって――」

 と少女は不意に顔を伏せると、怪しげに嗤い声を漏らしながら、ゆっくりと顔を上げた。


 その瞬間、「えっ」と奈央は驚愕のあまり思考が停止する。


「――だって私は、貴女の母親なんだから」


 見間違うことなき、母の口が、そう告げた。

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